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逃亡者たち  作者: モーフィー
第一章 Dawn
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1、旅立ち

 狭い路地に建った建物の小さな部屋の中。掃除をしてもどこかから煤が湧いてきて、とても居心地の良い我が家とは言えなかった。


「クリストファー、働き場所が決まったの」


 薄暗い台所に立っていた母は思いだしたように言った。


「あのね、一緒に秋まで広大な農場で働くことになったの」


 母はもちろん僕がもう少ししたらやってくる巡回教師を心待ちにしていることを知っていた。その上で、僕の興味を駆り立てるように言葉を重ねた。


「そこはね、とっても広くてね、のびのびと遊べるの。あなたもきっと気に入ると思うわ」

「そしたら、いつも日曜日に市場に遊びに行くことできる?」

「いいえ。そこからはちょっと遠いから無理ね。けれど、市場になんて行く必要ないの。毎朝、牛からミルクを絞って小麦のパンを食べるのよ」

「それじゃあ、学校は? 来週になったら先生がロンドンからいらっしゃるんだよ」


 母は静かに首を振った。


「いいえ。けれどね、あちらにもあなたの興味を惹く物がたくさんあると思うわ」

「学校の方がいい」


 そのために、ずっと冬の間ノートに詩を書きつづってきたのだ。母はいつものように僕が困らせたときには、真っ青の瞳を僕に向けた。すごく綺麗だけど悲しそうな瞳。


「クリストファー、これは決まったことなの。あなたに迷惑かけるかもしれないけれど仕方がないことなの」


 僕はうなだれて、スプーンをいつも以上に薄いスープにつけた。僕はこれ以上、母に迷惑をかけたくなかった。母はすべてを犠牲にして僕を育ててきてくれた。僕がわがままを言う権利なんてない。


「…分かった」




 こうして僕らは小さな荷物と共に古びた馬車に乗って農場へ向かった。馬車は次第に賑やかな街道からそれ、金に輝く小麦畑へ入っていった。

 どこまでも続く黄金の海。珍しくて、ずっと見ている僕に母はこの畑が今向かっている農場主の畑だと言った。


 一日中、硬い座席で揺られてすっかりお尻が痛くなったとき、屋敷にようやくたどり着いた。町のように敷地を制限されることなく、敷石ではなく、土に広々と建てられたお屋敷だ。ちょうど夕食時であり煙突からはもくもくと煙が立ち上り、辺りにはいい匂いが漂っていた。


 母と共に乗り合い馬車から降りると初老の男が僕たちを待っていた。


「初めまして。私はレイチェル・ワイズです。そしてこちらは息子のクリストファー」


 母に促されて僕は慌てて頭を下げた。初老の男は僕たちを一瞥すると、ぷいと後ろを向き歩き始めた。


「部屋はこっちだ」


 少ないとはいえ、重いトランクを抱えて歩かなければならないのに初老の男は後ろも見ないで歩き続ける。いくつもの小屋とわらの匂いが立ち上る馬小屋を通り抜け、僕たちは一つの古びた小さな家にたどり着いた。


「ここが、ここにいる間、おまえたちが使用する小屋だ。食事は手前の家で皆集まってとっている。朝

六時におまえは入り口の馬小屋の前で。そして…おい、少年。年はいくつだ?」

「十三です」


 初老の男は鷲鼻から大きな息を吐いた。


「ずいぶんとひ弱だな。よし、明日の六時に馬小屋の前で待て」


 僕は心の中では抗議をしたが、声に出す勇気はなかったので黙って床を見るしかなかった。母と男はしばらく打ち合わせを続けた。


「今日はどうもありがとうございました。これからもよろしくお願いします」


 母はぺこぺこして、初老の男は去っていった。


「弱そうだって? 僕はあいつよりも、何もかも知っている。ここに来なかったら今頃、学校に行っていたのに」


 母は帽子を脱ぎ、きつく縛っていた髪をといた。僕は蝋燭に火をつけながら、不満をぶつけると母の解きたての髪が顔にかかり、表情までも暗くさせた。


「クリストファー、やめて。冬になったらここから出ていけるわ。それまでの辛抱よ」


 そう、自分より上のものより腹を立ててはいけない。そうしなければお金だってもらえないし生きてはいけない。そう自分に言い聞かせることでとりあえず気持ちを落ち着かせることが出来たが、憂鬱な気分はしばらく離れなかった。



 男に言われたとおり、大きめの家には使用人が集まり、食事をとっていた。黄色い灯の元、明るい談笑が響いている。僕は初めての環境に目をくるくるさせていたが、誰も話しかけてこないことを知ると、母の後ろで安心できるようになった。母は近くの女性に話しかけ、パンを切り分けてもらった。


「クリストファー、スープを取ってきてくれない?」

「うん」


 そう言ったのは良いが、僕は初めての人と話すのが苦手だった。のろのろと、辺りを見渡してスープの入った鍋を見つめた。鍋の近くでは同じ年ほどの娘が談笑しながら給仕をしていた。


「あの…スープ二つくれないかな?」

「まあ…」


 娘は僕を見ると、大きな口を笑みの形にして頬を紅潮させた。僕は顔から火が出るほど恥ずかしかった。


「今日ここに来た人? 名前はなんて言うの?」

「…クリストファー・ワイズ」


 急いでスープをもらうと母が待つテーブルに早く向かおうとした。後ろからこそこそと自分の事を喋り、指さす娘の笑い声が聞こえる。僕は逃げるように母の元へ戻った。


「取ってきた?」

「うん」


 曲がったスプーンでキャベツのスープをすくい、またはパンを浸して食べる。


「どう? ここが好きになれそう?」


 決してうんとは言えなかったが、母を困らせたくなかったので頷いた。すると、母の綺麗な顔は微笑んでくれると知っているからだ。


「そう、よかった」


 しかし、母におかわりはと言われたとき娘と顔を合わせたくなかったので、お腹は空いていたけれど首を振った。


 小屋に帰った僕は小さなトランクから大切に持ってきたノートとインクを取り出した。でこぼこした机にノートを広げ、慎重にインクを開ける。せっせと文字を書く僕を母がのぞき見た。


「何を書いているの?」

「今日の日記。ちょっと、僕のなんだから見ないでよ」

「あら、失礼」


 母は笑いながら離れた。部屋に一つだけある蝋燭が揺れる。肌寒くなってきた肩に暖かな上着が掛けられるのを感じた。


「ああ、そう。クリストファー、先ほど面白い話を聞いてきたわ。この家々から少し言った先に森があったでしょう。そこには昔からエルフが住んでいるそうよ」

「嘘だよ。エルフなんかこの世にいない」


 小難しそうに振り向いた僕に母は面白そうに笑う。


「けれど、見た人は本当にいるそうよ。耳が尖っていて、高貴な顔をしていて。そして気に入った人間を森の奥の誰にも知られたことのないエルフの都市に案内してくれるんだって」

「そんなの、作り話だよ。酔っぱらいが見間違えただけさ」

「学校にも行った学者さんがそういうならその通りでしょうね」


 母は幼い子どものように少しだけ舌を出して見せた。それから、暖炉に入れた火を調節して、わらに布をかぶせただけの質素なベッドに潜り込んだ。


「蝋燭がもったいないから早く寝てね」

「うん、分かったよ」


 それから僕はいくつかノートに書き付けた。ぼーっと、母の寝息を聞いていると、寒気が次第に染みこむようになってきた。僕はそっと蝋燭を吹き消し、ベッドに潜り込んだ。


「おやすみ」


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