6 木々わける先
視界がクリアになると、教室内、真ん中より後方、自分の席にいた。
黒板の前には倫理の教師が立っている。壁の時計は、五時限目の終了五分前、そろそろ放課後になろうという時刻を示している。
ゆっくりと、呼吸を意識的に繰りかえしながら……愛乃は何もない机上をみおろし、引き出しからノートを引っぱり出して、それからこっそり、ポケットの携帯端末を表示させた。
日付は、変わっていない。
つまり、四限目の保健をスルーし、倫理も大半を放りなげたということだ、おそらく、現状は。
愛乃はノートをひらく気も失せ、机に両肘をついて額をおさえた。
(嘘でしょ)
みこの世界での、あの過酷な(体感としては)サバイバルが、こっちの世界の精々、二時間弱にしかあたらないなんて。
だいぶ怖かったし、相当ハードだったし、ノヤに再会できたときはそれこそ、九死に一生をえたくらいの気持ちだったのに。
それになにより。
(……怒られた……)
目をとじると、まぶたの裏にまざまざとよみがえってくる。ヨクの、あの綺麗な濃い松葉色の瞳が、くらい、みたことのない色をしていた。
つい、さきほどのことなのだ――愛乃の体感としては。本当に、直前のことなのだ――実際はどういう理屈になっているのか、まったく、一切わからないけれど。
ものすごい迫力だった。
(あの人、美形だったんだな)
いまは皺と、のびきった眉とひげが邪魔しているけれど。若いときはさぞかしもてたにちがいない。
ハンパなかった。なんというか、ショックが大きい。
思えばこのごろは、身内はともかく、よその大人にマジ怒られすることなんてなかったのである。基本的に、人に文句をいわれるようなことはしないようにしているから。
(ああ……)
本気でへこみそう。
周りに気づかれないように、ノートで顔を隠し、音をたてないようにして長く嘆息する。
(なんつうタイミングで)
替わってくれるんだ、みこは。わざとか? 退屈じゃないと察したからか?
それともこっち(=倫理の授業)が退屈すぎたからか。まさかね。
なんだかわからないが、ヨクをなだめてくれるのだといいのだが。
それにしても、なぜ怒ったのか、理由くらいきいておきたかった。その上で、できることなら、謝ってだっておきたかった。
後味が悪すぎる。
(それと)
目の前の真っ白なノートに、うんざりする。
(保健と倫理か……)
またノートを借りなければならない。
いや、しかし、ユミのノートは全科目一冊の分厚いバインダーだし、そんなに追いつくのが難しい科目でもないし、この際、テスト前にまとめて確認させてもらえればいいか。というか、つまるところ、またいつあちらに放り出されるかもしれないし。
なんだか、みこが出没するようになってから、生活パターンがめちゃくちゃである。
(何なの、もう)
怒ればいいやら、なげけばいいやら、なんともやるせない気分である。
内心ぽつりと、まじへこむわ、と愛乃はつぶやいた。
チャイムが鳴りひびき、全校一斉放課を告げた。
◇
それから週末、週明けにおよぶまで、みこは一度も愛乃の脳裏にあらわれなかった。きたる定期テスト、そのテスト前期間に備えて、説明したり、いいふくめたり、さらには主張したりと、いろいろ交渉するべきことがあったのだが。愛乃の目論見はなにひとつ実現しなかった。
さすがはわがまま娘、といっていいものか。
前回のもどりぎわがもどりぎわだったゆえに、釈然としないのと同時に、少しだけ、ほっとしたような、申しわけないような、奇妙な気分である。
(ヨクの機嫌を直すのに、こんなに時間がかかってるってことじゃないよね)
自問したところで、はいともいいえともつかない。当たり前だ、愛乃はヨクのことをなにもしらない。
ひとたびそこねたヨクの機嫌をとるために、あのみこが、愛乃を呼ぶのを自粛するとか、殊勝な行為をするとも考えにくかったが……ひょっとしたら、そういうことにもなるのかもしれない。わからないけど。生憎、愛乃はみこのこともなにもしらないので。
当然、二人の関係性も皆目わからなかった。
しばらく思い悩んでみたが、悩むたび、勘弁してくれ、という結論に達し、考え事を放り出す。
そんな、すっきりしない土日を経て、月曜日、三時限目、昼休みを前にした体育の授業であった。
ジャージ姿で皆とつれ立って校庭を走りだした途端、景色がかわった。
走っているつもりだった愛乃は、突如、劇的な落下感に襲われた。
「ヒアッ」
喉が引っ繰りかえったような悲鳴をあげる。夢中で近くのものをつかもうとしたが、落ちる方が早い。体のほとんどを空になげ、みこの体で、腕だけで太い木の枝にぶらさがった。
悲鳴も、それ以上、声にならない――みこの体がまだかるくてたすかった。腕の力も、思ったより、強い。両腕に力をこめ、幹を蹴って、なんとかもとの枝にとりつくと、腰からずりあがるようにして、枝の上にもどることができた。
息があがっている。つかれたというより、おどろいたせいである。ようやく、枝にすわって、辺りをみまわすゆとりがうまれた。
四方の木々。同じ高さの周りは、すべて緑だ。
上からは僅かに光がふってくる。昼間らしい。
みこのいる木は、枝も幹も、かなりしっかりしている……みおろして、愛乃はぎょっとした。
大きな毛むくじゃらの生きものが、この木の根もとにいる。
頭の先を根と土に埋めるようにして、何かをかいでいるようだ。
(――猪?)
愛乃のしるそれより、二、三回りも大きくみえるが、それに一番近いとしか、愛乃には思いようがない。豚よりは頭が細長いし、ときどき顔をあげると、口もとに大きな牙がみえる。根に鼻先をよせては、また起きあがり、小股でくるくると木の周りをうごきつづけている。
離れはしない。
(――また)
しばらく息をころしていたが、愛乃はどっとつかれた。
猪もなのか、と思う。このあいだは巨大な鳥だった。怪鳥、と、ああいうのを呼ぶのじゃないのか。
ぼんやりみおろしていても、彼――というか猪だが――はこちらをみあげはしない。みこに気づいているのかいないのか、木にのぼったり、幹をゆすったりもしない。しかし根もとをかぐわりに、何を掘るでもたべるでもない。
そこにいる。そうするべきとでもいうように。
なんとなく、愛乃はみこの手のひらをみた。
この子のためだろうか。
みこは動物に好かれるのか?
(よくわからないけど)
食べるため、じゃなさそうにみえるんだよなあ……と思っておりたらパクリだったりして。
枝にきちんとすわっていればひまなので、そんなことも考えるのだった。そう、すわれてさえいれば。みこはつまらなかったことだろう。
それにしても、もうちょっと、タイミングを計ってくれればいいものを。走っているときなどに呼ぶから、ずり落ちたりするのだ。
じっとしていると、出し抜けにパチパチと、硬い音が立て続けに足もとにおこった。
何事かと下をみやると、猪は顔をあげ、身をかわすように幹にすりよる。遠くから石つぶてが飛んできている。
石はどれも小ぶりだが、数が多く、なにより速い。あたったら痛そうだが、幸い、彼の毛皮がそれを弾いている。猪は目を細めるようにして、幹の陰から鼻先を出して石のくるかたをみさだめたか、ちらと、梢のこちらへおもてをあげた。鼻をひくつかせ、足早に――そう、なぜだかしらないが、逃げるようではなかった――木々の奥へ遠のき、立ち去っていく。
みおくる愛乃は、いいしれぬさびしさをおぼえた。
待って、とさけんで、呼びとめたいような思いだった。
みもしらぬ石つぶての投げ手より、穏やかにそばに寄り添うけものの方が、余っ程、落ち着くような気がする。
猪が姿を消して、いくらか経つと、ほとんど音もなく、枝の葉影を僅かにゆらして、小柄な影が地におり立った。
四、五本向こうの木の下だ。袖がなく、裾の短い服を着ている。腰紐に革袋をさげ、左手はにぎったまま。みこのいる木の根もとまでくると、あっという間に梢にのぼりつめた。
みこの足のすぐ下にある枝と、幹を支えにして、こちらにむかって右手をのばす。
突然、目の前にきた同類に、愛乃は目をみはる。
少年、というか、こどもだ。
五、六歳くらいだろうか。みこより少し上くらい。
すんなり、まっすぐの、針金みたいな細い体。日焼けをしらないような白い肌、短い、やわらかそうな髪、淡い色の眼。
歳に似合わない、まったくの無表情。
一瞬、涼時を思わせた。
「――え」
思わず、愛乃は身を引いた。
少年はかすかに首をかしげ、手をさらにのばし、みこの肘から腰の辺りへ腕をまわして、ぐいと己の肩先へ抱えこんだ。
え、と、愛乃がもう一度いうかいわないか。片足の支えの枝を上下にしならせ、ひょいとうしろへ身をおどらす。
(わ――!)
さけびたかったが、寸前に少年の肩に顔をおしつけられた。
とん、と、かろやかに着地する。少年は少しうしろへよろめいたが、愛乃はそれどころではない。腰が抜け、少年の服から口を外すと、その場にへたりこんでしまった。
――死ぬかと思った。
細い体で、いくつも変わらない小ささで、二人の重さを受けたとは信じられない身のこなし。
しかも――愛乃は口もとをぬぐうようにおさえる。
この子が服を噛ませてくれなかったら、へたをすれば、舌を噛んでいただろう。
愛乃がわかっていないこともみぬいていたのだ、この子は……恥ずかしいやら、おそろしいやら。
黒い、やわらかい土の上に両手をついてうつむいていると、ふと額の前に手が差しだされる。
みあげると、少年がやはり無表情で、まっすぐこちらをみつめている。
愛乃はまごついた。この子のまなざしは、ひどく真摯だが。
(ノヤとヨクは、どこへいったの)
大問題だ。
二人がもう迎えにこないのではなどと、愛乃が余計な心配をするより早く、少年が俄に木々のかなたへ目をそらした。
身を強張らせ、ひたとそちらへ耳と目をとぎ澄ませている。丁度、猪の去った方だと愛乃が思った矢先、慕わしい匂いと足音のあとに、みしったふたつの姿があらわれた。
「おや」
その声をきき、愛乃はほっとしなかったとはとてもいえない。
土を踏んでやってきたのはノヤとヨクで、いつもの装いで、ヨクはほんの零コンマ数秒、愛乃をみとめたが、すぐ少年にむかった。
「その童女はわしらの連れじゃ。ぬしが邑へ、いまゆるしをえたばかり。大人にきいてみるがよい」
そういうヨクを、こどもはじっとみていた。愛乃がヨクとノヤの顔をうかがう間に、ふと、みこの手がとられる。
くいと引かれて、腰が浮いた。
(あれ)
あれれ、と、愛乃は戸惑う。ヨクが僅かに、もんのすごぉくちょびっと、顔をしかめたのがわかった。
少年があるきだし、愛乃は彼のなすがまま引きつれられていく。
ヨクとノヤの脇を通って、猪の去ったかた、ノヤとヨクのいまきた方へ。
被害妄想かもしれないが、ヨクのこっちをみる眼が冷たい。
あわあわしながらあいている手を二人の方へのばすと、音も間もなく距離をちぢめて、ノヤが傍にきてくれた。
愛乃はがっしとその毛皮をつかむ。
(天使……!)
なんてやさしいんだろう、この人は。
ヨクがあんなないま、意地でもこの手を離すまい。
童は愛乃をつれて、緑の下をすすんでいく。ノヤは愛乃に毛皮をつかませ、そばにぴったりついてくる。
そっと目を細めて、あきらめたように、ヨクがあとについてきた。
木々の合い間をしばらくいくと、やがて前がひらけた。山をくだる草むらの裾に、小さな家々があつまっている。中には、ひときわ大きな建物もある。周りは低い垣に囲まれ、垣の切れ目、入り口に人が立っている。
邑だ。
愛乃は目をみひらいた。この前みた集落より、なお大きい――。
童は強くみこの手をにぎる。ころがるように坂を駆けくだり、囲いの門口にいきついた。
そこに佇む大人を、みあげようとしたとき、目の中が霞むように暗転した。




