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東棟に用意された部屋は、新婚の寝室よりもずっと小さかった。けれど、クレールには十分だった。
むしろ、この広さの方が落ち着いた。広すぎる部屋は、クレールを不安にさせる。どこに身を置けばいいのか分からなくなる。
寝台に腰を下ろして、ようやく息をついた。
窓の外は、真っ暗だった。星も月も見えない。雲が空を覆っているのだろう。
(これで、私は公爵夫人になったのか)
実感が、湧かなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
明日から、新しい暮らしが始まる。知らない場所で、知らない人々に囲まれて。
それは、不安でもあった。けれど、同時に——ほんの少しだけ、期待もあった。
(ここでは、誰も私を知らない)
「役立たず」でもなく、「変わり者」でもない。まっさらな自分として、やり直せるかもしれない。
そう思った途端、祖母の言葉が蘇った。
『お前には、私と同じ目がある。世界を観察する目だ。それは才能だよ、クレール』
祖母は、薬草学者だった。クレールに、草花の名前と効能を教えてくれた唯一の人。クレールが「変わっている」と言われる度に、「変わっているのは才能だ」と言ってくれた人。
その祖母も、もういない。
けれど、祖母から受け継いだ知識は、まだクレールの中にある。
(ここで、何か——)
その先は、考えがまとまらなかった。
疲労が、ようやく追いついてきた。瞼が重くなる。
クレールは、着替えもせずに横になった。
眠りに落ちる直前、ふと思った。
この屋敷のどこかに、庭園があるはずだ。明日、探してみよう。
もしかしたら、薬草が育つ場所があるかもしれない。
第二章 温室の発見と占拠
翌朝、クレールは日の出と共に目を覚ました。
昨夜の疲れは、不思議なほど残っていなかった。むしろ、体が軽かった。新しい場所に来ると、いつもこうだ。好奇心が、疲労を押しのけてしまう。
窓を開けると、冷たい朝の空気が流れ込んできた。
深く息を吸う。土の匂い。露を含んだ草の匂い。遠くから、かすかに花の香り。
(この屋敷の庭は、手入れが行き届いているらしい)
クレールは、手早く身支度を整えた。
鏡の前で髪を梳かしながら、ふと思った。昨夜、夫は言った。「好きに暮らせ」と。ならば、遠慮なくそうさせてもらおう。
地味な茶色のワンピースを選んだ。動きやすさ優先。眼鏡をかけ直す。昨日の結婚式では外していたが、これがないとクレールは落ち着かない。世界がぼやけていると、不安になる。
部屋を出ると、廊下で使用人とすれ違った。若い女性だった。クレールの姿を見て、驚いたように足を止めた。
「お、奥様! おはようございます。ご朝食の準備ができておりますが……」
「後で」
クレールは短く答えて、通り過ぎた。
背後で、使用人が戸惑ったように立ち尽くしているのが分かった。けれど、構っている暇はなかった。
今は、この屋敷を知りたい。
ヴェルニュ公爵邸は、思っていたよりもずっと広かった。
本館だけで三階建て。東棟と西棟があり、それぞれが本館と渡り廊下で繋がっている。庭園は本館の南側に広がり、その奥には森が見えた。
クレールは、本館を一通り見て回った。大広間、食堂、書庫、応接室——どれも豪華で、よく手入れされていた。けれど、どこか——生活感がなかった。
まるで、誰も住んでいないかのような。
「奥様」
背後から声をかけられて、クレールは振り返った。
白髪の老人が立っていた。背筋がぴんと伸びて、服装は隙がない。執事だろう、とクレールは直感した。
「私はベルナール。この屋敷の執事を務めております」
「クレールです。よろしくお願いします」
「奥様、朝食のご用意ができておりますが……」
「後で」
また同じ答えを返して、クレールは歩き出した。
「お、奥様。どちらへ?」
「庭を見たいのです」
ベルナールは、一瞬戸惑ったような顔をした。けれど、すぐに表情を取り繕い、頭を下げた。
「畏まりました。ご案内いたしましょうか?」
「いえ、一人で大丈夫です」
クレールは、そのまま庭園へ出た。
***
朝の庭園は、美しかった。
露を含んだ芝生が、朝日を受けて輝いている。花壇には、季節の花が色とりどりに咲いている。噴水からは、さらさらと水の音が聞こえる。
けれど、クレールの目を引いたのは、そういった「作られた美しさ」ではなかった。
庭園の片隅。木々の影に隠れるように——
古びた建物があった。
ガラス張りの、温室だ。
蔦が絡みつき、ガラスは曇り、明らかに長年使われていない様子だった。周囲の手入れされた庭園とは対照的に、そこだけが時の流れから取り残されたようだった。
クレールは、引き寄せられるように歩いた。
近づくにつれて、匂いが変わった。
湿った土の匂い。朽ちかけた植物の匂い。そして——
(……薬草の香り?)
心臓が、跳ねた。
温室の扉に手をかける。錆びついた蝶番が、悲鳴のような音を立てた。
中に入った瞬間、クレールは息を呑んだ。
温室の内部は、思ったよりも広かった。天井は高く、かつては陽光をたっぷりと取り込んでいたのだろう。今は蔦に覆われて薄暗いが、それでも——
棚がある。
木製の棚が、壁に沿って並んでいる。その上には、埃をかぶった鉢植えが。ほとんどは枯れていたが——
「……生きてる」
クレールは、棚に近づいた。
枯れた植物の間に、緑色の葉が見えた。多年草だ。水も世話もなく、何年も放置されていたはずなのに、かろうじて生き延びている。
手を伸ばして、葉に触れた。
「セイヨウオトギリソウ……」
その隣には、エキナセア。その奥には、カモミール。
どれも、薬効のある植物ばかりだった。
「誰かが、ここで薬草を育てていた」
クレールは確信した。
それも、素人ではない。植物の配置、棚の高さ、日当たりの計算——すべてが、薬草学に精通した者の仕事だった。
(誰が? いつ? なぜ、放置されているの?)
疑問が、次々と湧いてきた。
けれど、それよりも——
胸の奥で、熱いものが込み上げてきた。
(ここを、使いたい)
その欲求は、抗いがたいものだった。
祖母が亡くなってから、クレールは薬草学を諦めていた。実家では「女のくせに」と嘲笑された。「そんな泥臭いこと」と軽蔑された。だから、隠れて本を読むだけになっていた。
けれど——
ここでなら。
誰にも邪魔されずに、また研究ができるかもしれない。
クレールは、執事のベルナールを呼び出した。
「温室を使いたいのですが」
その言葉に、ベルナールの顔が曇った。
「あの温室、でございますか……」
「はい。放置されているようなので。許可をいただけますか」
ベルナールは、困ったように視線を泳がせた。
「あの温室は……その、少々事情がございまして……」
「事情?」
「旦那様に、確認を取りませんと……」
クレールは、首を傾げた。
使われていない温室に、何の事情があるのだろう。けれど、深追いはしなかった。
「では、旦那様にお聞きしてみます」




