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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び

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雍歯

 陳勝が倒れた頃、劉邦りゅうほうが亢父に引き返して方與に至ったことを知った魏の周巿しゅうしは不快になった。


 方與をこれから攻めようと軍を動かしていたためである。


「沛公とやらはけしからん。我ら魏を蔑ろにしている」


 そう言って彼は軍を持って劉邦を攻めようとした。それに待ったをかけた男がいる。陳平ちんぺいである。


「兵など用いずとも魏の威光を知らしめ、劉邦の領地を得ることができます」


「ほう、やってみよ」


 陳平は命令を受けて豊に入り、そこを守っている雍歯ようしを説いた。


「あなたは劉邦を長に据えておられるが、無鉄砲に魏王を怒らせました。そのことについてどうお考えでしょうか?」


「沛公は決して魏に敵対する気はなく、沛、豊を守るためであると聞いている」


「それはあくまで劉邦の言い分に過ぎず、結果として魏王はお怒りになっています。その怒りはあなたやここ豊の民に向けられることでしょう」


 雍歯は陳平の言葉を聞いて迷いが生じ始めた。その様子に陳平は続けて言った。


「劉邦は陳勝のようになろうとしているのではないでしょうか」


「陳勝のように……」


「そうです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。違いますか?」


「その通りだ」


 雍歯は頷いた。


(さて、もうあと少しだな)


 陳平は一度、周市の元に戻り、彼に雍歯への書簡を書くように伝え、書かせるとそれを雍歯に見せた。


「豊はかつて魏が遷された地である(魏の最後の王・假は秦に滅ぼされてから東の豊に遷された)。今、魏の地で既に平定された地は数十城になる。あなたが魏に降れば、魏はあなたを侯にして豊を守らせることだろう。もし降らなければ、豊を屠す(皆殺しにする)ことになる」


 雍歯は書簡を読んで、恐れた。


「雍歯殿。よくよくお考え下さい。魏王と宰相はわざわざこのようなことをしなくともここ豊を落とすことは容易です。それでもこのような書簡をお出しするのは、あなたを尊重し殺すのは惜しいと思うためです」


 陳平はそう強調し、雍歯に囁くように言った。


「劉邦は民を騙しているのです。本当の意味で民を思いやるあなた様こそがここを治めるのです」


「騙している……」


「そうです。ここまでの劉邦の行動を、言動を、よくよくお考え下さい」


 雍歯は頷いた。


「わかった。私は魏王に従う」


「ご英断でございます」


 こうして雍歯は劉邦を裏切り、魏に降った。


「あ、兄貴」


 樊噲はんかいが劉邦の元に駆け込んだ。


「雍歯が裏切って魏に降りやがった」


「なんだと」


 劉邦は思わず立ち上がり、呆然とした。


「沛公、沛公。おい、しっかりしろ」


 呆然とする劉邦を蕭何しょうかが揺する。


「雍歯が裏切った……だと……まさか……」


 劉邦はわなわなと拳を震わすときっと顔を上げ、


「雍歯を討つぞ」


「おおよ。兄貴」


 樊噲は腕をまくり、鼻息を荒くする。一方、蕭何が止めに入った。


「待て、落ち着け沛公」


 雍歯を討とうとすれば、魏に喧嘩をふっかけることを意味する。そんな危険を犯すべきではない。そう蕭何は説明して止めようとしたが、劉邦は聞き入れず、豊を攻めた。


「見よ。劉邦は己の我欲のために豊を攻めに来たぞ」


 雍歯は城内の民に向かって、そう言った。


「我らは劉邦の我欲を満たすためにいるのではない。そうだろう?」


「そうだ。そのとおりだ」


 民は拳を上げて、雍歯を支持した。そのため豊は一気団結し、劉邦からの攻撃に耐えた。一方、豊とは昔からの付き合いがある者が多い、劉邦の軍は士気がイマイチであり、そのためか苦戦した。


「くそ、中々落とせないぜ。どうしますか兄貴、いや沛公」


 樊噲の言葉に劉邦は豊城をじっと眺めるだけで答えようとしない。


「沛公?」


 劉邦は目を細めた。


「そうだよな。これだけ守れるのは当たり前だ。だからこそ豊を任せたんだからな」


 乾いた笑い声でそう言った劉邦の様子に蕭何は言った。


「引き上げよう。沛公」


 彼の言葉が聞こえているはずにも関わらず、劉邦は答えない。それにむっとした蕭何は声を強めて、


「もう一度言うぞ、引き上げるぞ。沛公」


 と言った。しかし、それでも劉邦は動こうとしない。


「劉邦!」


 蕭何がついに怒声を上げると、劉邦は小さく頷いた。


 劉邦の軍は豊を落とせないまま引き上げることになった。その間も劉邦は呆然としていた。




 











 劉邦に大きな痛手を与えた陳平は魏に戻ってから自分の屋敷に戻り、荷物を整え、褒美にもらった物を全て封をしていた。


 そして、持てるだけの荷物を持って屋敷を出た。するとそこに馬車がやって来た。


「ここを去るの?」


 馬車から女性の声が聞こえた。薄姫はくきである。彼女は弟の薄昭はくしょうから陳平が魏を去ろうとしていると知らされ、無理を言って密かに馬車に乗ってやって来たのである。


「左様でございます。先の件で義理は果たしましたので」


「そう……」


 薄姫はそう呟き、ぐっと拳を握ると言った。


「それほど魏はダメかしら?」


「それはあなたもお分かりなのではないでしょうか?」


 彼の言葉に彼女は頷きながらも首を振った。


「そういうことを聞きたいわけではなかったのだけど……ねぇ」


 彼女はなぜ、このようなことを言おうとしているのだろうと思いながら言った。


「また、会える?」


 陳平は彼女の言葉に目を細める。


「あなた様が志という旗を掲げ続けるのであれば、会えるかもしれません」


 不思議なことを言うと思いながら薄姫は問いかけた。


「あなたの志って何?」


 陳平は空を見上げる。


「私の愛しい人たちが安心して暮らすことができる世でございます」


 そう言って彼は去っていった。その姿に思わず手を伸ばそうとするのを押さえながら、


「志という旗を掲げ続ける……」


『お嬢さん。あなたは天子を産むことになりましょう』


(私の志って何?)


 薄姫は馬車の中、問うたがそれに答える者はいなかった。




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