はじまり
城のなかは、暗く、息苦しい。
武秀は、そう思った。
父母からの期待。
家臣たちからの期待。
それに応えるため、血の滲むような努力を重ねてきた。
けれど、世継ぎとして立派であれという周囲の期待は、応えれば応えるほど大きくなっていく。
どれだけ努力しても、これで十分だということはない。
重くのしかかる圧迫感から逃れるように、武秀は足早に廊下を抜けた。
人目のないところまで来て、ようやく足を止める。
そこで初めて、自分が息を止めていたことに気がついた。
武秀は軽く息を吐き、それから深く息を吸い込んだ。
ふっと、その姿が変わる。
次の瞬間、そこにいたのは一羽の烏だった。
大きな翼を広げて羽ばたくと、ふわりと身体が浮き上がる。
武秀は、化けることを得意とする狸の一族のなかでも、とりわけ化ける能力に優れていた。
烏の姿で空を飛んでいれば、武秀だと気づく者はいない。
屋根を越え、木々を越え、さらに高く舞い上がる。
眼下に城が小さく見えた。
あんな小さな場所に、自分は閉じ込められている。
「……やっぱり、空はいいな」
烏の姿のまま、武秀は笑った。
空には、誰からの期待もない。
何者であれと求められることもない。
ただ、飛びたいように飛べばいい。
とはいえ、いつまでも城を離れているわけにはいかなかった。
父に知られれば叱られる。
母に知られれば、もっと面倒なことになる。
それでも、今日はいつもと違う場所へ行ってみたくなった。
そうして、ふと思い出した。
自分には、三つ年上の従兄がいる。
名は確か、和永。
本来であれば、武秀の父・武信ではなく、その兄である和信が当主となり、和永が次期当主となるはずだった。
だが、和信は狸の一族と長年敵対してきた狐の一族の女を妻とした。それを発端とするお家騒動で弟の武信に敗れ、出家した。
和信の一人息子である和永も、久慈家に養子に出され、そのまま厄介払いをされるかのように山奥の寺へ預けられたと聞く。
武秀は、生まれる前に起きた狸の一族のお家騒動について、詳しいことは知らなかった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
自分が世継ぎとして城にいる一方で、本来なら自分の場所にいるはずだった少年が、山奥の寺にいる。
その少年は、いったいどんな人間なのだろう。
生来、好奇心旺盛な武秀は、その従兄とやらを見に行きたくなった。
思い立ったら、じっとしてはいられない。
武秀は翼を大きく羽ばたかせ、山の向こうへ飛んでいった。
*
山奥の寺は、ひどく静かだった。
久慈家ゆかりの寺というだけあって、門構えだけは立派である。
だが、建物は古く、塀はところどころ崩れていた。
人の気配もほとんどない。
武秀は境内を見渡し、敷地の奥に小さな離れを見つけた。
その屋根に降り立ち、小窓を覗き込む。
簡素な部屋だった。
その中で、一人の少年が文机に向かっている。
茶色がかった黒髪をゆるく結び、背筋を伸ばして本を読んでいた。
武秀は興味深げに少年を眺めた。
少年は本から目を上げることもなく、身じろぎ一つしない。
しばらくして。
「……いつまでそうしている」
突然、少年が口を開いた。
武秀は目を丸くした。
少年がゆっくりと振り返る。
色白で整った顔立ち。
狸の一族にしては珍しい、ハシバミ色の瞳。
その美しく静かな佇まいは、城では見かけない種類の人間だと武秀は思った。
「ただの烏なら、そんなところに小半刻もじっとしていない」
「なんだ。気がついていたのか」
武秀は烏の姿のまま、首を傾げた。
「もの好きな奴だ。私のような者に、何の用がある」
「興味があったんだ。お前に」
「……」
「お前が和永だな」
和永と呼ばれた少年は、露骨に嫌そうな顔をした。
「私は、人と話すのが好きではない」
そっけない返事だった。
人と話すのが嫌いというより、話し慣れていないのかもしれない。
幼いころから厄介者として、山奥の寺に置かれてきた少年だ。
人に囲まれて育った武秀とは、まるで違う。
それでも、武秀は和永の様子を気にする風もなかった。
「話してみたかったんだ。従兄がどんな奴か知りたくてね」
言うなり、室内へと飛び込んだ。
畳に降り立った烏の姿が、ふっと変わる。
そこに現れたのは、人好きのする笑顔を浮かべた少年だった。
丸みのある顔に、黒目がちな大きな瞳。
その目には、隠しきれない好奇心が宿っている。
「俺は武秀」
武秀が名乗ると、和永の目がわずかに見開かれた。
「……武秀?」
「うん。お前の従兄弟」
武秀は屈託のない笑顔を見せた。
人に好かれるために、小さいころから身につけた笑顔だった。
和永は黙ったまま、武秀の顔をじっと見つめている。
その視線に、武秀は首を傾げた。
やがて、和永は静かに口を開いた。
「だが、お前は……女だろう……」
風が吹いた。
窓から吹き込んだ風が、武秀の髪を揺らす。
武秀の笑顔が、消えた。




