1.皇太子の死
魁国史の后妃伝より抜粋。
壊后薛氏、名を翠薇。容色艶麗にして婉媚、しかしてその性は奸にして邪。大いに隠帝の寵幸を得る。……後宮を乱し数多の妃嬪を陥れ魁を滅ぼさんとす。
* * *
丹の鼻と口を塞いだ真綿はぴくりとも動かなかった。何秒も、何十秒も。翠薇がどれほど見つめても、呼吸の気配を見せてくれない。
(苦しいでしょう。早く払いのけないと)
丹は、翠薇の姉の子だ。まだ七つのやんちゃな盛り。顔に真綿を乗せられたら、くすぐったがってすぐに首を振りそうなものなのに、どうして大人しく寝ているのだろう。
ほんの数日前までは、元気に庭を駆け回って宮女や宦官たちと戯れていた。
鞠を受け止め、蝶を追い、花を手折った悪戯な手指が、どうして枯れ枝のように痩せているのだろう。
桃のようにふっくらとしていた頬が、どうして見る影もなく痩せこけているのだろう。
瑞々しかった肌は水気を失ってかさかさとして、色はどす黒い。何を見てもきらきらと輝いていた目は固く閉ざされて。しなやかな手足もみるみるうちに強張って、硬直していく。
(なぜ。どうして)
こんなことになった理由は──本当は、翠薇にももうわかっている。
「丹、丹。起きて。しっかりして。私……姉様からお前を託されたのに」
だって、寝台に縋りついて呼び掛けるのは、今や翠薇だけだ。
傍に控える宮女も宦官も、誰ひとり動かない。丹の汗を拭ったり水を呑ませたり、手を握ったり背をさすったりしようとしない。もうその必要はないと、皆、諦めているのだ。
密やかな衣擦れが静寂を乱し、吐息のような声が翠薇に囁いた。
「太子様はお亡くなりになりました。復をいたします」
床に低く平伏した宦官の訴えは、どうしようもなく翠薇の癇に障った。
「死ぬ訳がないでしょう! 魁の皇太子たるこの子が! たった七つで!」
喚くと同時に、翠薇は丹の枕元に並べていた水差しや盃、薬研の類いを袖で薙ぎ払った。
零れた薬の匂いがつんと鼻を刺す。姉の遺品と引き換えに乞うて手に入れた、高価なものもあったはずだけれど、丹を助けられなかった薬に用はない。
(どうして。誰も、何も……!)
一様に顔を伏せて、翠薇の怒りをやり過ごす構えの宮女も宦官も、皆、役立たずだ。
貴重な薬、滋養のある肉、蜜漬けの果実も、同じく、何を食べても吐いては下す丹を、可哀想な子が衰弱していくのを救うことができなかった。
(こんなもの……!)
怒りに任せて、陶製の水差しをわざわざ拾い上げ、床に叩きつける。八つ当たりだ。翠薇も、無能のひとりだった。でも、おどおどして狼狽えたり、早くも哭き始めようとしている臆病者たちと彼女は、違う。
翠薇は何よりも怒っていた。理不尽に、不公正に、残酷さに。
「姉様は丹のせいで殺された! なのに、どうしてこの子まで殺されなければいけないの!?」
喉を裂くような絶叫に応えるものは、誰ひとりとしていなかった。
この魁国には、建国以来の祖法がある。
皇太子の生母は必ず死を賜る、というものだ。
古来、多くの王朝を滅ぼした外戚の禍を避けるためだという。
翠薇も、姉の婉蓉も、その祖法を知らずに後宮に入った。というか、誰も教えてくれなかった。彼女たちの身分は卑しい奴婢であったから。
蟻のように働き、貴人の煌びやかな裳裾が通り過ぎるのを見上げて平伏する日々の中、婉蓉が皇帝に見初められたのは幸運だと思ったのに。
適当な《・》女に皇子を産ませ、身の安全を計ろうという妃嬪たちの思惑があったなどと、どうして想像できるだろう。
(許さないわ)
翠薇の怒りは、すべてに対して激しく燃え盛り、牙を剥いている。
姉の懐妊を寿ぐ裏で、祖法について教えなかった妃たち。姉を孕ませておきながら、法に従って死を命じた皇帝。姉の細い首を絹布で絞めた宦官。姉の死後、赤子の丹を奪い去っていった皇太后。
いくら憎んでも飽き足らない者たちの醜悪な姿と裏腹に、姉との思い出のなんと美しく優しく切ないことか。
『元気な子でしょう。早く抱いてあげたいわ』
臨月の腹を翠薇に触れさせて微笑む姉は、本当に幸せそうだったのだ。
言葉通り、姉の腹に寄せた頬に感じる胎動は力強くて。年の離れた、母代わりの姉を奪われるささやかな嫉妬と共に、小さな生命への愛おしさを、翠薇も確かに感じたのだ。
姉を奪うのが可愛い甥ではなく、訳の分からない祖法だなどと、十歳の翠薇は想像だにしていなかった。
『翠薇。丹のことをお願いね……』
死の判決を従容として受け止めた姉は、目を涙で曇らせて、それでも妹に微笑んだ。無力な子供だった翠薇は、頷くことしかできなかった。
あれ以来の七年間、翠薇は丹の母親であろうと努めた。そのために、姉の霊を弔うため、と乞うて、辛うじて後宮に留まることを許された。
邪推や反感を招かぬよう、着飾ることなく、権も寵も望まず。皇太后には、権勢を保つための駒としか考えられていない丹に、肉親の情愛と温もりを教えることだけを考えた。
そして丹が帝位に就いた暁には、婉蓉に皇后の位を追贈してくれるはずだった。姉の名が、皇帝の母として輝かしく国史に刻まれるはずだったのに。
(誰なの。誰がこんなことを……!)
丹の死と共に姉の死も無駄になってしまった。
「……どうして」
食いしばった歯の間から、呪詛めいた呻きが漏れる。絹の褥を握る指先に、痛みが走る。
でも、歯が砕けようと爪が割れようと大したことではない。
婉蓉も丹も、利用されて殺されるだけだったなんて。そんなことは、あってはならない。
翠薇が、させない。




