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空への一歩

1916年春、フランス北部の訓練基地。冬の泥濘がようやく乾き始めた滑走路に、粗削りながらも整えられた木製格納庫が並ぶ。フランス軍が手配した練習用の複葉機、ブレリオXIとニューポール10の混成がずらりと並べられている。その滑走路にて、欧州派遣軍から選抜された視力と反射神経に優れた100名の日本兵が、航空士としての訓練を受けていた。彼らの指導にあたるのは、フランス陸軍航空隊「コウノトリ飛行大隊」の滋野清武大尉と、英仏の飛行教官たちである。


訓練初日、滋野大尉が通訳を介して訓示を述べる。


「皆さん、これから始まる訓練は厳しいものになりますが、空の戦士としての誇りを持って臨んでください。」


通訳がフランス語に訳すと、教官たちは頷きながら日本兵たちを見渡した。


訓練は、座学から始まり、機体の構造や飛行原理、操縦方法などを学ぶ。その後、実機を用いた地上での操作訓練へと進む。英仏の教官たちは、身振り手振りを交えながら丁寧に指導し、通訳が逐一日本語に訳すことで、意思疎通が図られていた。


「よし、次は君だ。名は?」

「中原一等兵、中原義勝です!」


凛と背筋を伸ばした若者は、熊本の農家の次男坊。視力は両目ともに2.0、銃器訓練でも抜群の反射速度を記録したため、選抜された一人だった。


滋野は頷き、後ろに控えていた仏軍教官ロベール・グルニエ中尉に目配せする。


「Monsieur Grenier, c’est à lui.」(グルニエ中尉、次は彼です)


「Très bien. Dites-lui d’aborder par la gauche.」(よろしい。左側から搭乗するように伝えてください)


通訳の伍長がすぐに訳し、中原に伝える。


「左側から搭乗とのことです!」

「了解しました!」


中原はぎこちない動きで機体左側に回り込み、丁寧に鉄パイプ製のステップを踏み、コクピットへと滑り込んだ。シートは粗末なキャンバス張り。体を締めつけるように革製ベルトで固定される。


滋野はコクピットの縁に手をかけながら、静かに言った。


「中原。今からやるのは“エンジン始動”と“地上滑走”だけだ。離陸はまだ先だ。だが……ここから全てが始まる。気を抜くな」


「はいっ!」


グルニエ中尉が地上クルーに合図を送り、クランク棒が機首に差し込まれる。数秒後――


「Contact !」(点火!)


プロペラが唸りを上げて回り始め、エンジンが咆哮した。中原の全身に、初めて感じる振動と熱気が走る。眼前には震えるコンパス、そして前方滑走路を指し示す指導士官の手旗。


滋野は耳を澄ます。


「エンジン音、やや高めだな。混合気が濃い。彼に回転を少し下げるよう指示してくれ」


通訳が中原に声をかけ、彼はおそるおそるスロットルを絞る。音がわずかに落ち着き、グルニエ中尉が頷いた。


「Bien. Roulez doucement.」(よし、ゆっくり滑走せよ)


中原は操縦桿を握り、足元のラダーに慎重に力を込めた。機体が震えながら前進する。地面をこすれるほどの低速だが、それでも風は確かに顔を打つ。


「……おお……動いた……」


滑走中の中原は思わず口にした。機体は左へ傾きかけるも、すぐさま右足を踏み直し、中心を保つ。


その様子を、他の訓練生たちが食い入るように見つめていた。三谷一等兵が隣の新開兵に小声で囁く。


「ありゃあ……まるで馬に乗っとるみたいばいな……!」


「おれ、馬乗ったこともなかばい。あんなん、できるとやろか……」


「やらんといかんとたい。生きて帰るためにはな」


10分ほどで訓練は終了。中原は慎重に機体を停止させると、エンジンを切り、深く息を吐いた。滋野中尉とグルニエ中尉が並んで彼を迎える。


「どうだった?」


「……風の音と、震えが……体に響いてきて……でも、気持ちよかったです」


「そうか」


グルニエ中尉が笑いながら通訳を通じて言った。


「C’est un bon début. Il a du potentiel.」(なかなか良い滑り出しだ。素質がある)


こうして、一人また一人と訓練機に乗り込み、100人の日本人兵たちは「空」の感覚を学んでいった。毎日のように繰り返される滑走訓練。訓練生たちは泥にまみれ、油にまみれ、指先の感覚で機体を操る術を身につけていく。

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