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天地の詩(仮)  作者: AF
3/14

2 天(あめ)の下の逃走




 妙な夢をみた。


 おかげで朝から頭がすっきりしない。

 しかし、けさは、母がまめまめしくごはんをよそってくれることも、通行人の態度が豹変することもなかった。きのうおこったと思われた一部始終は、すべて、悪い夢だったと判断して差しつかえないだろう。


 駅から高校までの道を、きょうは早めに出て、愛乃はゆっくりとあるいている。

 朝のうちは無理だけれど、修理に出ている自転車も、きょう中にとりにいくつもりだ。母と、それよりもほとんど家にいない父が、どうやら相当いい顔をしなかったようだけれど。事故に遭ったとはいえ、この街で自転車がないことがどれほど不便なことか、本当はわかっているはずだ。


 たまになら、あるくのも悪くない。時間に余裕があるから、きのうのようにいそぐ必要もないし。きょうまでのことだと思えば、楽しくさえ思える。


「ぱよぱよ~」


 耳慣れた声が右手からきこえて、思わず、左によけた。


 六連(すばる)だ。

 自転車をふらつくほど減速して、横につけてくる。

 愛乃は学ランの全身を二度ほどみおろした。


「何? 学ランフェチ?」


 あさってな質問をききながし、無邪気なまるい目に怪訝(けげん)な目をむける。


「……きょうはまともみたいね」

「お? 謎の高評価。どした、三次元にめざめた?」


 ふう、と、ひとまず安心して、愛乃は小さく息をついた。


「めざめたのはそっちじゃないの。もうやめてよね、あんなの」

「何何? おれが三次元に? ナイナイ、行って二・五だよ。ほぼほぼムリだよ」

「あぁ、そう」


 あれ、そうだった。

 どっちにしろつかれるなコレ、と、愛乃は気づいた。


 きのうは、あまりの変貌ぶりに、度肝を抜かれたけれど。真逆の方向ではあるけれど。

 そもそも六連は、このくらいには振りきった言動をするのだった。


 口もとに笑みを浮かべた顔を横目にみやると、目もとには(くま)ができている。また徹夜同然で、PCにかじりついていたのだろう。


「またゲーム? 今度はどこの異世界にいってたの」

「南シナ海辺りだな、うん、エレクトリック美少女サウンドがBGMで」

「異世界……」

「異世界じゃなくてバーチャルだな。むしろほぼ現実のレベル。おれ、そろそろ作曲にめざめられるかもしれない」

「四歳の幼女……」

「何!? めざめた!? 愛乃おれに曲提供とかどう!?」

「ないない。ねえ、四歳児が主役のドラマとかアニメとか、最近ある?」


 六連の食いつきを一刀両断してきく。むぅ、と、うなったのもつかの間、六連は断言した。


「ないな。おれの包囲網にかからないそんな萌え設定、許せるわけがない」

「理屈は意味がわからないけど、そっか。どうもありがとう」

「なんだ素直だなあ。で? どこの架空設定?」

「しらないからきいたんだけどね……」


 六連の包囲網にかからないとすると、あの夢の元ネタは、一体どこから出たものか。

 愛乃自身に、あんなにファンタジーかつ具体的な想像力はないのである。変な夢をみたときは、大抵、ドラマか何かの影響を受けていることが多い。

 女性雑誌、少女漫画、バラエティ、ドラマ、小説……だめだ、最初のひとつくらいしか、六連の守備範囲を外れるものがなかった。

 特定の何かの影響というよりは、事故後のストレスやら、現実のあれやこれやがごっちゃになったゆえの産物だろうか。


 ――。まあいいや。


 考えてもしかたない。やめよう。


「なんでもない。忘れて」

「なんだ? 事故の後遺症? 六つめの電波塔が開局したとか? きのうも思いっきり叫んでたもんな」

「忘れて!」


 ついつい、愛乃はきょうもさけんだ。

 きのうの朝の自分の奇行など、二度と思い出したくない。最新の黒歴史だ。


「大体、六つめどころか七つめをオンエアさせたのは六連の方じゃないの」


 何の前触れもなく旧家の召使いのように(かしず)いたのである。普通、あっても使わない引き出しだろう。というかなぜそんな引き出しがあるのか。


「何が? おれのセブンスセンスがめざめたの? ソレ、その話詳しく」


 ところが六連の顔に、とぼける様子は微塵もなかった。


 愛乃ははっとして、同級生の顔をみつめた。


「おぼえてないの? ……おぼえてないの……?」

「何の話?」


 首を右に左にかしげる六連から目をそらし、きのうの記憶を掘りかえす。


 いまの六連からは想像もつかない、それでも、まぎれもなく六連本人が、目の前に(ひざまず)いたさまを。

 手ずから愛乃の外履きを脱がせ、上履きを履かせたのを。


 けろっとした寝不足(そう)状態のあかるい顔をみると、思わず口に出して指摘したくなるが、なんとか思いとどまった。


 おぼえていないのなら、それに越したことはない。


 六連だけではない。それだけではないのだ。ユミや、教師や、他のクラスメイトたちの異常な行動。

 ――しかし、六連はたったいま、愛乃がきのうさけんだことを取り沙汰したばかり……だが、あのとき、さけんだのは愛乃自身だ。

 ユミや六連の反応は素だった。


 つまり、あの瞬間、あのわがままっ子の影響は、発動していなかったのだ。


(……おぼえていない)


 彼ら、彼女ら自身は。従わされていたことを。


 愛乃だけに、おぼえがある。

 ……ということは。


(ほんとに、なかったことなんじゃないの)


 というか、なんなら、なかったことにできるということだ。


 うん。


 愛乃は独り、一度だけ、しっかり頷いた。


「なあ、おれ幼女萌え属性も正直いけるよ」


 六連が神妙な顔で申し出てくる。


「人として止めるよ?」


 理性の眷属(けんぞく)め、と、六連が何語かわからないことばでぼやいたが、愛乃はそれをいつも通りにききながした。


 幻聴も、幻視も、その他幻覚もない。そうとなれば、愛乃はとても晴れやかな気分であった。

 事故はともかく(なにせ自転車がないのだから、これを否定するわけにはいかない)その後におこったと思われた大体のことは、ほとんど夢だったと思って間違いないのである。


 きのう、朝の教室でさけんだことを、六連に指摘されたばかりだけれど。あれはユミのいった通り、白昼夢だったのだ。そういうことにしてしまおう。


 平和だ。


 予習はすんでいるし、欠席中の復習もあらかた終えている。しばらくピアノの時間を多めにとって、指の調子をととのえて、もっと弾けるようになろう。――ほら、ピアノのことを考えても、頭の中で声なんかしてこない。


 教室の自分の席につくと、愛乃はうきうきと窓の外などながめていた。斜め前の席では、ユミが脅威の集中力で英語の予習をかたづけている。朝夕、部活でいそがしい彼女には、勉強にさく時間はあまりない。その分、授業の合い間の十分間にすべての意識をそそぎこむことで一時限のプレッシャーをしのぐのだから、あっぱれなわざだった。


「愛乃ちゃーん」


 不意に名前を呼ばれてふりむくと、戸口に隣のクラスの女子生徒が立っていた。


 合唱部の正式な部員で(愛乃はもっぱら伴奏担当として、仮入部の身なのである)しりあって日も浅い生徒である。何かわからないが愛乃のどこかを気にいったらしく、親しげに手などふりふり、長い黒髪を背にゆらしてこちらへ近づいてくる。

 こういうことが、愛乃には間々ある……おもに見た目の印象であろう、背が低くてなんかちっちゃいからとりあえず可愛がろう、という姿勢をしめされるのである。業腹(ごうはら)である。

 一々、腹を立てたりしないけれども。


「愛乃ちゃん、来週は部活、来れる?」

「あ――、うん。今週はごめんね」

「ううん。怪我はないって聞いたよ。無理、してない?」


 察するに、どうやらやはり、今週の部活は欠席したらしい。

 しばらく否定と肯定が曖昧な会話をしたあと、彼女はようやく、要件をきりだした。


「それでね、これ、来週から練習する曲の楽譜。渡しておこうと思って」

「ありがとう。あれ、この楽譜」

「うん?」

「先週もらったよ、たしか。先生に――」

「そう?」

「うん。待って、ここに」


 引き出しからファイルをとりだし、机にのせる。その拍子にひらりと紙が一枚、裏を上にして床にすべりおちた。

 女子生徒がそれをひろってくれる。ああ、ごめん、といいながら、愛乃はファイルを手早くめくり、目当ての楽譜をみつけだす。


 ほら、これ、といって顔をあげる。


「愛乃ちゃん――」


 合唱部員は、手もとの紙に目を落としていた。


「これ、……愛乃ちゃんの?」


 ――!?


 愛乃は腰を浮かせ、彼女の手もとをのぞきこむ。

 古文の小テストだ。

 毎週かならず朝おこなわれ、放課後かえってくる、業者製のテスト。


 受けたおぼえのない回の番号、真っ白な解答欄にはしる赤のチェック、空欄の氏名、採点欄には《0》の一文字。


 ――零点。


 愛乃は立ちつくした。


「えっ、これ、一昨日(おととい)の――だよね、なんで愛乃ちゃんの机に?」

「なにこれ……」

「あっ、チャイム。そろそろ戻らなきゃ。愛乃ちゃん、楽譜はあったんだよね? 欠けがあったら言ってね。わたし持ってるから。じゃ、来週また、よろしくね。ばいばーい」

「………………」


 女子生徒がぱたぱたと上履きを鳴らして駆け去る。

 紙切れを持って立ちつくす愛乃の隣には、いつの間にかユミが立ち、頭上からみおろすようにして、愛乃の手もとをのぞきこんでいた。


「すげえ」

「…………」

「マジなの? 無回答、しっかも、っ、名前もないのに、採点されて、っ……」

「……」

「~~っ、~~ッ、――っは無理無理、ミラクルすぎる――!」


 ひぃー、ヒィーっ、と、喉をくるしそうに鳴らして、ユミは両手で自身をかかえて身悶えた。

 笑いすぎだ。


「えっ愛乃っ何それッヒッ本気で愛乃のなのっヒッなんの挑戦なの限界へのアレ? ヒッ」

「~~~~」

「どうやって返されたんだよヒぃッ」


 くしゃっ、と。

 愛乃が拳をつくると、無記名・無回答かつ採点済み零点の答案用紙の端がよれた。

 ぷるぷると、拳がふるえる。


 ――ゆるせん。


 絶対、絶対に、みとめない。こんなの。

 いままでつみかさねてきたなにもかもが水の泡だ。


 愛乃はテストの端をにぎりしめた。拳だけでなく、腕から、全身まで小刻みにゆれている。


 こんなの、わたしじゃない。断じてだ。

 誰のしわざか? ――きまっている!

 わたしじゃないんだから!


(ぜぇぇったい、みとめないんだから――!)



       ◇



「あンの、わがまま娘っ――!」


 例のテストの古文単語をこれ以上おぼえられないというほど復讐、ちがった、復習し、いつもの二時間増しでピアノの練習に没頭したが、例の幼女の声は溜め息どころか気配すらきこえてこなかった。


 きのうはあれほど、たのんでもいないのに、頭の中やら外やらで好き放題まくしたてていたくせに。その上、愛乃の記憶のないおとといは、あんなにも奇跡的な点数をマークしてくれたくせに!


 ゆるさん、と、思った気持ちが、そのまま唇のあわいから出てしまったのは、夢うつつにも、いまいる場所の肌触りや匂いが、愛乃のしる現実とはちがうと気づいたからかもしれない。


 愛乃はだだっぴろい、ごわごわした、あたたかい長い毛皮に抱きついて、その規則的な上下動にゆられているようだった。


「おや」


 ぼんやりと、顔にあたる黒い毛を手でよけようとしていると、右横、下の方から声がきこえてきた。


 この声は。

 ええと、ヨク……だったっけ。


 愛乃が、この見た目通りのわがまま小娘でないことを、ひと目でみぬいたおじいさんだ。


 顔をあげると、愛乃は黒い毛皮の背中におぶさっていて、隣をあるくヨクの顔を、みおろすかたちになっているのだった。


「ふたたびお出ましですな」

「……おはようございます。あの、これ、は」


 愛乃――いまは幼女の姿をしているが――が乗せられているのは、黒い長毛の動物の皮。と、いうことは、その中身の大きな背中は、もう一人の、ノヤという人のものだろう。


「道ゆきを少しくいそいでおりますゆえ、しばらく耐えてくださりませ。それとも、あるきますかな」


 ヨクの声をきき、愛乃は毛皮に覆われたノヤの後頭部ごしに、前方を見通した。


 短い草や苔がまだらに生えた、岩と石がほぼすべてを占める荒れ野。横手には真っ白な(かすみ)がけぶり、空は低く雲がたちこめる。行く手の地面は忽然と消え、かと思えば、またなだらかにつづいている。

 心なしか、空気がうすい。

 そして、相変わらずの冷たい風が目鼻にしみる。


「いそいで、いるんですね」

「さようで」


 ノヤの足取りは力強く、素早く、そのくせ音をほとんどたてない。ゆれがようやく愛乃に伝わって、その速さをどうやらおしはかれる。

 横をあるくヨクも、老人とは思えないほど、かろやかな身ごなしでどんどんあるいている。


 ただでも、おいていかれずにすむかどうかというところだろうに。

 このいとけない手足では、足手まといにもほどがあるなと、愛乃は判断した。


「それじゃ……すみません、このままで」


 そういうと、ヨクの、マントにつつまれた肩が、かすかにふるえるのがみえた。

 ……笑ったのだな、と、愛乃は察した。

 それほど、らしくない物言いだったということか。

 この老人のしる《御子(みこ)さま》とやらの、日ごろのおこないにくらべて。


(まあ、それもそうかも)


 あのわがままっぷりは、ちょっと、納得できるレベルを超えている。


「あの、わたしがいうのも何ですけど」


 しかも、このいそいでいるというときに、きくべきことではないかもしれないけれど。


「なんですかな」

「どういう――そだてかたをしたんですか、この、みこ――この子」


 ヨクは、会話を(わずら)わしがる様子もなく、ごく自然に、愛乃に応じた。

 ほんの僅か、目を細めて。


「御子さまは、世にかけがえのない、ただひとりのおかたであらせられる」

「………………」


 だめだ、この人。


 重度に――末期だ――手のほどこしようがない。


 愛乃は額をおさえてうなだれた。


「うしなわれてはならないおかたです。――しかるに、そちらは、異なる考えを持つようですが」


 ヨクのきらめく目が、くるりとうごいて愛乃をみあげた。うっすらした日の光の下で、長い半白のまゆげの陰で、その瞳はグレーがかった緑色をしていた。


 まるで、冬の松葉を煙でいぶしたよう。

 綺麗だ。愛乃はつかの間、ほうっとみとれる。


 つぎの瞬間には、我にかえって、この老人に、なかばからかわれていたのではと気づいた。


 そうだ、食えないおじいさんなのだ。


「それにしても、わがままがすぎます」

「それはそれは、御子さまには、珍しいことばでしょうな。お声は交わされておりますか」

「きのうから、ちっとも出てこないんです。わたしのいないあいだ、好き勝手やっておいて」

「なるほど。いままさに、そうなっているところですかな」

「は――」


 ……そういうことか!?

 しまった!


 じたばたと、愛乃は黒い毛皮の上で、自らの、つまりは幼女の腕、肩、頭を両手で順におさえていった。

 当然というか、残念ながらというべきか、なにもおこらない。


(あああ、また……!)


 愛乃はいきおい、頭を抱えた。


 ……ヨクのいう通り、あの幼女は、愛乃の意識がないすきに、愛乃の体を好きにうごかしているのだろうか?

 しかし、おととい、寝ているあいだは何も……いや、もしかしたら、愛乃が寝ていたつもりでも、幼女はあちらで起きていたのだろうか。


 いまも、自分の体を愛乃にまかせて、幼女は愛乃の体で愛乃の世界を闊歩しているのか。


「…………あの小娘……」


 今度、あんな点数をとったら、どんな手をつかっても泣かせてやる。


 つぶやいた直後、つかまっている毛皮がふっと沈んだ。胃がひゅっととりのこされるような感覚のあと、愛乃はあわてて唇をとじた。


 もしかして、怒ったのだろうか。


 毛皮ごしのひろい背中を、愛乃はみおろす。

 愛乃がどう思おうと、この人が幼女を大切にしていることは、たしかだという気がする。悪口が気に(さわ)ったのかもしれない。

 ヨクは何といっていたっけ、御子さまをまもるのは、このノヤの役目だと――。


「シッ」


 愛乃が一瞬のうちにめまぐるしく考えていたことは、どうやら、いささか見当ちがいの気遣いだったらしい(いや、本当のところ、見当ちがいかどうかはわからないのだが。なにせ、ノヤはひとこともしゃべらないもので)。

 愛乃に小さなするどい声を放ったのはヨクで、気づいたときにはノヤもヨクも、地面のややくぼんだところに、岩になじむようにして身をふせ、すうっと息をひそめていた。


 愛乃もノヤごと、かくすにも大人より手ごろなこどもの体で、鼻まで毛皮に(うず)めてうごきをとめる。そうしながら、頭までかぶった上着の、すき間から外へと目をこらす。


 辺りに、誰かいるのだろうか?


 こんなだだっぴろい荒れ野で、一体、誰が。だが、道をいそぐといっていたのは、もしやそのためか。


 固唾(かたず)をのんで、目だけで小高い方をみまわすと、ひょいと、視界に、うごくものが走りこんできた。

 灰茶色の毛足の長い、ずんぐりした、四足のけもの。

 それが一頭だけ、ゆるやかにのぼる岩地のきわに立って、戸惑ったように四方(よも)をみわたす。


 鹿、いや、山羊(やぎ)だろうか――?


 黒い肌の小さな顔と、まるい(まなこ)、額の両脇についた立派な角。それも一瞬、ゆらいだかと思うと、後足を折ってあえなく崩れおちた。


 愛乃は息をのんだ。


 地の果てに(うずくま)って、けだものはもううごかない。遠く、さっきまではなかったはずの岩陰のようになって、かすかにふるえるようにみえるのは、いのちのあかしか、吹きつづく風のせいか。


 なおも石のように押し黙る二人に合わせ、終わりのみえない静かな時をすごす。


 しばらくすると、別の影が、けものの影のうしろに立ちあらわれた。


 ――人だ。


 愛乃は身を強張(こわば)らせ、ほとんど息をとめんばかりになる。


 ここからつづく地面の天辺(てっぺん)で、ぐるりをみわたす首のうごきを往復(いきき)させ、それから、人影は足もとのえものをみおろした。

 すばやくしゃがみこみ、それに手をかけ、しごとを始める。

 迷いなく、手ぎわよくとりくんではいるが、つかう刃物がなまくらなのか、はなれていても、力強い腕のうごきの、はだを裂く音がきこえるようである。またたく前には生きものだった塊が、ほどかれていく。愛乃はものもいわずそれをみつめる。


 ひやりと、突然、鼻先を風が通った。

 はたと下をみると、ノヤの黒い毛皮が、横ではヨクが、風の流れに身を浮かすように腰をあげている。

 愛乃はちらと狩人の方をうかがう――彼は丁度、手前にまわりこんで、こちらに背をむけている。愛乃を、幼女をつれた二人は身を低くかがめたまま、すべるように、風が苔の先や小石の上をなでるほどの音しかたてず、低みへ駆けり始めた。

 みる間に速さを増し、遠ざかるころには腰をあげ、申し合わせていたかのように同じ方角へ。道ひと筋もない石の広野をひた走る。

 愛乃は厚い肩にもみじのような手でしがみつく。やわらかくあたたかい上着の、細い幼女の肩ごしに、目だけはずっとうしろにすえていた。


 二人は速い。足音もない。風が吹いている。

 気づくわけがない……愛乃があの狩人の立場なら、絶対、気づかない。到底、無理なわざだ。

 それでもみていた。

 だって。

 ――。


 低きへとくだると、死んだけものと狩人の姿は、じき山陰にかくれた。愛乃の心配をかき消すかのごとく、三人がかくれていた岩陰すら、もはやそれとはさだかにならぬほど小さくなる。

 風はいつまでも同じ強さで渡っている。ノヤとヨクは、変わらず音をたてない駆けかたをする。前にみえる小高いところをまわりこみ、なるべく目立たぬよう、行方をくらまそうとしている。

 いましも丘をまわりこもうというとき、それは目にうつった。

 うしろをみつづける愛乃の、幼女の目に。地平の上へ狩人がふたたび、姿をあらわし、こちらをみつけた。点のような黒い影が、表情までは読みとれないが、たしかにこちらをみとめた。


 口をあけ、体をゆらした――ようにみえた。


(この子……)


 愛乃はちらりと、視線を外し、毛皮をにぎる小柄な手をみた。


 この幼女、とんでもなく、視力がいい。

 愛乃の体ではとてもじゃないが、あの遠方の人の顔など判別できない。


 この差しせまった状況で、妙に暢気(のんき)なことを考えながら、愛乃は両手でずりあがるようにして、毛皮ごしの首もとへささやいた。


「みつかった」


 ノヤはなにもいわず、ふりむきもせず。

 隣でヨクがこちらとうしろをみ、かすかに頷き、足を速めた。


 音もころさずに()く、疾く。

 かの影を丘のうしろへ追いやって駆けぬける。ふたつ、みっつと荒れ野の(うずたか)いところをまわりこむと、あとはもう、狩人の姿が目に入ることはなかった。




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