陳勝
遅くなりました。
陳王・陳勝が即位した頃、凌人の秦嘉、符離の人・朱雞石、銍人の董緤、取慮人の鄭布、徐人の丁疾らが挙兵し、郯で東海守(郡守)・慶(慶は人名)を包囲した。
秦嘉や朱雞石等の挙兵を聞いた陳勝は武平君・畔(畔は人名)を将軍に任命して郯を包囲している軍を監督させた。
しかし秦嘉は陳勝の命を受け入れず、自ら大司馬に立ち、更には武平君の指揮下に入ることを嫌って軍吏にこう告げた。
「武平君は年少で兵事を知らない。命を聴く必要はない」
秦嘉は王命を偽って武平君・畔を殺してしまった。
もはや陳勝の勢力は以前のような勢いが無くなっていたところに章邯率いる秦軍が陳を攻めて柱国(上柱国)の房君・蔡賜を殺した。
更に進撃して陳の西で張賀の軍と戦った。陳勝自ら出陣して戦を監督したが、敗戦して張賀は戦死した。陳勝は逃走した。
陳勝が危機にあるというのに、彼の配下たちが彼を助けようとはしなかった。その原因は信望が無かったためである。
彼が王になったばかりの頃、貧しかった時の旧友知人が頼って来た。妻の父もその中にいたのだが、陳勝は普通の賓客に対する礼で対応し、長揖するだけで拝さなかった。
すると妻の父が怒って言った。
「乱に頼り、王号を僭称し長者に対して傲慢でいる。久しくいられるはずがない」
妻の父は挨拶もせず去った。陳王が跪いて謝罪しても妻の父は相手にしようとしなかった。
かつて一緒に雇われて農耕をしていた者も陳勝の都・陳に来た。宮門を叩いて、
「私は渉に会いたい」
と、陳勝の字を告げて言った。
既に王位に即いた陳勝に対して、字の「渉」と呼ぶのは不敬なことであった。そのため、宮門令は客を縛ろうとした。
客が繰り返し自分が陳勝の知人であることを説明したため、逮捕はされなかったものの宮門令は取り次ぎもしなかった。
後に陳勝が外出した時、客が道を遮って、「渉」と呼びかけた。それを聞いた陳勝は客を招いて車に載せ、共に王宮に帰っていった。
入宮して殿屋や帷帳を見た客が言った。
「夥頤(感嘆の言葉)、渉は王となって沈沈としている(広大な宮殿の奥深くに住んでいる)」
客は宮内を自由に出入りして周りの者に陳勝の往時を語るようになった。するとある人が陳勝に言った。
「あの客は愚かで無知ですので、妄言を専らにしており、あなたの威信を傷つけております」
陳勝は客を斬った。
この事件があってから旧知の者は自ら去っていき、陳勝の周りに親しい者はいなくなっていった。
また、陳勝は朱防を中正に、胡武を司過に任命して群臣の過失を監察させていた。
諸将が各地を攻略して目的地に至っても、陳勝の令に従っていなければ、全て逮捕されて罪が裁かれていった。苛察(苛酷)が忠とみなされ、朱防や胡武が気に入らない者がいたら司法の官吏に渡すことなく、すぐに自ら刑を行った。
しかし陳勝は二人を信用したため、諸将は陳王に親附しなくなったのである。
十二月、陳勝は汝陰に向かい、引き返して下城父(地名)に至った。しかしそこで御者の荘賈に襲われた。
(私は鴻鵠ではなく、燕雀に過ぎなかったか……)
陳勝は殺された。そして、荘賈は秦に降った。陳勝が挙兵してわずか六カ月後の事である。
陳勝の死は各地を駆け巡り、陳勝に命じられ、南陽を平定して武関を攻めようとしていた宋留は驚き、南陽を放棄し、武関に入ることができなかったため、東の新蔡まで引き還した。
その状況に秦軍が現れたため彼は軍を挙げて秦に降った。
秦軍は宋留を咸陽に送り、二世皇帝・胡亥は宗留を車裂に処して見せしめにした。
同じ頃、陳勝の死を知った涓人(近侍)だった将軍・呂臣が蒼頭軍を組織した。蒼頭というのは青い頭巾をしているという意味である。
新陽で挙兵して陳を攻め、城を落として荘賈を殺した。
再び陳を楚都とし、陳勝を碭(地名)に埋葬して隠王という諡号を送った。
陳勝は秦打倒を掲げ、その勢いはまさに天を突かんとばかりのものであったにも関わらず、秦打倒の志に相反し、自らの勢力の保守に力を入れ、猜疑の目を向けたために滅んだ。
しかしながら陳勝が立てたり派遣した王侯将相によって秦は滅亡することになるのである。陳勝が開けた字穴はとても大きなものであったと言えるよう。
そのことは劉邦はよくよく理解していたようで、陳勝の冢(墓)を守るために三十家が碭に置かれた。
陳勝の時代は王莽の時代まで続いたという。




