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第一夜・2

 問題の神社はせせこましい小さな商店街の一角に突如として立ち上がっていた。

 そう広くもなさそうな鎮守の森は、しかし、圧倒的な太さの枝をアーケードの屋根を破って伸ばしている。積み上げられた石垣の古さに歴史を感じて武志は思わず背を正した。くすんだ灰色のそれはどこまでも続くかに見えて古びたラーメン屋に遮られるかのようにぶっつりと終わっている。そのラーメン屋と武志とのちょうど真ん中にやはり古びた、くすんだ灰色の鳥居があった。扁額には安心大社という、一見冗談かと思うような文字が刻まれている。

 安心大社――あんしんたいしゃ、と読むのであろうそれは、例えば地方のCMに登場する水道設備会社や工事建設会社の社名のような妙なおかしみを持ってそこにあった。

 歩み寄って社殿のほうを覗いてみたが、そこには滔々たる闇があるばかりである。天下の大阪にこんな闇があったことに、武志は恐れるより感心して闇の奥深くを透かし見た。右手にはうっそうとしたツツジの茂みがあり、左手には手水場と縁起でも書かれているのだろうか、ヒビの入った硝子が嵌めこまれた掲示板がある。足元は石畳と玉砂利で、石畳のほうは手水場を過ぎて数メートル行ったところで石の階段へと姿を変えていた。

 石ばかりの場所であるのに冷たさの微塵も感じないことを武志は怪しんだ。ひやりとした涼しさはあるものの、図鑑で見る大理石の神殿や彫像のような温度はまるでなかった。逆に誰かからねばこく見つめられているような、湿度のあるきまり悪さを感じて武志は着こんだカッターシャツの裾を引っ張って皺を伸ばした。

 若干のアイロン皺の入ったそれは家を出るときに母に着せつけられたものである。初仕事なんだから、とまるで大企業への内定が決まったかのように喜ばれて、照れるより先に閉口した。なにより自分は喜ばれるようなことは何もしていない、という後ろ暗さがあった。

 武志が仕事をする気になったのはひとえに惰性であった。周囲がみんなやれと言う、自分はやりたくない、だったらとりあえず言われるままに一晩二晩泊まってやったあと、やっぱり性にあわないからやめると言えばいいだろう、とそういう腹積もりであったのだ。

 やれやれとせっつく周囲が悪い。心のうちにそう決めたとき、ツツジの茂みががさりと動いて武志をおびえさせた。あごを引いてしばらく茂みを見つめてみたが、何かが出てくる気配もない。ほとんど風のない晩のことである。大方猫か何かが茂みの向こうで跳ねたのであろう。

「なんだ、おどかすなよ」

 ばつの悪さを小声でごまかしながら、武志はおっかなびっくりその茂みへ近づいてみた。茂みをのぞきこんでみたが当然のことながら誰もいない。から笑いがむなしく闇に溶けて広がった。

 母からは拝殿の奥にある本殿に行って、そこで泊まるようにと言われている。なんでも伯父が毎晩そうしていたそうで、その際には特段といってすることはないそうだ。祝詞をあげろとかろうそくの火を絶やすなとか言われるのかと思っていた武志は拍子抜けし、同時にますます怪しいと背筋を凍らせた。

 深夜の神社にただ泊まるだけで二十万円がもらえる。そんなおいしい話がないことぐらい、いくら社会経験のない武志にもわかる理屈だ。

 鬼が出るか蛇が出るか、そんなフレーズが頭の中をよぎって全身の毛という毛が逆立った。

 ともかくもここまで来たからには行かねばなるまい。最悪、神社で寝たという形跡だけ残してネットカフェにでも泊まればいいのだ、と自身へ言い聞かせながら武志は石段のほうへ歩きだした。


 佐知子がやってきたのは時計の針が九時をまわった時分、ちょうど武志が虫やしないのつもりで買ったあんぱんにかじりついていたときだった。

 きまり悪く姿勢を正す武志に、佐知子はいかにも貞淑な妻といった然で頭を下げた。

「ごめんなさいね。主人がわがままを言って」

「いえいえ、総領の子が継ぐきまりなんでしょう? 仕方ないですよ、子供がいないんだから」

 言ってしまってからひどいことを言ってしまったのかもしれない、と思ったが、放ってしまった言葉は取り戻すことができなかった。上目づかいに見あげた佐知子は頭を垂れたまま、はあと蚊の鳴くような相槌を打った。結い上げた髪から落ちたほつれ毛が吐息にさらされてちらちらと舞った。

「それがそういうわけでもないんです」

「……どういうわけです? 俺は総領じゃないと駄目だって聞いてここに来たんですが」

「うちはそこまでしきたりに厳しいというわけでもなくって」

 そう言って、入嫁の女は扇のようなまつげを大きくしばたたいた。

「ほら、葬儀だって仏式だったでしょう? 信者さんもそう多くはないし、ほんとうに形ばかりなんですよ。それがねえ、こんなに立派な本殿まで作って。うちの人も何を考えていたんだか」

「失礼ですが、お金の管理は?」

 謝礼の二十万は、という言葉を武志はあやうく飲みこんでかわりにそう訊ねた。

「通帳が残っていたんです。そこにとんでもない額が振り込まれていまして」

「というと? 伯父さんが死んでから振り込まれていたんですか?」

「そうなんです。私も何がなにやら。とにかくあの人が死ぬ間際に、どうしても本殿のお勤めは絶やすな、あとのことは武志くんに託せと言うもんですから」

 何を勝手な、と武志は鼻をふくらませた。

「なんで俺じゃないと駄目なんです。その辺のこと、伯母さんはご存じないんですか」

「はあ、まったく。神社のことはあの人にまかせっきりでしたし。そもそも、関わらせてくれなかったんですよ。新婚のころから手伝おうかというたびに断られて、そのままずるずるここまで来てしまったんです。こんなことになるなら、無理にでも手伝えばよかった」

 そう言われても巻き込まれた本人である武志としては納得が行かない。佐知子は佐知子で巻き込まれたご本人なのかもしれないが、実際に怪しげな神社に泊まらなければならないのは佐知子ではなく武志なのだ。と、そこまでを考えてから、武志は膝を叩いた。

「この役目って伯母さんがすることはできないんですか」

「申し訳ありません。なにぶん急なことでして、そこまではわからないんです。主人はとにかく武志くんに頼め、と。ですからこうしてお願いした次第でして」

「いや、そう言われても。こちらも急な話で困惑してて」

 話がまったく同じところで堂々めぐりをしていることに武志はようやく気づき、同時に面倒くさくなってしまった。あんぱんをスポーツバッグに突っ込む手もぞんざいに、胡坐を崩して立膝になる。ぐいと身を乗り出した武志に押されるように、佐知子はゆらりと上体を泳がせた。

「あのですね、伯母さん。俺も伯父さんのご不幸は残念に思っていますし、少しでも伯母さんの力になれればと思っていますよ。だけど、できることはできるし、できないことはできないんです。伯父さんのかわりに神社に泊まれって言われても、俺には本当に泊まることしかできない。祝詞をあげる必要がないとか何にもしなくていいとか、そんなわけないでしょう。ぜったいに伯父さんしか知らなかったことがありますって。とにかく俺には伯父さんのかわりなんてできない。もちろん、どうしてもと仰るなら一晩だけは泊まりますよ。泊まりますけど、何の保証もできません。本当に泊まるだけです。それでもいいんですね?」

 佐知子は風に揺れる柳のようにゆうらりと上体をゆらしている。それはまるで神仏が乗り移るときの巫女の姿のように見えて、武志の怖気を誘った。今にも席を蹴立てて立ち上がろうと思ったとき、やはり蚊の鳴くような声で佐知子ははい、と頭を下げた。

「一晩だけでかまいません。主人の遺志ですから、どうか」

「何もできませんよ。俺、玉串っていうんですか、そういうのも持ったことありませんし」

「かまいません。本当に泊まってくれるだけで結構ですから」

 ここまで言われて頷かないのも子供っぽく思えて、しかし怖気は本物であったので武志は低く唸り声をあげた。ここで逃げては男がすたる、そんな格好の良い台詞が頭の中を駆け巡ったが、ここで逃げなければ何かが始まってしまう、そんな気もしていた。何が始まってしまうのかはわからない。だが、武志にとってはあまりよくない類の何かである。

 そして、こういう時の直観が往々にして当たってしまうことを、悲しいかな武志はこれまでの人生で知ってしまっていた。

「お願いします。ほんとうに一晩だけで結構ですので」

 佐知子はまたゆらりとした、ぬめるようなすべらかさで頭を下げた。

 わんわん泣かれたほうがまだましだ、と武志は思わず天井を見上げた。感情のままに泣きつかれたなら、こちらも感情のままに席を蹴ってしまえる。しかし、あくまで冷静に――しかも得体のしれない静けさをたたえて頭を下げられては応とも否とも答え難かった。

 長く呻吟した挙句に武志はようよう首を縦に振った。

「わかりました。それでは、一晩だけ。明日はご自身で何とかなさってください。いいですね」

「はい。ありがとうございます」

 ちらとも嬉しさをのぞかせないまま、佐知子はぬらりと頭をあげ、小さく微笑んで見せた。嬉しさも楽しさもない微笑みが武志の背を冷たい温度で撫で上げる。

「おふとん、それじゃあ運んできますから」

 そう言って立ち上がった佐知子の背は予想に反してピンと伸びていた。嵌められた、なんとなく武志はそう思い、喰いかけのあんぱんを取り出すとがつがつとむさぼった。


   ×   ×   ×


 虫やしないのつもりだったアンパンが胃に詰まっている。

 武志は痛みもしないかわりにうじうじと存在を主張する胃を撫でながら、総檜ひのきづくりの天井を見上げていた。はまり込んだなら二度と抜け出せなさそうな闇のなかに浮かんだのは、名も忘れた同級生たちのよこしまな笑みだった。

 ある者はこれみよがしに合格通知をプリントアウトしてちらつかせ、またある者は卑屈な笑みを浮かべながら「がんばってね」などと心にもない言葉を吐いて武志の肩を叩いた。

 あと5年のことよ、と母は言う。あと5年して父が定年を迎えれば今のような生活はできなくなるものらしい。その時には武志は立派に就職して、父母を養えるほどまでになっていなければならないそうだ。

 ここまで育ててくれた父母には尊敬の念までは持たないまでも感謝している。これまでにこうむった恩を忘れられるほど薄情な性格はしていないつもりだ。彼らが困っているときは救いの手を差し伸べたいとは思う。

 思いはするものの、五年後に救いの手を差し伸べられる自分がいるのだろうかと自答すれば答えは否だった。就職していてもいなくても関係がない。そもそもがそれほどの出世頭になれるたまではないことは自分が一番よく知っている。

 それなのに、就職にそこまでこだわる必要はあるのだろうか。このままあるがままの自分でいてはならないのだろうか。

 ああ、と唸って武志は寝っころがっていた布団から身を起して、立ち上がった。

 佐知子に水をもらいに行こう。あんぱんと一緒に買った炭酸飲料は胃の調子をうかがう間にぜんぶ飲み干してしまっていた。冷たい水をしこたま飲んで横になれば、こんないらいらなど消え去ってしまうに違いない。

 そう思って立ち上がった時である。とんとん、という小さな音が暗い堂の中に響いた。

 本殿の中には明かりとなる電球ひとつなく、ろうそくの炎ふたつが灯っているきりである。それが照らし出すむやみに巨きい自分の影を見つめて武志は息を詰めて耳をすました。風鳴りであろうか、それとも自分の恐怖心が妙な音を聞かせたのか。

 自答する間にまたとんとん、という音がはっきりと耳に聞こえて、武志はてっきり佐知子が来たのかと思った。しかし、音の直後にするりとひらいた観音開きの戸の向こうには誰もいない。頭蓋ががんがんとなる音を聞いて、自分が歯の根あわぬほどに震えていることに気づいたが、どうとも身動きすることができなかった。そのあいだに扉はやはりするりと、音ひとつたてずに閉まった。

 ほとんど抜けそうになっている腰に力を入れて立ち上がろうとしたが、足はしびれたように投げ出されたまま言うことをきかない。やっとの思いで膝立ちになってろうそくに依ろうとした足首にひやりと冷たいものが触れ、武志は今度こそ叫び声をあげた。

 人間、振り向きたくないときにかぎって振り向いてしまうものである。実際に振り返って彼は心の底から後悔をした。何か白い小さなものが自分の影の中から伸びている。その小さなものは五指に分かれており、紅葉の葉よりも小さく、そして何より皺だらけであった。

 ぎゃあ、と二度叫んで武志は後退ろうとした。はっしとそれを引きとめたのは白い小さな掌である。

「やめなさい。ろうそくが、ほれ、倒れてしまう」

 目を前に戻せば黒い鉄のろうそく立てが目の前にあった。これは夢だ、強く頭に念じて恐る恐る振り返った武志はまたしても後悔をする羽目になった。

 黒い自分の影の中から何かがしずしずと立ち上がり、武志のほうへ寄ってきている。いや、何かではない。それは武志のひざ丈ほどもない小さな小さなおきなであった。翁は黒い巡査帽のようなものをかぶり、やはり黒い巡査服に身を包んでいた。

「いやいや、失礼な物言いでしたな、若先生。まあ、そうおびえんことです。すぐになれますから」

 肩の小さな銀の警笛をピカピカと光らせながら翁は言い、腰にはまったこちらも小さな飴色の警棒に注意しいしいその場に端坐した。乾いた掌が足首から離れていき、ようよう武志は息を継ぐことに成功した。

「な、な、何なんですか、あなたは」

 このような怪異を前に何なんですかもなかろうと自分でも思ったものの、情けないことに頭も足も言うことを聞かない。

「さっさと出て行ってください。け、ケーサツ呼びますよ、ケーサツ」

 唯一言うことを聞く口はやはり歯の根が合わさっておらず、言葉は出すはしからなんだか情けない響きになった。

「大丈夫です。かんだりつねったりは致しません。それと、残念ながら警察は呼べぬかと存じます」

 ゆったりと端坐した姿には否定を許さぬ迫力があった。

「何なんだよ、何なんだよ一体。何なんだよあんた」

「やれやれ、その様子では先生はなにも説明せずに逝かれたようですな。よろしいでしょう、ひとつずつ覚えていってもらいましょう。まず――」

「何なんだよう! 出て行けよう!」

 涙さえ浮かべて叫んだ武志に翁はゆっくりと笑いかけ、途切れた言葉を丁寧に拾った。


   ×   ×   ×


 まずはお悔やみ申し上げます。

 このたびは急なご逝去で、若先生におかれましてはずいぶん驚かれたことでしょう。あまりの突然な出来事に私も驚くばかりです。ご傷心のこととは存じますが、まずはお気を強く持たれますよう。

 申し遅れました。わたくし、四つ辻の神と申しまして、すぐそこの十字路を守っておる神でございます。――いえ、冗談ではありません。正真正銘、このようにかぐわしい香りもしてございます。

 そもそも神というものはこの日の本にあまた存在しておりまして、ほれ、八百万やおよろずの神などと申しますのは算えることのできないくらいの数の神、という意味でなのです。

 神はどこにでも宿っております。このお社ひとつとりましても、燈明の神、梁の神、文字の神、ひのきの神などがおりまして、若先生のことを見守っております。なになにそうやってむやみに見渡して見えるものではございません。なにしろ、神、ですからな。ただ人の目には触れず、生き人のただ在るに関わらず、こうして必要なとき必要な場所にのみ出て参りますものなのです。

 こうなると私のお役目についても多少の説明が必要でしょう。私は先も名乗ったとおり、四つ辻の神です。四つ辻に立ち、人が神の領域へ触れることを未然に防ぐのがお役目、いわば往来の激しい交差点の警察官といったところでしょうか。

 神隠し、という言葉はご存知ですか。――さようです、人が神の領域に触れて人の世から消え去ってしまうこと、これを神隠しと申します。これは神からしても迷惑なことでして、人が機密文書などというものを持つのと同様、神には神の秘密というものがございます。これを人にのぞかれることは、そうですな、人の世に例えるなら降格、あるいは東京本社からどこか遠くの支社に飛ばされるほどの問題となります。この問題を未然に防ぐのが私のお役目というわけです。

 しかし、人の世も変われば変わるものですな。朝も昼もなくライトが空を照らしだし、夕暮れ時から明け方まで空の色が変わらないなど、数十年前には考えられないことでした。いや、話の順序は間違ってはおりません。これは私のお役目にもかかわる一大事でして。

 人はあまりにあかあかと火をともしたせいで、我らその影に生きる者たちを信じなくなってしまったのです。我らは信じられなければいないも一緒、畏れられなければないも一緒の者でございます。それが信じられない、畏れられないとはつまり、この世と神の世とのつながりが細くなってしまうこと、両者の隔たりがより厚くなってしまうことになります。つまり、神隠しもほとんど起こらなくなってしまった、というわけです。

 もちろん、多くの神にとってこれは吉報ですよ。自分の点数が下がるような事態がそもそも起こらなくなったわけですから当然です。しかし、我ら――ああ、私のような四つ辻の神は大勢おります。その全員が四つ辻の神と呼ばれるのですから、顔を合わせたときはどこどこの何番の何の神というふうに人間の住所というものを利用させていただいております。ともかく我ら四つ辻の神にとってはそれは役目のなくなった瞬間でありました。

 ここだけの話ですがね、最近なんだか不思議な感じがするのです。自分の存在が薄くなっているとでも申しましょうか、力を失ったでもないのに力を失った感じがするのです。誰とも目線の合わない、誰とも言葉を交わさない、誰とも出会わない。なんとも不思議な無力感です。


 おお、そうでした。引き継ぎの話をしなければなりませんでした。私としたことが己のことばかり、申し訳ありません。

 そもそも安心大社の起こりはそう昔の話ではございません。私が四つ辻の神として辻に立つようになってから十数年後ですから、ちょうどオイルショックの時代でありましたでしょうか。申し訳ありませんな。長年神などをやっておると、少し前のことすらよく思い出せなくなるのです。あなた方人間にもあるでしょう、朝食べたものがどうしても思い出せない、ということが。ちょうどそんな感じです。

 さよう、私はこんななりをしてはおりますがまだまだ若い神でございまして。天照大御神様などに較べれば生まれたばかりのひよっこ、いや、生まれる前の胎児といったところでございます。

 その胎児の記憶を紐解きますに、あの時代は物事の明暗がはっきりとつき始めた時代のように思えます。すなわち勝者と敗者、残りゆくものと消えゆくものでございます。我ら神の景気が良かったのもあの時代まで、いくらデフレの時代だとはいえ最近では賽銭もめっきり少なくなったと、このあいだ福の神様も嘆いておいででした。いまだに儲かっておるのは学問の神ぐらいのものではないでしょうか。いつの時代も試験というものはありますゆえ、需要は常に増えもしなければ減りもしない、収入が一定であるがゆえに今の時代は儲かっているというお話ですわ。

 そんな時代に安心大社ができましたのはそれなりの理由がございます。つまり、暇な神と忙しい神というものにはっきりとした区切りがつき始めたのでございます。忙しい者は一年中忙しく、暇な者は一年中暇、年末年始の掻き入れ時だけ忙しい者はずっとその調子。

 我ら神は神であるゆえに簡単に配置換えというものができません。なぜなら、神は死なぬからです。死なぬがゆえに人々の信心が生まれるたびに増え、上の者が需要を見込むたびに増え、そうして肥え太ってきた社会であるがゆえに、どうにもこうにも立ち行かなくなってしまったのです。

 たとえばお考えください。昨日、安産の神であったものが翌日必勝の神になったとして、あなた、それに信心を寄せようとお考えになりますか。やはり安産の神は安産の神、必勝の神は必勝の神なのでございます。

 そこで神々のあいだに精神疾患とでも申しましょうか、今節流行の言い方でいうならうつ病を患うものが出て参りましてな。忙しい者には忙しい者なりの、暇な者なら暇な者なりの、掻き入れ時だけ忙しい者にはそれなりの悩みというものがございますから、その解消法が必要になりました。

 最初のころは、悩みの神が神々の悩みを聞いておったのですが、それではまずいことになりまして。考えてもご覧ください。神が同じ神の悩みを聞くのです。例えるなら人間が同じ会社に所属する人間に悩みを言うようなもので、ますますうつ病はひどくなりましてな。ならば、と事代主ことしろぬしの神様が天照大神様に進言なさったのです。

 その悩み、人間に解決させてはいかがか、と。

 もうお分かりですな。こうして日本全国津々浦々に、ちょうど旅のお宿みたいな感じで安心神社が建てられたというわけです。ご祭神は天照大御神様、これで人間側への説明は充分でしょう。なにしろ天照大御神様といえば神の中の神、この日の本を象徴する神様であらせられますので、ちょうど黄門様の印籠のようなものでございます。

 あなたの伯父上様もその父君様、つまり先代と先々台の先生も今のあなたのように最初はそうしておりました。しかし、その後はご立派に決意を固められて役目をはたして参られました。あなたにはこのお役目を継ぐ義務があります。なぜならあなた様もまた天照大御神の領民、この日の本の領民であるのですから。

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