66、小さな影
近くでのんびりと馬の手入れをしていた御者に礼を言い馬屋の方へ案内した。飼い葉と水はそこなら提供してくれる。そこで草と馬糞の匂いを存分に味わい、僕は母を待とうと母屋の方へ戻ろうとした。
と、狭い路地を通り抜けようとしたとき、ヘンリーを見かけた。ヘンリーは最近の僕の仕事を引き継ぐようになり、その仕事のスキルはさすがだった。いつものように涼やかなプラチナブロンドを簡単に結び、その衣服は質素なものだ。そのおかげか知らないが、労働者達は新たな経営者に親近感を持っているようだ。そのヘンリーが誰かと話し込んでいる。
「こんにちは、ウィンスレットさん」
僕は軽く挨拶をしてすぐに立ち去る気であった。しかし、彼と話している人物に思わず気を取られてしまった。立つこのさえ苦しそうな男も僕に気づいたようだ。
「…ああ、これはワイズ殿。こんにちは」
聞き取りにくい滑舌で言ったのは太った男である。この男は知っている。以前、鉄道の件を発案し、それを実行しようとした前線の者だ。けれど僕がそれを潰したおかげで最近顔を見なくなっていた。
何の用か、そう尋ねる前に男はお暇を告げて急ぎ足で立ち去ってしまった。代わりに僕はヘンリーに疑いの目を向ける。
「どうかされたんですか? 彼はもうここには関係はないはずですが」
ついつい問いつめる口調にヘンリーは別段気にした様子もなかった。額にかかった髪を掻き上げた。
「クリストファー、彼に経営者として必要な話を聞いていたのだ。君が森を大事に思う気持ちも分かるが私まで疑うのも考えものだぞ」
呆れが混じった声で彼は言った。
「…すみません」
つい感情が先に出てしまう。こんな僕は冷静に商売なんかできない。
「気持ちは分からなくもないけれどね。商売の道には警戒は必須さ」
ヘンリーは気持ちよく言った。この人を見ていると彼が経営者の鏡だと言うことが頷ける。すべての人の利益を最善の方向に定め、人を不快にさせない。僕の隣に並んだヘンリーは共に歩き出す。
「それで、今日は幾分か騒がしいものだね。またお客さんかい?」
「僕の母が来たんです。たぶんそれでうるさいのかと」
「君のお母さんか。ぜひ会いたいものだな」
そうして僕たちは話題を変えながら母屋に戻った。その横を、腕を焼きたてのパンで一杯にした子どもたちが笑いながら通り過ぎる。
「クリストファー!」
母屋の前に戻ると、ルパードと母は既に戻ってきていたようだ。母が数年ぶりにあった顔見知りを見つけ話している。ルパードはそれを暇そうに見ていたようだ。たちまち隣に立ったヘンリーに話しかけてきた。
「ああ、ヘンリー殿も来ましたが」
「もちろんだとも。クリストファーの母上ならばきっとお美しいと思ったんだ。これで来なかったら、しばらくは目の保養が見つからないぞ」
僕は思わず沈黙した。そう言われて、息子の僕が入る隙はない。その時、母と話していた女性はこの経営陣に気づいたのか、それとも圧倒されたのか、母に挨拶をして去っていった。
「母さん」
「まあ…」
ようやく僕に気付いた母を促す。そこでヘンリーは持ち前のご婦人キラーの笑みで礼をした。
「こんにちは。今度クリストファーの後任に当たるヘンリー・ウィンスレットです」
「こんにちは。息子がお世話になっています」
母の青い瞳が背の高いヘンリーを見つめる。
しかし、急に彼を見つめる母の瞳が凍りついた。
「あ…」
無意識のうちに言葉を漏らしてしまったようだ。顔が見る見るうちに青ざめていく。自分を見つめるご婦人の異変に気が付いたのかヘンリーは丁寧に申し出る。
「どうかされましたか?」
彼は今にも倒れそうになった母を支えようとした。しかし、ヘンリーの手に触れる瞬間、母は自分の足で踏ん張り立ちなおした。その手をさり気なく、しかしあからさまに拒絶した。母は視線を引きちぎり、ただ小さく言った。
「…大丈夫です。失礼します」
母はハンカチで口元を覆い隠し、去っていってしまった。
「母さん?」
「どうしたんだ、お袋さん」
呆気にとられた僕とルパードは訳を求めるようにヘンリーの方を向いた。しかし、ヘンリーもただ母が去った方向をぼんやりと見ているだけだった。
「ヘンリー殿?」
僕たちの言葉に珍しく考えにふけっていた男は我に返ったようだ。気を取り直すように即興の笑みを浮かべる。
「いや、すまない。個人的なことだ」
「あの、母に会ったことがあるのですか?」
彼はちらりと母が去った方向を見やっておもむろに言った。
「ああ」
彼には珍しく無愛想な返事だ。彼はしばらく灰青色の目を泳がせていたが、肩をすくめた。
「ちょっと、私も用事を思い出したんだ。部屋に下がらせてもらうよ」
そう言って彼は足早に立ち去ってしまった。後には訳が分からない二人だけが残される。
「…どうしたんだ?」
「全く分からない」
それでも母の頼りない足取りは不安である。
「母さんを見てくるよ」
そう言って母の部屋に向かったのだが結局は何が何だか分からずじまいになってしまった。




