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Snow flakes ‐ Prism YELLOW ‐ HAYATE

一本だけのドラムスティック

作者: 山吹 ことり
掲載日:2026/09/05


 ぐるりと塀に囲まれた大きな家。

 夜の庭は静かで、

 古いクスノキの葉が、風にかすかに鳴っていた。


 父親が主催するいつもの宴会を抜け出し、

 ハヤテは長兄のあとを追うように、そっと庭へ向かった。


 慣れているはずの自分の家なのに、

 暗い夜道はなんだか居心地が悪い。


「蔵の道、こわい」


「叱られるとよく蔵に入れられてたもんな」


 兄が笑う。


「でも、お前が泣くと母さんがすぐ迎えに来てた」


「泣いてないし」


「泣いてたって。家じゅうに聞こえてた」


「嘘だ、家まで聞こえるわけない」


「やっぱり泣いてるじゃん」


 ハヤテは何も言えずに黙る。


 蔵の手前にある納屋で兄が立ち止まる。

 ハヤテはその背中にぶつかりそうになって、あわてて足を止めた。


 軋んだ扉を開けると、

 少し湿った木の匂いがした。


「ほら、怖くないぞ」


 笑いながら視線を奥に送る。


 そこには、

 兄が使っていたドラムがそのまま置かれていた。


 兄は慣れた様子で布を巻き取った。

 月の明かりに光ったホコリがふわりと舞う。


 ハヤテは言い返すのも忘れて、その光景に見入った。


 金属は鈍く光っていて、

 きちんと手入れされているのが分かる。

 長い間放置されていたようには見えなかった。


 近くに立て掛けられたスティックへ目を向ける。

 側面には、黒い文字で「Kakeru」と刻まれていた。


 一本しかない。


 ハヤテは思わず、兄を見た。


「折れちゃって」


 兄の言葉に、ハヤテは眉を寄せる。


「……こんな硬い棒、折れるの?」


「折れる」


 兄は短く答える。


「……腕の骨もいったな」


「え? ドラムってそんな激しい?」


「いや」


 兄は少しだけ笑う。


「抑えきれなかっただけ」


 それ以上は言わなかった。



 兄は、ドラムの前にしゃがみ込む。

 埃と金属の匂いが少しだけ広がった。


「これはスネア」


 真ん中を軽く叩く。


 乾いた音が、

 納屋の奥に跳ね返った。


 パン、と短く鳴る。


 ハヤテの肩が少し揺れる。


「……近い」


「近い?」


「なんか、

 音がすぐそこに来る」


 兄が少し笑う。


「スネアは会話みたいなもんだからな」


 次に、

 兄は丸いタムを軽く叩いた。


 トン、と低い音。


 もうひとつ。


 ドン、と少し深く響く。


「うわ」


 ハヤテの目線が上がる。


「階段みたい」


「お、いい感覚してる」


 兄は嬉しそうに笑った。


「下がっていく感じするだろ」


 次に、

 足元のペダルを軽く踏む。


 ドッ、と腹に響く音。


 ハヤテが思わず腹を押さえる。


「なにこれ」


「バスドラ。

 心臓」


「心臓……」


 もう一度踏む。


 ドッ。

 ドッ。


 さっきまで静かだった納屋が、

 少しずつ揺れ始める。


 最後に、

 兄がシンバルを軽く叩いた。


 シャーン――……


 音が、

 天井の梁まで伸びていく。


 消えそうで、

 なかなか消えない。


 ハヤテは、

 しばらく黙っていた。


「……すごい」


 兄が、

 一本しかないスティックを差し出す。


「やってみる?」


 ハヤテは少し迷ってから受け取る。


 思ったより重い。


 恐る恐る、

 スネアを叩く。


 パン。


 小さい。


 でも、

 ちゃんと鳴る。


 音が、すぐそこで返事をした気がした。


 胸の奥が、

 少しだけ熱くなる。


 理由は分からない。


 ただ、

 もう一回叩きたいと思った。



 ハヤテは、

 もう一度シンバルを見上げる。


「ドラムって、

 めちゃくちゃ目立つ楽器だと思ってた」


 兄は笑う。


「まあ、暴れようと思えば暴れられるけどな」


 兄はスティックを指で回した。


「でも、主役じゃない」


 納屋の静かな空気の中で、

 その言葉だけが残る。


「周りをよく見て、音を聞いて、空気を回す」


 軽くバスドラを踏む。


 ドッ。


 それに合わせるみたいに、

 スネアを小さく鳴らす。


 パン。


「ギターが前に出たら支える。歌が止まりそうなら押す。

 逆に、出すぎてたら引く」


 シンバルが、

 小さく揺れる。


「それだけで、バンドの音は変わる」


 兄は少し笑った。


「それが面白い」


 ハヤテは、

 並んだドラムを見つめる。


 派手なのに。


 真ん中にあるのに。


 でも、

 前に立つ楽器じゃない。


 誰かを聞いて、

 動かして、

 支えて、

 熱を回していく。


 その感じが、

 妙に好きだと思った。


 ハヤテは、

 もう一度だけスネアを叩く。


 パン。


 さっきより、

 少しだけ音が前に飛んだ。


 兄が横で笑う。


「いいじゃん」


「いや、全然わかんない」


「分かってないやつの叩き方じゃない」


 兄はそう言って、

 ドラムの縁を軽く撫でた。


 少しの沈黙。


 虫の声だけが聞こえる。


 それから、

 兄がぽつりと言った。


「……気に入ったなら」


 少し間。


「ハヤテにやる」


「え」


 思わず振り返る。


「でも、カケル兄ちゃんのだろ」


「もう叩いてないし」


 ハヤテは、

 ドラムと兄を交互に見る。


「……いいの?」


「いい」


 兄は笑う。


「その代わり」


 一本しかないスティックを、

 軽く振る。


「スティックは自分で買えよ」


 ハヤテが吹き出す。


「そこはくれないんだ」


 兄も笑った。


 納屋の空気が、

 少しだけ軽くなる。


 兄の手にある一本のスティックを見る。


 木の表面は擦れていて、

 先端も少し欠けていた。


 長く使われていたのが分かる。


 ハヤテは少し迷ってから言う。


「やっぱりさ」


「……そのスティックも、もらっていい?」


 兄が一瞬だけ黙る。


 納屋の外で、

 虫の声が続いていた。


「これ?」


 軽く振る。


 カツ、と指に当たる音。


「うん」


 ハヤテは頷く。


「古いし、一本しか無いのに?」


「これがいい」


 兄は、

 少しだけ困ったみたいに笑った。


「物好きだな」


 それから、

 スティックを眺める。


 折れた相方。


 削れた跡。


 叩き続けた時間。


 全部、

 その一本に残っていた。


 兄は小さく息を吐く。


「……まあ、片方だけ持ってても仕方ねえか」


 そう言って、

 ハヤテに差し出した。


 ハヤテは、

 そっと受け取る。


 重さはさっきと同じはずなのに、

 少しだけ違って感じた。


「折るなよ」


「もう既に一本ないじゃん」


「だからだよ」


 兄が笑う。


 ハヤテも笑った。


 そのあと、

 もう一度だけスネアを叩く。


 パン。


 さっきより、

 少しだけ音が近かった。


「若先生、お時間です」


 納屋の外から声がした。


 兄が、少しだけ顔をしかめる。


「あの呼び方、やめてくんねえかな」


 小さく呟いて、

 兄は苦笑した。


「今、行きます」


 返事をした声は、

 少しだけ低い。


 振り返った兄の顔は、

 もう“大人”になっていた。


 家の人間として、

 呼ばれる側の顔。


 ハヤテは、

 なんとなく黙る。


 兄は納屋の入口で立ち止まり、

 軽く顎をしゃくった。


「鍵、忘れるなよ」


 ハヤテは、

 手の中のスティックを見る。


 それから、

 納屋の奥のドラムを見る。


 さっきまでと同じ場所なのに、

 少しだけ秘密が増えた気がした。



*


 高校に入学した。


 髪を染めて、

 ピアスを開けた。


 中身は何も変わっていないのに、

 周りの目だけが、少し変わった気がした。


 廊下に並ぶ、

 部活動のポスターを見る。


「派手だね」


 不意に、

 上級生に声をかけられた。


「音楽とか、やってる?」


 ハヤテは少しだけ目を瞬く。


「音楽」


 その言葉が、

 少しだけ大きく聞こえた。


 そんな大層なものじゃない。


 一本しかないスティックで、

 ひとり、適当にリズムを刻んでいただけだ。


 答えに困って、

 曖昧に笑う。


 上級生は気にした様子もなく、

 チラシを差し出した。


「新校舎の音楽室でさ、軽音やってるんだ」


 チラシには、

 ライブ写真と、

 派手な文字が並んでいる。


「放課後、自由に使えるから。一回見に来なよ」


「……ありがとうございます」


 ハヤテは、

 笑顔で頷いた。



「部活、決めた?」


 昼休み。

 クラスメイトが机に頬杖をついたまま聞いてくる。


「まだ。運動系も見たいけど」


「あー、でもお前、音楽とか好きそうじゃね?」


 適当だな、と思う。

 そのまま、軽く流す。


「軽音部入ったらさ、音楽室自由に使えるらしいよ。放課後、見に行かない?」


 その時。


 ふと、

 窓際に視線を感じた気がした。


 黒いギターケース。

 窓の近くの席に、誰かが座っていた。


 ハヤテは一度だけ振り向いたが、特に気に留めなかった。


「じゃ、あとでな」


 軽く返事をする。


 放課後。

 数人で、新校舎の音楽室へ向かう。


 扉を開けると、

 音が一気に流れ込んできた。


 ギター。

 ベース。

 ドラム。

 キーボード。


 機材が並び、

 アンプの灯りが点いている。


「お、来てくれたんだ」


 昼に声をかけてきた先輩が笑った。


 部員は多い。


 奥では誰かが音作りをしていて、

 別の場所ではライブみたいに演奏が始まっている。


 歓声も上がる。


 ちゃんとしている。

 整っている。


 誰かが軽く叩くだけで、ちゃんと音が返ってくる。


 ギターの音が重なり、ベースが低く響く。

 その奥で、ドラムが一定のリズムを刻んでいた。


 少し音が外れても、誰かが笑う。

 それにつられるように、演奏もまた続いていく。


 うまいかどうかは、よく分からなかった。


 けれど、楽しそうだった。


 ハヤテはしばらく、その音を聴いていた。


 やがて視線が、部屋の奥に置かれた古いドラムで止まる。


 誰も使っていない。

 少し埃をかぶったまま、端に寄せられている。


 その姿が、家の納屋に置かれていたドラムと、なんとなく重なった。


 賑やかな音の中で、そこだけが少し、静かだった。


「楽しかったな」


「な。これからどうする?」


 帰り支度をしながら、クラスメイトが聞いてくる。


「俺、ちょっと色々見てくわ」


「おー、じゃまた明日」


 軽く手を上げて別れる。


 放課後の校舎を歩く。


 運動部の声。


 吹奏楽の音。


 廊下を走る足音。


 いろんな部活。

 たくさんの人。


 その時。


 ふと、

 旧校舎のことを思い出した。


 ……あそこにも、音楽室あったな。


 渡り廊下を抜ける。


 空気が少し変わる。


 人が少ない。


 薄暗い。


 静かな校舎。


 でも。


 少しだけ、

 音が聞こえた。


 誰かいる。


 ハヤテは、鞄の中に手を入れる。


 一本だけのスティック。


 それを握る。


 少しだけ笑った。


 それから。


 勢いよく、音楽室のドアを開ける。


「空いてる?」


 教室を見渡す。


 旧校舎の音楽室には、ドラムはなかった。


 古いピアノ。


 がらんとした机。


 最低限のアンプ類。


 窓際に、見覚えのある顔が二人。


 同じクラスの男子だった。


 会話をしているわけでもない。

 合わせているわけでもない。


 ただ、それぞれ楽器を持って自分の音を確かめている。


「えっと、同じクラスの……」


 ハヤテが声をかける。


 黒いギターケースの男子が、少しだけ顔を上げた。


「……ヒナタ」


 小さな声。


 それだけ言って、またギターを鳴らす。


 次に、

 赤茶色の髪のベースを持った男子と目が合った。


「コウタです」


「俺、ハヤテ。よろしく!」


 手に持ったスティックで、近くの机の縁を軽く叩く。

 乾いた音が、静かな音楽室に響いた。


 誰も笑わない。


 会話も弾まない。


 音も、

 まだ全然まとまっていない。


 それでも。


 なんだか、ワクワクした。



*


 ハヤテは、新校舎と旧校舎の音楽室を、なんとなく行き来していた。


 まだ、どの部に入るかは決めきれていない。


 運動部も楽しそうだったし、文化部も悪くない。

 どこからか聞こえる笑い声や掛け声に足を止めては、また別の場所へ向かう。


 どれも少しずつ面白そうで、ひとつに決めるには、まだ早い気がしていた。


「今日、軽音行く?」


 クラスメイトが声をかける。


「行く」


 軽音部の部室は、いつも人が多かった。


 ギターの音。

 笑い声。

 誰かが合わせるドラム。


 ハヤテはその輪の中に入りながら、音より先に周りを見ていた。


 誰と誰が組んでいるか。

 どこに空気が流れているか。


 誰が楽しそうか。


 そんなことばかり、

 なんとなく見ている。


 部屋の隅には、

 古いドラムセットがあの日のまま置かれていた。


「あれ、使わないんですか?」


 ハヤテが聞くと、近くにいた先輩が振り返った。


「ん? ああ、それ」


 先輩は、古いドラムを軽く顎で示した。


「今年、新しいの入ったから。そっちはもう使ってない」


「へえ」


 ハヤテは、

 ドラムの前にしゃがみ込む。


 少し埃は被っているけれど、

 壊れてはいない。


 整備すれば、

 まだ普通に叩けそうだった。


 旧校舎の音楽室には、

 ドラムがない。


 ヒナタのギター。

 コウタのベース。


 旧校舎の音は、

 まだバンドではなかった。


 でも、

 止まってはいなかった。


 ハヤテは、

 少し考えてから顔を上げる。


「あのさ、

 もしよかったら、これ」


「ん?」


「旧校舎の音楽室に、

 置かせてもらえないかなって」


 先輩が、

 少し意外そうな顔をする。


「あっち使ってんの?」


「まあ、なんか」


 うまく説明はできなかった。


 ただ、

 あの場所にドラムがあったら、

 音が少し変わる気がした。


「使ってないなら、もったいないし」


 先輩は、

 少し笑った。


「顧問に聞いてみるけど、たぶんいいんじゃね」


「じゃあ」


「ただ、あれ重いぞ」


「ですよね」


「時間ある時、

 運んでやるよ」


 ハヤテは、

 一瞬だけ目を丸くしてから笑った。


「ありがとうございます」


 そう言って、

 もう一度、古いドラムを見た。


 部屋の隅に置かれていた音が、

 少しだけ近くなった気がした。



*


 ひととおり部活を見て回ったころには、校舎の影が長く伸びていた。


 運動部も、文化部も、それぞれ楽しそうだった。

 けれど、結局どこに入るかは決められないままだった。


 帰ろうとして、ハヤテはふと足を止める。


 最後にもう一度だけ、旧校舎の音楽室を覗いてみようと思った。


 放課後の旧校舎は、静かだった。


 音楽室には、

 相変わらずヒナタとコウタしかいない。


 西日の差し込む窓際。


 古いアンプ。

 少し埃っぽい空気。


 二人は視線も合わせず、それぞれ楽器を鳴らしていた。


 ヒナタは、自分の中を確かめるみたいにぽつぽつとギターを置いていく。

 コウタは、その音を追いかけるように少し遅れてベースを返す。


 合わせる気は、たぶんない。


 曲ですらない。


 ただ、音だけが静かな部屋に転がっていく。


 ハヤテは少し離れた机に腰掛けながら、その様子をぼんやり見ていた。


 手には、一本しかないドラムスティック。


 ドラムはない。


 だから、適当に机を叩く。


 カツ。


 カツ、カツ。


 乾いた音。


 一定でもない。


 リズムとも言えないくらい、

 適当な音。


 でも、

 ハヤテはちゃんと聴いていた。


 ヒナタが、

 どこで息を抜くか。


 コウタが、

 どの音を拾いたがるか。


 どこなら、

 二人の音がぶつからないか。


 人を見る。


 音を聴く。


 空気の流れを読む。


 ハヤテは、

 机を軽く叩きながら頭の中で音を組み立てていた。


 ――ここだ。


 カツ。


 一音、

 間に落とす。


 その瞬間。


 ヒナタのギターと、

 コウタのベースが、

 ほんの一瞬だけ重なった。


 空気が変わる。


 二人の手が止まった。


「……今の」


 誰が言ったのか、

 分からないくらい小さな声。


 もう一回合わせよう、

 とは誰も言わない。


 再現しようともしない。


 それでも。


 さっきまでとは、

 確実に違っていた。


 バラバラだった音が、

 一瞬だけ、

 同じ場所を見た気がした。


 ハヤテは、

 その空気を見ながら、

 少しだけ笑った。


 叩けば、

 音は動く。


 誰かの前に出るんじゃなくて、

 誰かと誰かの間に置く音。


 悪くない。


 今の音を、

 もう一度聴きたいと思った。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回の短篇は、本編1話につながる前の出来事を

ハヤテの視点から描いた、三人の高校時代のお話でした。


そして、ハヤテが兄からドラムを譲り受け、

自分の音を見つけていく始まりの物語でもあります。


同じ時間を過ごしていても、見えているものは少しずつ違います。


誰かにとっては何気ない一瞬でも、別の誰かにとっては、

長く心に残る景色になることがあります。


本編では描かれなかった三人の始まりや、それぞれの距離感を、

これから少しずつ短篇として公開していく予定です。


本編とはまた違う角度から、Snow flakesという物語を形づくる、

プリズムのかけらを楽しんでいただけましたら嬉しいです。


次の物語も、ぜひお楽しみに。


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