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魁国史后妃伝 ~艶麗にして婉媚、しかして奸にして邪~  作者: 悠井すみれ
二章 毒花は後宮に根を伸ばす

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5.新しい皇太子

 慕容《ぼよう》皇后は、ついに決断を下した。実の妹の右昭儀《うしょうぎ》と、近しい一族の落羅《らくら》夫人のどちらを死なせるか。どちらの子を、新しい皇太子に選ぶのかを。


 慕容姉妹と落羅夫人は歳も近く実家も親しく、後宮でも頻繁に互いの殿舎を訪ね合って交際していたという。だからこそ決断に時間がかかったのだ。

 選ばれたのは、落羅夫人のほうだった。若く美しく、実家の後ろ盾にも恵まれていたはずのその女は、国母となる栄誉を称えられつつ首を絞められて殺された。


 皇后がさんざん悩んで迷ったお陰で、季節はすでに冬になっている。


 絳凱《こうがい》に賜った狐の毛皮で首回りを守り、宮女や宦官を従えて後宮の回廊を歩みながら、翠薇は皇后の苦悩を思って微笑んでいる。


(妹を犠牲にして、落羅家の恨みを避ける判断はできなかったのね……?)


 右昭儀も落羅夫人もそれぞれの実家も、皇后にひれ伏して慈悲を乞うたとか。幼い子供が母を亡くすのは哀れだとか、せめて立太子をもっと遅らせるべきだとかを口々に訴えて。


 自身や自家の娘の助命を願うということは、即ちもう片方の妃が死ぬべきだと願うこと。それを互いに知っているから、慕容家と落羅家の間には順当に亀裂が入っているようだ。


(祖法が間違っているとは誰も思わなかったのね。愚かなこと……!)


 かつて祖法を振りかざして姉を死に追いやった者たちが、同じ法によって悩み苦しみ、いがみ合っているのを思うと、愉快でならない。


 薄く、口元に笑みを浮かべながら──回廊の角を曲がったところで、慌ただしい衣擦れの音が翠薇の耳に届いた。

 皇帝の寵を受ける彼女は、いまや後宮において敬われるべき存在。彼女の姿を見て、慌てて平伏したのは宮女か宦官か、それとも寒中に日差しを求めて屋外に出ていた妃嬪だろうか。


 いずれにせよ、その者たちが翠薇に額づいたのは、形だけのようだった。何しろ、彼女が通り過ぎた後を追いかけて、さほど抑えていない声量の囁きが聞こえてきたのだから。


「──薛《せつ》貴人よ」

「この間まで婢《はしため》のようなものだったというじゃない」

「いつの間にか太后様に取り入ったのよ」

「左昭儀様や落羅夫人を追い落としたようなものではなくて?」

「優しそうな顔をしているけれど──」


 けれど、実際はどうだというのか。翠薇が最後まで聞くことはできなかった。


(──何か?)


 彼女が振り向くと、噂話をしていた者たちは一様に顔を強張らせて口を噤んだからだ。立ち上がりかけていた者も、半端な姿勢で凍り付いたように固まったのが滑稽だった。


(恐れるなら、もっと口を慎めば良いのに。脇が甘いわ)


 翠薇はにこりと微笑むと、再び踵を返してもとの方向へと歩き始めた。背後からまた衣擦れかさざめいたのは、太后か皇帝への告げ口を恐れて自らの殿舎に逃げ帰ったのだろうか。


 声の主たちは、位の低い世婦《せいふ》や女御《にょうご》だった。とはいえ皇帝の嬪ではあるから、以前なら彼女を視界にも入れなかっただろう。そんな者たちも、今や翠薇を恐れ、警戒し始めている。


 そして、身分低い者たちが翠薇を見る目も、羨望と恐怖が相半ばしている。取り調べを受ける前にな(・)ぜ(・)か(・)獄中で死んだ桃花《とうか》は、彼ら彼女らの同輩だったのだから。


(いくらでも恐れるが良い。何もかもがおかしかったのよ。法も、後宮も、この国も……!)


 このていどで舞い上がっては危ういのは分かっているけれど──信じていた秩序や序列が乱れて浮足立つ者たちを見るのもまた、心躍ることだった。


(みんなみんな、思い知れ……!)


 心の中で念じるうちに、目指していた宣光殿の建物が見えてきた。太后の住まいに、今は皇帝と皇后も集うはずだ。新たに冊立された皇太子を太后に委ねるための、顔合わせの席だから。


(私も呼ばれていると聞いた時、皇后はどんな顔をしたのかしら)


 新しい皇太子の養育に携わるのが、貴人に上ったばかりの得体の知れない小娘だなんて。由緒正しい名家の姫君にはさぞ屈辱だろう。


 慕容家と落羅家の愁嘆場については、翠薇は噂で聞くばかりだった。姉妹同然の落羅夫人を死なせた上に、その子も奪われることになる皇后の顔を直接見るのは、楽しみだ。


      * * *


 宣光殿の大庁《ひろま》にて、上座を占めるのは絳凱と孫太后だった。翠薇が下座に控えるのも、敷物の枚数も質も段違いなのも、まあ当然のことだ。

 ──でも、皇帝の伴侶であるはずの慕容皇后が、主に対して客人の位置に座すのは少々不思議な構図かもしれない。


 まるで、後宮において本当の家族は、絳凱と太后だけであるかのよう。至尊の地位にあるはずの皇后も、あくまでもよそ者に過ぎないのだと、突き付けるかのような。


「──新たに皇太子の冊立を受けました、赫《かく》でございます」


 皇后の字《あざな》は、祝英《しゅくえい》と言っただろうか。皇帝を篭絡すべく育てられたのだろう、確かに美しく、所作も言葉遣いも非の打ち所なく優雅だった。


 けれど、その美貌も、今は愁いと怒りによって大きく損なわれている。


 妹分のふたりの命を天秤にかけて、ずいぶんと思い悩んだのだろう。本来は涼やかであろう眼差しは痩せた頬と相まって尖って険しく、刃の鋭さで翠薇を睨みつけていた。


 もちろん、翠薇は慎ましく目を伏せて知らぬ顔を通したし、太后も小娘の敵愾心をいちいち気に留めるほど繊細ではない。何ごともなかったかのように、鷹揚に頷くだけだった。


「そなたが選んだ子だ。間違いはあるまい。妾《わたし》も、必ず魁《かい》の国を統べるに相応しく育てよう」

「わたくしも──誠心誠意、手伝わせていただきたいと、存じます」


 皇太子に接する機会を手放しはしない、と。祝英は精いっぱい、噛みついたつもりなのだろう。でも、太后はそのていどの反抗は織り込み済みだ。


「そなたは子を持っておらぬ。幼い子の世話は手に余るであろう。──薛貴人は亡き皇太子の遊び相手を務めてきた。赫に対しても良い姉代わりになろう」


 太后の目線を受けて、翠薇は赫太子へと手を差し出した。祝英が目を見開き唇をわななかせるのを横目に、怯えた風情の幼子に微笑みかける。それこそ、かつて丹《たん》にしたように。


「太子様。どうぞこちらへ。ばあやと思って頼りにしてくださいませ」


 新しい皇太子は、まだ五歳。細い身体には、緞子をたっぷり使った上衣は重く動き辛そうだ。

 幼心にも不穏な空気が分かるのだろう、大きな目が傍らの祝英に、ついで上座の絳凱に向けられる。この子供にとっては、父帝がこの場でもっとも近しく信じられる存在なのだ。


 息子の心細げな眼差しに、絳凱は微笑んで頷いた。


「赫。翠薇──薛貴人のほうへ。優しい女だから安心せよ」


 まだしも見知った祝英から離れて、初対面の女の傍に行けとは、酷な命令をするものだ。祝英のこと、その妹の右昭儀のこと、殺された落羅夫人のこと──この男はどれだけ気にかけ、慰め、悼んだのだろう。


「……はい、ちちうえ」


 けれど、幼い皇太子が父に反論する言葉を持つはずもない。赫は、泣きそうに顔を歪めながらも、とてとてと翠薇のもとへ歩み寄ってきた。


 そして翠薇の腕の中に収まると、赫は居心地悪そうに身動ぎした。


「ははうえは、どこ?」

「落羅夫人はご病気なのです。良くなられるまで、おばあ様のところでお過ごしなさいませ。お父上様もいらしてくださいますから」


 この子は、実母が死を賜ったことをまだ知らないのだ。


 太后や──翠薇に慣れ親しんだころ、母を恋しがらなくなったころに、病気が快癒せず儚くなられて、とでも聞かされるのだろう。きっと、父の絳凱もそうだったように。真実を知るのは、さらにもっと大きくなって、分別がつくまでお預けだ。


(早く、私を母親だと思うようになりなさい。そうすれば皇后も追い落とせるわ……!)


 祝英が、憎しみを込めた眼差しで凝視してくるのが、肌にぴりぴりと感じられた。でも、構う必要はない。


 赫を抱き締める翠薇は、傍から見れば慈悲と優しさの化身にしか見えないはず。あからさまに睨みつける祝英こそ、自身の狭量さを露呈させているのだ。


 翠薇は、祝英に微笑みかけさえ、した。いずれお前の地位を奪ってやるから待っているが良い、と──言外の宣言は伝わっただろうか。

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