Snow flakes ‐ Prism YELLOW ‐ HAYATE
一本だけのドラムスティック
ぐるりと塀に囲まれた大きな家。
夜の庭は静かで、
古いクスノキの葉が、風にかすかに鳴っていた。
父親が主催するいつもの宴会を抜け出し、
ハヤテは長兄のあとを追うように、そっと庭へ向かった。
慣れているはずの自分の家なのに、
暗い夜道はなんだか居心地が悪い。
「蔵の道、こわい」
「叱られるとよく蔵に入れられてたもんな」
兄が笑う。
「でも、お前が泣くと母さんがすぐ迎えに来てた」
「泣いてないし」
「泣いてたって。家じゅうに聞こえてた」
「嘘だ、家まで聞こえるわけない」
「やっぱり泣いてるじゃん」
ハヤテは何も言えずに黙る。
蔵の手前にある納屋で兄が立ち止まる。
ハヤテはその背中にぶつかりそうになって、あわてて足を止めた。
軋んだ扉を開けると、
少し湿った木の匂いがした。
「ほら、怖くないぞ」
笑いながら視線を奥に送る。
そこには、
兄が使っていたドラムがそのまま置かれていた。
兄は慣れた様子で布を巻き取った。
月の明かりに光ったホコリがふわりと舞う。
ハヤテは言い返すのも忘れて、その光景に見入った。
金属は鈍く光っていて、
きちんと手入れされているのが分かる。
長い間放置されていたようには見えなかった。
近くに立て掛けられたスティックへ目を向ける。
側面には、黒い文字で「Kakeru」と刻まれていた。
一本しかない。
ハヤテは思わず、兄を見た。
「折れちゃって」
兄の言葉に、ハヤテは眉を寄せる。
「……こんな硬い棒、折れるの?」
「折れる」
兄は短く答える。
「……腕の骨もいったな」
「え? ドラムってそんな激しい?」
「いや」
兄は少しだけ笑う。
「抑えきれなかっただけ」
それ以上は言わなかった。
兄は、ドラムの前にしゃがみ込む。
埃と金属の匂いが少しだけ広がった。
「これはスネア」
真ん中を軽く叩く。
乾いた音が、
納屋の奥に跳ね返った。
パン、と短く鳴る。
ハヤテの肩が少し揺れる。
「……近い」
「近い?」
「なんか、
音がすぐそこに来る」
兄が少し笑う。
「スネアは会話みたいなもんだからな」
次に、
兄は丸いタムを軽く叩いた。
トン、と低い音。
もうひとつ。
ドン、と少し深く響く。
「うわ」
ハヤテの目線が上がる。
「階段みたい」
「お、いい感覚してる」
兄は嬉しそうに笑った。
「下がっていく感じするだろ」
次に、
足元のペダルを軽く踏む。
ドッ、と腹に響く音。
ハヤテが思わず腹を押さえる。
「なにこれ」
「バスドラ。
心臓」
「心臓……」
もう一度踏む。
ドッ。
ドッ。
さっきまで静かだった納屋が、
少しずつ揺れ始める。
最後に、
兄がシンバルを軽く叩いた。
シャーン――……
音が、
天井の梁まで伸びていく。
消えそうで、
なかなか消えない。
ハヤテは、
しばらく黙っていた。
「……すごい」
兄が、
一本しかないスティックを差し出す。
「やってみる?」
ハヤテは少し迷ってから受け取る。
思ったより重い。
恐る恐る、
スネアを叩く。
パン。
小さい。
でも、
ちゃんと鳴る。
音が、すぐそこで返事をした気がした。
胸の奥が、
少しだけ熱くなる。
理由は分からない。
ただ、
もう一回叩きたいと思った。
ハヤテは、
もう一度シンバルを見上げる。
「ドラムって、
めちゃくちゃ目立つ楽器だと思ってた」
兄は笑う。
「まあ、暴れようと思えば暴れられるけどな」
兄はスティックを指で回した。
「でも、主役じゃない」
納屋の静かな空気の中で、
その言葉だけが残る。
「周りをよく見て、音を聞いて、空気を回す」
軽くバスドラを踏む。
ドッ。
それに合わせるみたいに、
スネアを小さく鳴らす。
パン。
「ギターが前に出たら支える。歌が止まりそうなら押す。
逆に、出すぎてたら引く」
シンバルが、
小さく揺れる。
「それだけで、バンドの音は変わる」
兄は少し笑った。
「それが面白い」
ハヤテは、
並んだドラムを見つめる。
派手なのに。
真ん中にあるのに。
でも、
前に立つ楽器じゃない。
誰かを聞いて、
動かして、
支えて、
熱を回していく。
その感じが、
妙に好きだと思った。
ハヤテは、
もう一度だけスネアを叩く。
パン。
さっきより、
少しだけ音が前に飛んだ。
兄が横で笑う。
「いいじゃん」
「いや、全然わかんない」
「分かってないやつの叩き方じゃない」
兄はそう言って、
ドラムの縁を軽く撫でた。
少しの沈黙。
虫の声だけが聞こえる。
それから、
兄がぽつりと言った。
「……気に入ったなら」
少し間。
「ハヤテにやる」
「え」
思わず振り返る。
「でも、カケル兄ちゃんのだろ」
「もう叩いてないし」
ハヤテは、
ドラムと兄を交互に見る。
「……いいの?」
「いい」
兄は笑う。
「その代わり」
一本しかないスティックを、
軽く振る。
「スティックは自分で買えよ」
ハヤテが吹き出す。
「そこはくれないんだ」
兄も笑った。
納屋の空気が、
少しだけ軽くなる。
兄の手にある一本のスティックを見る。
木の表面は擦れていて、
先端も少し欠けていた。
長く使われていたのが分かる。
ハヤテは少し迷ってから言う。
「やっぱりさ」
「……そのスティックも、もらっていい?」
兄が一瞬だけ黙る。
納屋の外で、
虫の声が続いていた。
「これ?」
軽く振る。
カツ、と指に当たる音。
「うん」
ハヤテは頷く。
「古いし、一本しか無いのに?」
「これがいい」
兄は、
少しだけ困ったみたいに笑った。
「物好きだな」
それから、
スティックを眺める。
折れた相方。
削れた跡。
叩き続けた時間。
全部、
その一本に残っていた。
兄は小さく息を吐く。
「……まあ、片方だけ持ってても仕方ねえか」
そう言って、
ハヤテに差し出した。
ハヤテは、
そっと受け取る。
重さはさっきと同じはずなのに、
少しだけ違って感じた。
「折るなよ」
「もう既に一本ないじゃん」
「だからだよ」
兄が笑う。
ハヤテも笑った。
そのあと、
もう一度だけスネアを叩く。
パン。
さっきより、
少しだけ音が近かった。
「若先生、お時間です」
納屋の外から声がした。
兄が、少しだけ顔をしかめる。
「あの呼び方、やめてくんねえかな」
小さく呟いて、
兄は苦笑した。
「今、行きます」
返事をした声は、
少しだけ低い。
振り返った兄の顔は、
もう“大人”になっていた。
家の人間として、
呼ばれる側の顔。
ハヤテは、
なんとなく黙る。
兄は納屋の入口で立ち止まり、
軽く顎をしゃくった。
「鍵、忘れるなよ」
ハヤテは、
手の中のスティックを見る。
それから、
納屋の奥のドラムを見る。
さっきまでと同じ場所なのに、
少しだけ秘密が増えた気がした。
*
高校に入学した。
髪を染めて、
ピアスを開けた。
中身は何も変わっていないのに、
周りの目だけが、少し変わった気がした。
廊下に並ぶ、
部活動のポスターを見る。
「派手だね」
不意に、
上級生に声をかけられた。
「音楽とか、やってる?」
ハヤテは少しだけ目を瞬く。
「音楽」
その言葉が、
少しだけ大きく聞こえた。
そんな大層なものじゃない。
一本しかないスティックで、
ひとり、適当にリズムを刻んでいただけだ。
答えに困って、
曖昧に笑う。
上級生は気にした様子もなく、
チラシを差し出した。
「新校舎の音楽室でさ、軽音やってるんだ」
チラシには、
ライブ写真と、
派手な文字が並んでいる。
「放課後、自由に使えるから。一回見に来なよ」
「……ありがとうございます」
ハヤテは、
笑顔で頷いた。
「部活、決めた?」
昼休み。
クラスメイトが机に頬杖をついたまま聞いてくる。
「まだ。運動系も見たいけど」
「あー、でもお前、音楽とか好きそうじゃね?」
適当だな、と思う。
そのまま、軽く流す。
「軽音部入ったらさ、音楽室自由に使えるらしいよ。放課後、見に行かない?」
その時。
ふと、
窓際に視線を感じた気がした。
黒いギターケース。
窓の近くの席に、誰かが座っていた。
ハヤテは一度だけ振り向いたが、特に気に留めなかった。
「じゃ、あとでな」
軽く返事をする。
放課後。
数人で、新校舎の音楽室へ向かう。
扉を開けると、
音が一気に流れ込んできた。
ギター。
ベース。
ドラム。
キーボード。
機材が並び、
アンプの灯りが点いている。
「お、来てくれたんだ」
昼に声をかけてきた先輩が笑った。
部員は多い。
奥では誰かが音作りをしていて、
別の場所ではライブみたいに演奏が始まっている。
歓声も上がる。
ちゃんとしている。
整っている。
誰かが軽く叩くだけで、ちゃんと音が返ってくる。
ギターの音が重なり、ベースが低く響く。
その奥で、ドラムが一定のリズムを刻んでいた。
少し音が外れても、誰かが笑う。
それにつられるように、演奏もまた続いていく。
うまいかどうかは、よく分からなかった。
けれど、楽しそうだった。
ハヤテはしばらく、その音を聴いていた。
やがて視線が、部屋の奥に置かれた古いドラムで止まる。
誰も使っていない。
少し埃をかぶったまま、端に寄せられている。
その姿が、家の納屋に置かれていたドラムと、なんとなく重なった。
賑やかな音の中で、そこだけが少し、静かだった。
「楽しかったな」
「な。これからどうする?」
帰り支度をしながら、クラスメイトが聞いてくる。
「俺、ちょっと色々見てくわ」
「おー、じゃまた明日」
軽く手を上げて別れる。
放課後の校舎を歩く。
運動部の声。
吹奏楽の音。
廊下を走る足音。
いろんな部活。
たくさんの人。
その時。
ふと、
旧校舎のことを思い出した。
……あそこにも、音楽室あったな。
渡り廊下を抜ける。
空気が少し変わる。
人が少ない。
薄暗い。
静かな校舎。
でも。
少しだけ、
音が聞こえた。
誰かいる。
ハヤテは、鞄の中に手を入れる。
一本だけのスティック。
それを握る。
少しだけ笑った。
それから。
勢いよく、音楽室のドアを開ける。
「空いてる?」
教室を見渡す。
旧校舎の音楽室には、ドラムはなかった。
古いピアノ。
がらんとした机。
最低限のアンプ類。
窓際に、見覚えのある顔が二人。
同じクラスの男子だった。
会話をしているわけでもない。
合わせているわけでもない。
ただ、それぞれ楽器を持って自分の音を確かめている。
「えっと、同じクラスの……」
ハヤテが声をかける。
黒いギターケースの男子が、少しだけ顔を上げた。
「……ヒナタ」
小さな声。
それだけ言って、またギターを鳴らす。
次に、
赤茶色の髪のベースを持った男子と目が合った。
「コウタです」
「俺、ハヤテ。よろしく!」
手に持ったスティックで、近くの机の縁を軽く叩く。
乾いた音が、静かな音楽室に響いた。
誰も笑わない。
会話も弾まない。
音も、
まだ全然まとまっていない。
それでも。
なんだか、ワクワクした。
*
ハヤテは、新校舎と旧校舎の音楽室を、なんとなく行き来していた。
まだ、どの部に入るかは決めきれていない。
運動部も楽しそうだったし、文化部も悪くない。
どこからか聞こえる笑い声や掛け声に足を止めては、また別の場所へ向かう。
どれも少しずつ面白そうで、ひとつに決めるには、まだ早い気がしていた。
「今日、軽音行く?」
クラスメイトが声をかける。
「行く」
軽音部の部室は、いつも人が多かった。
ギターの音。
笑い声。
誰かが合わせるドラム。
ハヤテはその輪の中に入りながら、音より先に周りを見ていた。
誰と誰が組んでいるか。
どこに空気が流れているか。
誰が楽しそうか。
そんなことばかり、
なんとなく見ている。
部屋の隅には、
古いドラムセットがあの日のまま置かれていた。
「あれ、使わないんですか?」
ハヤテが聞くと、近くにいた先輩が振り返った。
「ん? ああ、それ」
先輩は、古いドラムを軽く顎で示した。
「今年、新しいの入ったから。そっちはもう使ってない」
「へえ」
ハヤテは、
ドラムの前にしゃがみ込む。
少し埃は被っているけれど、
壊れてはいない。
整備すれば、
まだ普通に叩けそうだった。
旧校舎の音楽室には、
ドラムがない。
ヒナタのギター。
コウタのベース。
旧校舎の音は、
まだバンドではなかった。
でも、
止まってはいなかった。
ハヤテは、
少し考えてから顔を上げる。
「あのさ、
もしよかったら、これ」
「ん?」
「旧校舎の音楽室に、
置かせてもらえないかなって」
先輩が、
少し意外そうな顔をする。
「あっち使ってんの?」
「まあ、なんか」
うまく説明はできなかった。
ただ、
あの場所にドラムがあったら、
音が少し変わる気がした。
「使ってないなら、もったいないし」
先輩は、
少し笑った。
「顧問に聞いてみるけど、たぶんいいんじゃね」
「じゃあ」
「ただ、あれ重いぞ」
「ですよね」
「時間ある時、
運んでやるよ」
ハヤテは、
一瞬だけ目を丸くしてから笑った。
「ありがとうございます」
そう言って、
もう一度、古いドラムを見た。
部屋の隅に置かれていた音が、
少しだけ近くなった気がした。
*
ひととおり部活を見て回ったころには、校舎の影が長く伸びていた。
運動部も、文化部も、それぞれ楽しそうだった。
けれど、結局どこに入るかは決められないままだった。
帰ろうとして、ハヤテはふと足を止める。
最後にもう一度だけ、旧校舎の音楽室を覗いてみようと思った。
放課後の旧校舎は、静かだった。
音楽室には、
相変わらずヒナタとコウタしかいない。
西日の差し込む窓際。
古いアンプ。
少し埃っぽい空気。
二人は視線も合わせず、それぞれ楽器を鳴らしていた。
ヒナタは、自分の中を確かめるみたいにぽつぽつとギターを置いていく。
コウタは、その音を追いかけるように少し遅れてベースを返す。
合わせる気は、たぶんない。
曲ですらない。
ただ、音だけが静かな部屋に転がっていく。
ハヤテは少し離れた机に腰掛けながら、その様子をぼんやり見ていた。
手には、一本しかないドラムスティック。
ドラムはない。
だから、適当に机を叩く。
カツ。
カツ、カツ。
乾いた音。
一定でもない。
リズムとも言えないくらい、
適当な音。
でも、
ハヤテはちゃんと聴いていた。
ヒナタが、
どこで息を抜くか。
コウタが、
どの音を拾いたがるか。
どこなら、
二人の音がぶつからないか。
人を見る。
音を聴く。
空気の流れを読む。
ハヤテは、
机を軽く叩きながら頭の中で音を組み立てていた。
――ここだ。
カツ。
一音、
間に落とす。
その瞬間。
ヒナタのギターと、
コウタのベースが、
ほんの一瞬だけ重なった。
空気が変わる。
二人の手が止まった。
「……今の」
誰が言ったのか、
分からないくらい小さな声。
もう一回合わせよう、
とは誰も言わない。
再現しようともしない。
それでも。
さっきまでとは、
確実に違っていた。
バラバラだった音が、
一瞬だけ、
同じ場所を見た気がした。
ハヤテは、
その空気を見ながら、
少しだけ笑った。
叩けば、
音は動く。
誰かの前に出るんじゃなくて、
誰かと誰かの間に置く音。
悪くない。
今の音を、
もう一度聴きたいと思った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回の短篇は、本編1話につながる前の出来事を
ハヤテの視点から描いた、三人の高校時代のお話でした。
そして、ハヤテが兄からドラムを譲り受け、
自分の音を見つけていく始まりの物語でもあります。
同じ時間を過ごしていても、見えているものは少しずつ違います。
誰かにとっては何気ない一瞬でも、別の誰かにとっては、
長く心に残る景色になることがあります。
本編では描かれなかった三人の始まりや、それぞれの距離感を、
これから少しずつ短篇として公開していく予定です。
本編とはまた違う角度から、Snow flakesという物語を形づくる、
プリズムのかけらを楽しんでいただけましたら嬉しいです。
次の物語も、ぜひお楽しみに。




