1 神の語り部
――朝からおかしいと、思ってはいた。
矢木沢愛乃はこの春、高校に入学したばかりである。地区一番の公立の進学校。それは愛乃のすむ町の隣の市にあり、愛乃は市までの電車と、高校までは自転車で、通学を始めたのだった。
そのルートにもようやく慣れ、ほどほどの時間に登校するコツを会得し、五月の連休もすぎ、さて、ともすれば電車に駆けこみがちにもなろうかというころである。
五月のなかば、愛乃は交通事故に遭った。
駅までの帰宅途中の、接触事故だった。交差点の手前で、乗っていた自転車のハンドルに、車のミラーがぶつかって転倒した。衝撃の強さは、ちょっとどつかれた程度のもので、愛乃もちっとも危機を感じなかったが、ころんだ場所がよくなかった。
運悪く、電柱の金具に頭を打ちつけた。頭皮を二針縫う怪我。
そのほか、目立った傷はなく、念のため脳の検査も受けたが、異常なしとなった。
……と、いうのが、あとで確認したところ、この事故の顛末らしい。
ところで愛乃がけさ目をさましたのは、事故の日から三日経った自宅のベッドであった。
布団の中で携帯端末の表示をみて、丸二日も寝ていたことにびっくりし、起きあがってみると、体のどこにも異常はなかった。
いつものTシャツとスウェットパンツで、包帯も絆創膏もなければ、痛むところもない。
自転車でころんだことだけはおぼえているけれど、頭を打った気がするけど、そのあとはしらない。
とりあえず、平日である。
髪をいつものポニーテールにまとめ、前髪をピンでとめ、紺のブレザーに蝶ネクタイの制服をきて階下へおりる。
いつも通り戸口をくぐると、母が独り食卓について、テレビのニュースにみいっていた。
「おはよう」
声をかけると、こっちを一瞥して返事をし、立ちあがって、愛乃の茶碗をとる。椅子から立っても大して背丈が変わらないのは、この母譲りだなと愛乃は思う。
どうするのかと思ってみていると、ご飯をよそい、味噌汁を汲んで、母はテーブルの愛乃の定位置に膳をととのえた。
普段、こうまで甲斐甲斐しく、世話を焼いたりしないのに。
それでもそれが当然という風情で、もとの席に腰をおろした。
怪我人扱いなのだろうか。そのわりに、三日ぶりに起きてきた娘に対する挨拶は、随分そっけない。
愛乃は首をひねる。
椅子にすわり、食事を始めると、夕方雨だってよ、とつぶやくようにいいながら母は新聞をひらいた。
紙面に目を落とし、何をいうでもない。
「わたし、きょう学校行くけど」
愛乃がいいだすと、うん、とこたえた。
「雨ふる前に帰ってきなさいよ」
登校を引き止めはしないらしい。
行ってもいいのだろうか。いや、健康そのものなのだが。
再検査とまでいかなくても、交通事故である。おぼえてないが運ばれたのだろうし、いくら軽症でも、痛み止めとか化膿止めとか、何かしらの薬くらいは処方されてるんじゃないだろうか?
「事故ったあと、病院行ったんだよね?」
「びっくりしたよ。縫うって言うから。髪の中でよかったよね」
「縫ったの?」
愛乃は目をまるくして、母をみつめたが、母は変わらず新聞を読んでいた。
しばらく待ちつつ、縫ったわりには何もないなと、愛乃は髪にふれながら思う。
母は何も説明しなかった。
「そのあとは? わたしもう動いていいの?」
「何言ってんの。検査もなんともなかったじゃない。帰ってきてすぐピンピンしてたでしょ。二日学校行って、なんでいまさら休むの。先生、何て言ってた?」
察するに、先生というのは、学校の担任のことのようである。
……というか、《二日学校行って》?
「……おぼえてない」
「何、それ。健忘症?」
早くいきなさいよ、と、話題を打ちきるようにいい、母は新聞のページを繰った。
何だろう。
内心、何度も首をひねりながら、朝食を終え、支度をすませ、愛乃は家を出る。
「きょうって、木曜日?」
出がけに台所の母にきくと、母は面倒くさそうにこたえた。
「新聞見なよ」
「事故って、月曜だったよね?」
「うん」
《うん》ときた。
駅で顔を合わせた友人たちとの会話にも、事故の話など一切、出てこない。
まるで、何事もなかったように。
もと同じ中学で、いまも同じ高校に通う友人や、市内の別の高校へむかう子ら。何人かの親しい子と、どんな話をしても、事故についても、愛乃の欠席についても、何もいわない。
欠席などという問題ではない。きのうの出来事を、当たり前のような口調で、愛乃にも語りかけてくるのだ。
「きのうの小テスト、どうだった?」
「え? うん……英単語だっけ」
「古文だよ、愛乃全然勉強してなかったよね、いつも電車で必死にやるくせにさー。余裕?」
「え、嘘、そんなことした? そんなわけないよ」
「単語帳ひらきもしてなかったよね!」
「そ、そうだっけ、いや、たまたまね……」
「余裕じゃん! なになに、外で勉強なんかしません、してなくてもできちゃいますからみたいなー?」
「いやいやないない、ないから」
話題を遮らないように、調子を合わせてはみたが、どうも、まったく、ぴんとこなかった。
――その上、この場面である。
目の前の光景を、愛乃は、耳の奥がわんわん鳴り、脳みそがかきまわされるような、強烈なめまいの中でみた。
「どうぞお乗りを」
青木六連。愛乃と同じ中学出身で、いまはクラスメイトの、男子生徒。
詰め襟をきたその少年が、通学路を徒歩でいく愛乃の(なにせ、事故以来、自転車は修理に出されているようだった)横に、自分の自転車ごとつけてきて、おごそかに荷台を指し示した。
「……は? 何言ってんの?」
「お早く。お送りいたします」
なんの悪ふざけかと思うのだが、六連の口ぶりも表情も、真剣そのものだ。
同じ中学出身、同じクラスというほかに、なんの関わりもない。六連とは、他の男子よりはよく話すという程度の仲である。
怪我人扱いだとしても、度がすぎていた。
「いや、いいから、歩くから。いそげば間に合うから」
「とんでもない。ここまでお運びいただいて、望外の思し召し――」
「い――、何言ってんの? いいから! 何? どしたの!? やめてよ、何のネタっ……」
その瞬間、ふっと、うしろに引っこむみたいに、視野がせまくなるのを感じた。
「――善かろう」
自分の――(そのはずだ)――喉から、別の声が出た。
愛乃は、愛乃の体は、ただちに六連のママチャリの後部に、横向きに腰かける。六連は荷台と周囲を確認し、慎重にペダルをこぎだした。
二人乗りは、学校でも、地域でも、きびしく取り締まられる。高校へ近づくにつれ、登校中の生徒たちの奇異の視線をあつめ、それでもなぜか、校門や校庭の教員たちからお咎めを受けることはなく、愛乃と六連は、生徒昇降口の間ぎわまで自転車で乗りいれた。
愛乃をおろすと、六連はごく自然な動作で、自転車置き場へ引きかえしていった。
愛乃はそれをみおくるように、おりた場所でぼんやり待っている。
やがて、六連がもどってくると、愛乃を先導して下足箱へ案内し、愛乃の上履きをとりだし、あろうことか――愛乃の外靴を、片方ずつ、手ずから脱がせてかえたのである。
その、一連の二人の行動を。
愛乃は――愛乃自身を。
唖然としたまま、両目の奥からみつめていたのである。
18HRの教室に入ると、愛乃が席につくかつかないかのうちに、同級生のユミが話しかけてきた。
靴をはきかえ、廊下に出た辺りで、愛乃は意識を――ではなく、体をとりもどしていた。周りに相当、変な目でみられているかと思いきや、意外とそうでもなさそうなことにほっとして、とにかく早くこの場を去ることが先決だと小走りでやってきたのである。
他方、六連はといえば、自分の靴もかえずに下足でかしこまったままで、愛乃をみおくる気満々で、何をいっても昇降口のタイルの上から微動だにしなかった。同じクラスだから、行く先は一緒だというのに。
なんにもわからないが、あまりにもいたたまれなくなって、逃げるように六連を置き去りにしてきた愛乃であった……。
渡邉ユミは、愛乃とは対照的に背が高く、女子バスケ部所属、学業成績優秀の文武両道。眼鏡をかけて、体もほっそりしているので、気弱げにみえがちだが、優柔不断にみえて傲岸不遜、穏やかかと思いきや挑戦的、冷静にみせかけて笑い上戸という、実に振り幅のひろい人物である。愛乃とは入学早々、意気投合し、いま一番、仲がいい。
さっき一瞬、下足箱の近くでみかけたような気がしたが、見間違いだといいのだが……。
愛乃の希望を裏切る予感たっぷり。挨拶もそこそこに、ユミは眼鏡の向こうの、こまったような下がり眉と、本人の意にまったく沿わない、憂いをおびた目を輝かせた。
「愛乃、みたよ、ああいうの、堂々とやりすぎなんじゃない。引くを通り越して爆笑寸前だったよ」
「いや、違うよ! 爆笑したの!? 違うよ! ワケわかんないんだよ!」
見間違いじゃなかった。よりによって、一番つつかれそうな人に目撃されていた。
ユミがつっこんでこないわけがない。あんな、誰がみても、つっこみどころ満載の場面に。
「マジ引いたよ。引き笑いで呼吸困難だよ」
「そっちの引く!? いや違うんだよマジで……マジで」
いや、でも、そりゃ引くだろう。
愛乃自身が心底、引いている。
どこの世界に、靴の履き替えを同級生に平然とまかせる高校生がいるのだ。
あのさ、と、いいさして、愛乃は室内をぐるりとみまわした。
ならんだ机と椅子、席順、親しげにつるむ面子。
みたところ、変わったことはない。
普段通りの、なんてことない、クラスの風景だ。
鞄から出してノートをひらくと、日付はやはり月曜日でとまっている。
さっきの、目の前が暗転したような、おかしな感覚もない。
あのさ、と、いい直し、愛乃はユミをみた。
「ちょっと、ノート借りていいかな。ていうか、きのう、おとといって、何やってた?」
「――」
すぐに口をひらいたユミは、しかし一瞬、間をあけて、自分のノートをとりだすと床に跪いた。
「お納めください」
顔を深く伏せ、両手でノートを高く掲げて、こちらに差し出す。
「昨日、一昨日と、御身は祝福されておいででした。手前に参りましては、御側にはべる光輝を賜り、至上の幸い――」
卒倒しそうだった。
そのすきに――愛乃の意識が、丁度うしろにかたむくように、遠のいた直後。
その誰かは、ふたたびやってきて、級友の後頭部を、高慢にみおろしたのである。
「苦しゅうない。善きにはからえ」
――めまいがする。
そのせりふ、そんなせりふは、わたしの喉から出ちゃいけないことばだ。
愛乃は必死にさけぶが、自分の声が、自分の体をつかえない。
外にひびかない。
ユミは傅いたまま、ノートを鄭重に引きとり、うつむいて僅かに腰を浮かせる。愛乃の横に立ち、愛乃の席の椅子をうしろに引いた。
愛乃は、否、愛乃の体をかりた誰かは、傲然と椅子に腰かける。タイミングよくユミが椅子を少しだけもどし、その誰かは、椅子に指一本、指先の一寸もふれず、愛乃の席におさまった。
――おそろしいことに、クラスの誰も、このやりとりをおかしいとは思っていないようだった。
こちらに注目するでも、かといって無視するでもない。ただ、ただ当たり前のように、みんなの、それぞれの世界が、いつも通りにすすんでいるらしい。
ふと、廊下から賑やかな声がして、昇降口でわかれた六連が、別のクラスの友だちに手をふりながら室内に入ってきた。
その様子は愛乃のしる普段の姿そのもの。決して、さきほどまでみせていた、奇怪きわまるふるまいではない。
すがるような気持ちで、愛乃はそちらをみあげた。
(――六連!)
腹の底からさけぶ。
やはり、声は出ない。
「――煩い」
ぼそりと、自分の喉が、誰かの声で応じた。
愛乃はおどろき、黙る。
喉を通さず、今度は、頭の中に直接、愛乃の意識をおしのけるようにして、声がきこえてくる。
「塵とも違わぬ賤しき民に、方便を与えようとするな。己がなにを宿すものか、重く心するがよい」
………………。
……どういうわけなのか、五、六割ほどもよくわからなかったが。
その声の持ち主が、他に類をみないほど高圧的で、最高に傲慢で、太陽系さえ飛び越えかねないくらい高い高い自尊心の持ち主だということだけは、わかりすぎてわかりたくないほど、わかった。
愛乃は深く、深く息を吸う。
呼吸をととのえ、意識を集中し、気持ちを十分に高めて、思いっきり、さけんだ。
「あんた誰! 何様!?」
その声は今度こそ、愛乃の腹から喉、口を通し、チャイムが鳴り、担任が入室したところの教室に、割れんばかりに、何なら隣二軒の教室までとどく程度に、ひびきわたったのだった。
クラス中の視線をあびて、愛乃は、首、顔、耳まで真っ赤になる。
教卓についた教師が、目をまるくして問うてきた。
「矢木沢……どうした」
愛乃は自分の席の中に、精一杯、身をちぢこませてうなだれた。
「す、すいません……」
斜め前の席からこちらをかえりみるユミが、哀れっぽい顔つきで、寝ぼけたの、と、唇できいている。
「白昼夢?」
「――違うよ!」
白昼夢は、むしろ、さっきのユミの方だ!
いいかえしたかったが、左側の窓辺の方から、六連の愉快そうな、好奇に満ちたまなざしを感じるし、担任教師は何事もなく朝のSHRを始めている。
結局、愛乃はその日、学校にいるあいだ中、空白の二日間とそのほかあらゆる奇妙な現象を、ごまかしごまかしやりすごすことに、全力を注いだのである。
駅までの帰り道を、独り、とぼとぼあるきながら、愛乃はしらず、大きな溜め息をついた。
きょう一日、おかしなことが、立て続けにおこりすぎていた。
予習ができていないために、授業中、はらはらしていると、英語教師は愛乃にあてる直前にこれまでの授業方針を一八〇度転換したかのごとく、独り朗々と講釈を始めた。
体育の授業では、なぜか体育館の舞台上にすわらされ、参加していいですかときかないと競技に加われなかった。
トイレにいくとその場にいた女子が一斉に引きあげたし、更衣室では周りの生徒たちが着替えを手伝おうとするし。
いま、鞄に入っているが、ユミからノートをかりるのもひと苦労だった。差しあげます、から始まって、うつすのなんてわたしがやります、コピーをとってお持ちします、と、愛乃の手を煩わせない方法を次々挙げてくる。そもそも授業をきいてもいないから、せめて自分で書かないとおぼえられない、といっても、
「そのような雑事、下々にお任せください」
などと、うやうやしくいわれ、本当に申しわけないが、何をいっているのかさっぱりわからなかった。
話が通じない。
こんなこと、入学してから、ユミとしゃべっていて初めてのことだ。
あぁ、と、脳裏でぼやく。
頭がおかしくなりそうだ。
変なのは、ユミだけじゃないのだ。けさ以来、六連といい、クラスメイトや、よそのクラスや学年の生徒、先生たちまで……。思いかえせば、朝の二人乗りを注意されなかったのも、この異常事態のせいにちがいない。
(――なんで)
なぜ、こんなことに。
事故のあと。
きのう、おとといと、何があったのだろう?
空白の二日間。
それなのに、母や、周りのみんな、愛乃は元気に活動していたようなことをいう。
愛乃は懸命に、めざめる前の記憶をたどった。
事故が月曜日、夕方。それからおそらく病院に運ばれて、火、水曜日。
(あれ……わたし、部活、さぼったのかな)
週一回の活動日が、記憶のない日にあたっている。
それとも……。
火、水と、母のいう通り、愛乃はたしかに登校していて。
この事態が、すでに始まっていたのだとしたら。
いやな想像しかできず、思わず首を横にふった。
ないない。やめて。マジやめて。と、自分にいいきかせる。
きょうが木曜日。あさって、土曜日は毎週、ピアノのレッスンがあるし、この様子(?)では多分、間違いなく、練習なんぞこれっぽっちもしていないだろう。
それどころか、ピアノ教室でまで、異常な厚遇を受けることになるおそれもあるが。
(帰って練習しよ)
そうしよう。ピアノにむかって、譜面を読んで、曲に集中していれば、多少、何かが、ひらけてくるかもしれないから。
実際、なにもひらけてこないとしても、気分はすっきりするだろう。
二日間、事故の日をふくめれば三日も弾いていなかったのであれば、指もなまっているはずだ。
事故のあと、指になにか影響がないともかぎらないし。
音楽も、練習も好きだし、つらかったり苦々しかったりするけれど、レッスンも発表会も、きらいなだけじゃない。
ピアノは好きだ。
「ほう」
ぐわん、と、頭蓋が鐘になったみたいに、声がひびいた。
「ぴあのとは何だ――鳴物か。早う、せい。此へ持て」
――。
きた。
愛乃は息を吸った。
これを待っていたのだ。
朝以来、一度もあらわれなかった、誰か。
満を持して、怒鳴った。
「うっさい! 人の思考を読むな! 誰なのアンタ!」
「煩いのは其方じゃ。喉を潰すひどい声。此の宿りでもあるのじゃぞ、尊べ」
商店街の真ん中で、愛乃は唇を引き結んだ。
――やっぱり、いた。
朝礼からこっち、声は一切、きこえてこなかった。でも、みんなの態度があきらかにおかしかったのは、きっと、絶対、こいつのせいだ。
事故の前と、あと。
けさ、愛乃が目をさますまでは、きこえたことなどなくて。
なかったもの。
独りで帰って正解だった。すれちがう人くらいはふりかえっていくけれど、通りをあるきながらなら、さけんでも、教室や廊下より断然、ましだ。
ようやく、反応したのだ。
つきとめてやる。
愛乃は深呼吸し、意識を集中して、なるべく無表情に、あるきつづけた。
脳裏でことばをつむぐ。
(なんなの、あんた。何者!?)
「ほぉ、できるではないか。其方、ぴあのとやらを、早く」
声は、愛乃の喉を通さず、例によって、愛乃の意識をおしのけるようにして、頭に直接、きこえてくる。
そして、話の通じなさも、前例の通り。
愛乃はこめかみがぴくりとうごくのを感じた。
(――わたしがきいてるの。質問にこたえて)
「名なぞない。其方がうつけた際に、はつか借りた。好きに呼ぶがよい」
(名が――ない?)
「此は器。みことのきたるべき場じゃ。其方、何と申したか」
瞬間、なんとなく、ためらった。
(……愛乃)
「あいの……そうか。なぜ徒歩なのじゃ。あの双つ輪がよい」
あの、と、指された(ような気がした)方をふりむくと、買い物中らしきみしらぬ女性が突然、反対車線の途中で自転車をとめた。
バスや車にみむきもせず、自転車を引き、一直線に道路を渡ってくる。
あぶないこときわまりなく、愛乃が悲鳴もあげられずにいると、肩で息をしながら女性は目の前にやってきた。荷台から籠へ荷物をうつし、自転車にまたがり直して、いう。
「どうぞ」
「いえいえいえ! すみません!!」
なにを悔やむ、乗ればよかろう、という頭の中のたわごとを無理にもねじふせ、愛乃は女性に何度も頭をさげ、駆けだして手近な角をまがった。
立ちどまり、あがった息をととのえながら、脳裏でわめく。
(なんッてことするの!!)
「善いではないか」
反省の色など、ひとかけらもみえない。
うぅ、と、愛乃は低い声でうなった。
最悪だ。
何もかも、ちっとも解決していないが、ひとつ、はっきりした。
朝からの周りの異常行動は、全部が全部、この頭の中の、こいつのせいだ。間違いない。
こいつ……名前がないなんて、呼びにくいったらありゃしない……うつわだかみことだか、好きに呼べとかいってたけど、このわがまま放題のせいで、六連も、ユミも、道行く人まで、自分の身もプライドもかなぐり捨てて奉仕してしまうらしい。
そのうち怪我人が出るかもしれない。
何気なく考えて、その考えに、ぞっとした。
(――とにかく)
虚勢をはって、愛乃は強気に出た。
(勝手なことしないで。わたしは好きで歩いてるの。人の自転車横取りするほど、困ってないから。わかった?)
「何じゃ。あの双つ輪がないだの、溜め息つきつき、だるそうにしとってからに。わがままなこと」
(――――、ハァ!?)
本気で、ぶちきれる。
その相手が、よりによって、自分の頭の中にいるのだ。
精神衛生上、不健康なこと、この上なかった。
……帰宅後、すぐにもピアノを弾き始めたかったが、その時間を何やかんやで夕食後まで繰り延べたのは、おもに頭の中のそいつに対する嫌がらせのためである。
鳴物、早う、此へ持て、早う。その四つを飽きもせず繰りかえす声を意地だけで黙殺し、愛乃は私室へ引きこもり、空白の二日分、ユミのノートを書きうつす作業をおこなった。
正直なところ、書きうつしたところで、意味など頭に入ってこなかった――いかんせん、頭の中がうるさすぎた。それでも書写だけは終えて、やっぱり、二日分がきれいに抜けているのだと、わかりきっていた事実をあらためてみとめたものである。
つづいて、父と母、弟の、家族四人で夕食をとった。食事のあいだは、わがまま放題もつかれたのか、頭の中は数時間ぶりに静かだった。食堂のテーブルをかこみ、食事を終えた者から居間へうつっていく。テレビを漫然とながめ、弟の入浴のタイミングには、愛乃は気持ちも晴れ晴れと、客間のピアノへあゆみよった。
客間は、しんとしている。
居間のテレビの音も、ドアと壁、廊下をへだてて遠い。
椅子へ腰かけ、黒い、つややかな蓋を、そっとあける。愛乃しか弾かないピアノは、譜面台に楽譜がひらきっぱなしになっている。
鍵盤に指をのせる。――一瞬、意識の片隅がゆらいだ。
まず、指ならしから。
メトロノームをちらりとみたが、セットする間も惜しい。
音階をなだらかにのぼってはおりていく。曲になどなっていないが、同じペースで鍵盤を叩くだけのことが、難しい。一日でもこれをさぼると、もう思うように指がうごかない。
何度もそれを反復する。指の硬さからするに、数日、さぼっていたのはたしかだった。いつも以上に、念入りに繰りかえす。少し指がほぐれてきてから、楽譜をみつめて曲の練習を始めた。
いま、教室でならっている、クラシックのピアノ曲。弾き始めた直後、ふわんと、後頭部の辺りでまた、意識がうつろうような感覚があった。それもたちまち消え、愛乃は楽譜と、ペダルと、指運びに集中する。
二時間ほども、そうしていただろうか。
教室の方の曲のほか、部活で弾く曲もいくつか練習し、まだ納得はいかなかったが、夜も遅くなってきたのできりあげた。
風呂に入り、二階の私室へあがって、英語のテキストとノートを持って居間へ引きかえし、テレビをみながらあすの予習をする。
その後、布団に入って眠るまで、頭の中の誰かは、不思議と、ひとことも話しかけてこなかった。
◇
冷え冷えと鼻先を吹き抜ける風に、目がさめた。
ぱち、ぱちんと、火の粉のはぜる音がうしろでしている。あぶられた腰や背はあたたかいが、膝頭はすずしく、目もとはつめたい。はっきり、寒いといってよかった。
ごつごつしたところに、厚手の布を敷いて横たわっている。
そう気づいて、愛乃はゆっくり、上体をおこした。
あかあかとした炎が、くらい洞窟の内部を弱く、たよりなく照らしている。背後には炎のほかは、岩壁の行き止まりだけで、愛乃が顔をむけていた前方は、空間に岩がせりだし、まがりくねっていて見通せない。
風は、そちらから絶えず流れこんでくる。
なんで、こんなところにいるんだろう……。
愛乃は立ちあがる。かすかに、違和感をおぼえたが、その正体がわかるより早く、前方へとあるきだしていた。
そろそろと足裏で地面をさぐり、岩肌に手をついて、洞穴の中をすすむ。前を遮る岩のわきをまわりこむと、せまい道が見通せ、一番奥に、うっすらひかる外のすき間がみえた。
洞窟の入り口らしい。近づくと、人一人が楽にくぐれる縦の穴のほとんどを、布のようなもので覆っていることがわかった。
上の方にすき間があいていて、風はそこから吹きこんでいる。ここまでくると、火明かりはまったくとどかない。かわりに、すき間の向こうに、暗闇を淡くやわらげる白っぽい光がある。
布をかきよせ、愛乃は外へ出た。
じんと冷えこむ大気の中に、くろぐろとした大地がどこまでものびる。果ては地平線。そこから上すべて、満天の星空。
巨大な空気の塊がゆるやかにうごきつづけ、湿気はなく、刺すほど肌に痛い。愛乃は思わず目をつむり、まとったコートに鼻まで埋めた。頭からかぶり、膝下まで垂れた上着は、コートというよりただの布のようだ。掛け布団にしていたようだから、外向きのものではないのかもしれない。
凍えるほど寒いが、ひとたびみとめた星々の、まばゆい無数のきらめきから、目をはなせない。
藍の天鵞絨に宝石箱を引っ繰りかえしたような。
いや、そんなのより、もっときらびやかだ。
中天から地の間ぎわまで、いたるところに、密に、疎に、大小の光の粒が色とりどりに輝いている……。
見惚れて、少しよろめき、洞穴の外側に手をついた。
不意に、違和感がよみがえる。
岩肌にふれる己の手に目をやる。ついで、足もとをみる。
――変だ。
やけに、近い――いや、小さい――?
手をまじまじとみつめ、寒さのあまり上掛けの中に引っこめてから、両足をみおろす。サンダルのようなものを、くくりつけて履いている。この寒いのに、裸足に直に。
もぞもぞと手をうごかし、襟ぐりから指を出して顔にふれた。髪は、あまり変わらないようだ、長さも質も、寒くてよくわからないが――頬骨、顎、目鼻立ち、輪郭――なにかおかしい? 奇妙な気がするが、何度もさわっているうちに、またわからなくなってくる。
辺りをみまわすが、闇に荒野がひろがるばかり。鏡なんて、ありそうもない。
いつの間にかよりかかっていた、背中の岩壁はひどく冷たい。足の指がかじかんで、力がうまく入らない。
当たり前のように、意識すらさせないほどに、吹きつづける乾風。
両足が凍傷を負いかけている。
そうさとると、愛乃は我にかえった。
(やばい)
死ぬ。純然と、身の危険を感じる。
たとえば真冬の早朝、雪の上に立ち尽くす感覚。
思いだす、慣れた地元の冬とはちがい、ここには雪がない。すなわち湿度がない。
しもやけにもならない。目と鼻の奥がひりひりする、肌がしめつけられるよう、表皮から乾いてひびわれるのだろう。
火。
洞窟の中には、熱そのものの焚き火があった。
すぐに、うごいて、なんとか足に血を通わせ、全身をあたためないと――。
「ひっ」
ぬっと、出し抜けに岩の陰から、黒い大きなものがこちらへ近づいてきた。
大人一人より一回り、二回りか大きい。ずんぐりとして表面は毛羽立ち、二足で音もなくずんずんやってくる。
(――熊!?)
死ぬ。二重苦でいよいよ死ぬ。
必死で岩肌を手探りし、足を地面にこすらせ、だましだまし、洞穴の入り口から内部へすべりこもうとこころみる。
手が入り口にしがみついたときには、しかし、黒い影は片腕をのばした分もはなれていない。すぐ目の前に立っていて、俊敏にかがみこんだ。
喰われる。
愛乃は目をつぶった。
体がふわりと浮き、分厚い毛皮にくるまれる。
次の瞬間、その次……と、待ってみても、一向に、衝撃も、痛みも、思考が途絶えることもなかった。
あれ…………。
「御子さま」
呼ぶような声がした。
そちらをみやると、入り口の布がよせられ、くらい穴から顎ひげをはやした細身の男があらわれた。
愛乃の体は、黒い毛皮と、その持ち主の何者かに抱えあげられている。凍てつく冷気からまもられ、足の感覚と、ついでに思考能力が急速にもどりつつある。
白っぽいひげと頭髪、皺のきざまれたまぶたの奥の、するどい眼。マントのような、ローブのようなものを頭からかぶった老齢の男性が、愛乃の顔をのぞきこむ。
「星見ですかな。お冷やし召されますぞ」
……目のきらめきをみるに、冗談をいっているようだった。
かたかたと歯の根の合わない口をふるわせ、愛乃はかぼそい声をあげた。
「あの」
声は出た。かろうじて出たが、咄嗟に、なにをいっていいのか、思いつかなかった。
「ノヤ」
老人が、愛乃の上をみあげて呼ぶ。
のそりと、黒い毛皮の全体が身じろぎした。
「御子さまを中へ」
黒い影の、天辺の小さな部分、頭が――頷くように上下へうごいた。
老人に招かれ、布をよせた入り口から洞穴の中へ、巨体をかがめて入りこむ。
それにつれ、しずしずと、まるでこわれものでも扱うみたいに、愛乃はほんの僅かずつ、たしかにあたたかい場所へと運ばれていく。
老人がうしろから追いついて、火のそばに膝をつき、枯れ草のような焚き木をくべた。
「近くへ」
そうっと、愛乃はさっきの寝床へおろされ、敷いていた布に肩までくるまれて、うしろに毛玉の塊のような大きな体がすわりこむのを感じた。
ぱちん、ぱちんと火の粉がおどる。
前から、ゆれる炎の熱と、あかるさをあびる。背中に風はあたらず、ぬくもりだけがあって、ひどくあたたかい。
ときおり、枯れ木をくべながら、老人は細めた目に炎をうつしている。
「さて……」
段々と、体に熱がいきわたり、力がもどってきたころ、白いひげをもそりとうごかした。
「おきかせねがいましょうかな。御子さま――御身にやどるのはどなたです?」
あかい光に照らされた眼が、あやしげにきらめいた。
双眸とまともに目が合い、愛乃は思わず姿勢をただす。
うしろにぴたりとすわって、巨体が毛ほどもうごかないのが、わけもないのに心強かった。
あの、と、愛乃はまたつぶやくように発声した。
声が出るとわかると、老人にきこえるように、少し音量をあげた。
「ききたいのは――わたしもです。ここは、どこですか? あなたがたも、あなたたちは、わたしを《みこ》と呼ぶようだけれど、あなたは、誰で」
まとまらない。
たまらなく、まどろっこしい。
「――わたしは、誰ですか?」
老人が、息をのむような気配がし、こちらをみる両目が糸のように細まった。
ぱちん。
ほむらが鳴り、洞窟の中、光と影がいれかわる。
「わしは、ヨクと申す。そっちは、ノヤ。この三歳、御子さまにお仕えしておる。御身をまもるがわれらが務め。――」
「愛乃です。矢木沢愛乃。としは、十六歳です……三年? この子、この体は、いくつなんですか?」
「四歳にあらせられますな」
愛乃は絶句した。
――四つ?
――幼児だ!
卒然、違和感が腑に落ちる。
愛乃は身じろぎし、布の合い間から両手を出して、まじまじと全身をみおろした。
上掛けをとりはらっても、もう寒くはない。むしろ、炎の熱を直接受けて、とてもあたたかい。
襟ぐりのまるくあいた、袖のない、薄手のワンピースのようなものを着ている。腕も脚もほっそりとして、凹凸がなく、全体的に縮尺が小さい……ちぢんでいる。
ちろりと音がして、目をやると、老人の手がこっちへ何かを差しだしていた。
受けとると、黒っぽい、石を削った小さな皿に、うっすらと水がはられている。
のぞきこむ。たよりない炎のあかりのゆらめきの中で、水のおもてに目をこらす。
うつしだされた顔は、たしかにしらない誰かのものだった。
黒い、まっすぐな髪と、黒褐色の瞳の色だけは、みなれているといえなくもない。でも、濃いまつげ、通った鼻筋、高い頬骨と、両眼がおちくぼんだかのような彫りの深い顔立ち。四つの子どもにしては頬にまるみがなく、まなじりのきれあがった目が大きい。肌はどこも、洞穴の闇の中にも、ぼんやりと浮かびあがるほど透き通っている。
呆然とみいっているあいだに、ヨクと名のった老人が独り言にしては大きな声でつぶやく。
「こまりましたな。御子さまはどちらへあそばしたのか」
「はあ」
ちっともこまってなさそうな音色に、生返事をして、愛乃はなおも水面をみつめた。
やにわに、ぬっと、うしろから濃い影がのびてきた。黒い毛皮に覆われた長い腕が、愛乃の目の前の皿をとり、愛乃の、否、しらない幼児の口もとにあてがう。
意を察して、愛乃は考える間もなく、僅かな水をひと息にのみこんだ。
さらりと、思いのほかぬるく、不思議な香りがほのかに喉をすべりおりた。
「わしらの務めは変わらん。はこび、まもるのみじゃ。ノヤも構わなかろう」
からの皿を引きとった腕に、思わず手を添え、愛乃は頭上、後方の彼と、炎の横のヨクとをみくらべる。
頭まで毛皮をかぶり、くらい色のぼさぼさの髪とひげに目と口が埋もれ、ノヤの顔は真ん中の高い鼻梁しかわからない。
ひとこともしゃべらないが、まるで害意のないことが、居住まいから伝わってくる。
「ひきつづき、御子さまと、呼んでよろしいかな」
ヨクの問いに、愛乃はノヤをみあげるのをやめ、あわててこたえた。
「は、はい、――あの、それは……」
勘でしかないが、なんとなく、奇妙な気がしていた。
《みこ》。
このこどもは、そう呼ばれている。
呼ばれているが、それは、名前ではないという気がする。
「その――この子は、何という名前なんですか?」
「名はおわさぬ。おりきたる場、やどるべき器そのもの。心遣いなく、わしらがまもります」
名が、ない。
――名が。
ない?
高飛車な声が耳の奥によみがえった。
《此は器》
「《みことのきたるべき場》……」
愛乃はその声を復唱する。
ほう、といい、ヨクがかるく目をみひらいた。
「おわかりでしたか」
ああ……。
……なんとなく、色んなことが一気につながる。
わけもわからないまま、察しがついてしまった。
まったくうれしくない気持ちで、愛乃は眉をひそめ、目をつむった。
なんだ……これ。
悪夢?
目をさましたら消えるにちがいない。
「それなら話が早い。わしも心安い」
「あの」
一体どういう躾をしたんですか、と、ききたかったが、それはあまりに無礼な気がした。
かわりに、はじめの疑問を口に出す。
「ここは、どこですか?」
「天の境。山なみの頂ですな」
……山の高いところにいる、という意味合いだろうか。
よくわからなかったが、深くきこうとも思えなかった。
「あなたは、えぇと、ヨクさんは」
「ヨクでよろしい」
「え、じゃ、ヨク……は、この……、この子をまもるのが仕事?」
「ただしくは、わしではなく、それはそこのノヤの務めです」
ヨクの目のうごきを追って、愛乃はふたたび頭上を仰ぐ。
ずんぐりした毛皮の巨体の、天辺より少し下の、ひげの中に唯一みえる鼻は、ぴくりともしない。
「じゃあ、ヨクの仕事は?」
「かたりべ、と」
意味をひろいそこなって、愛乃は火のそばへもどした目を白黒させた。
目減りしてきた焚き火に乾いた草木を折りいれ、ヨクはあっさりした声音でいう。
「神の語り部と、申しておりますな。しかるべき場合には」
…………。
なるほど。
つかみどころのないおじいさんだ、と、思うのが、いまの愛乃には精一杯だった。




