近代化されていく娯楽
明治末から大正初頭にかけて、日本の社会は情報と娯楽の分野でも劇的な変化を遂げつつあった。
印刷技術の発達、新聞網の全国化、大衆向け雑誌の発行、活動写真の普及――これらはいずれも、
都市と地方を結び、階層を越えて「情報を共有する」という新しい国民経験を形成していった。
名古屋・栄町の芝居茶屋では、芝居見物を終えた客たちが団子を頬張りながら賑やかに談笑している。
「いやぁ、今日の新派劇は見応えあったな。あの女形、まるで本物の武家の娘みたいだった」
「わしはやっぱり、活動写真がええ。映像で見る戦争は、講談より迫力あるわ」
「そやけど、写真とて作りもんや。見て感心しても、うちは米代の心配が先やがな」
同席していた若い書生が口を挟む。
「でもね、こうして皆が同じ話題で語れるのって、ええことやと思いますよ。新聞も雑誌も、劇場も、わたしたちの“共通の世界”を作ってるんです」
都市では『萬朝報』『国民新聞』『やまと新聞』などが庶民の読書習慣を育て、
『婦人之友』『少年倶楽部』『実業之日本』といった雑誌は家庭や学校でも読まれるようになっていた。
新聞には帝室記事、経済、国際情勢、文学欄まであり、庶民が国家を語ることが「普通」になっていく。
活動写真は都市部に次々と常設館を設け、「日露戦争記録」「皇室行啓記念」「欧米風俗紹介」などの映像が拍手で迎えられた。
また、地方でも紙芝居、回覧雑誌、講談口演などが村々を巡り、
農村の子供たちも「知っているニュース」や「流行歌」を共有し始めていた。
ある長野の村では、学校で「浪花節」を教わった子どもが帰宅後、祖母に歌ってみせる。
「うちの孫がねぇ、天覧試合の話を浪花節で語るんだよ。あれは感心したねぇ。今の子は“語る声”を持っとる」
情報と娯楽の“近代化”は、日本人をより多く結びつけ、あるいは、選別し始めていた。
「何を知っているか」「何を語れるか」が、階層や地域を超えて新たな線引きを生むようになっていたのである。




