第一話 聖杯を拾った
金というものは、不思議な存在だ。
あればあるほど安心する。
だが、増えれば増えるほど、使い道に困る。
少なくとも、俺にとってはそうだった。
「……暇だな」
時又九輪、二十三歳。職業、個人投資家。
大学を卒業してからどこかの組織に属することもなく、株式、投資信託、為替などを淡々と運用して暮らしている。
最初から莫大な資産があったわけではない。大学時代に種銭をかき集めて投資を始め、得た利益をさらに市場へ回す。複利の波に乗って数字を転がし続けていたら、気がつけば一生遊んで暮らせるだけの金額になっていた。
そして――資産がある一定の閾値を超えると、人間は働く必要がなくなる。
俺の場合、その生活様式は極端の一言に尽きた。
朝、目覚める。
コーヒーを淹れる。
自室のマルチモニターに電源を入れる。
世界中の相場を確認し、必要があれば数クリックで売買を済ませる。
昼飯を食べ、動画を流し見し、ゲームのデイリーミッションをこなす。
夕方、市場の閉鎖に合わせて再度チャートをチェックする。
そして、寝る。
そんな、刺激とは無縁のルーティン。
「……本当に、暇だ」
口のなかで何度目かわからない呟きを反芻する。
金はある。住む場所もある。日々の生活に何の不自由もない。
欲しいものがあれば値札を見ずに買える。食いたいものがあればいつでも食べに行ける。旅に出たければ、今すぐファーストクラスのチケットを手配できる。
それでもなお、俺の日常は退屈そのものだった。
◇
異変があったのは、ある晴れた日の午後だった。
家に閉じこもっていることに飽き、気まぐれで近所の河川敷を散歩していた時のことだ。理由などない。強いて言うなら、部屋の空気が少し淀んでいた気がしたからだ。
「……ん?」
水際、湿った雑草の影に、不自然な光沢を放つものが落ちていた。
金属製の器。いや――杯だ。
「なんだ、これ」
歩み寄って観察してみる。
古代の遺跡から発掘されたと言われても納得がいくような、重厚で精巧な装飾。全体が冴え冴えとした黄金色の金属で鍛え上げられている。
何より妙だったのは、泥や水垢で汚れていないことだ。川辺の湿地という劣悪な環境に転がっているにもかかわらず、まるで磨き上げられた直後の新品のように輝いていた。
「誰かのコスプレ小道具か……?」
拾って警察に届け出ようか、と一瞬考えた。
だが、なぜだろう。俺の手は吸い寄せられるように、その冷ややかな金属の表面へ触れていた。
直後。
『所有者を確認しました』
脳の奥底へ直接打ち込まれるような、無機質な声。
「……は?」
『魔道具【聖杯】。起動プロセスへ移行します』
「え、ちょっと待――」
言葉は途中で途切れた。
杯の表面に幾何学模様の淡い光線が走り、視界が白く染まる。と同時に、あり得ないほどの情報が「概念」として脳内に直接流れてきた。
『【聖杯】』
『所有者:時又九輪』
『権能:創造』
『代価:所有者が必要と判断したもの』
『創造可能範囲:所有者が認識可能な物質、生命、魔力、概念』
「…………」
俺は思考を停止させた。
じっと固まったまま、沈黙を守る。
それから深呼吸を一つ挟み、手の中の杯を見つめ直した。
「……聖杯?」
『肯定』
「……なんでも、作れるのか?」
『肯定』
「……マジで言ってんの?」
『肯定』
俺は片手で額を押さえた。
「いやいやいや、おかしいだろ」
待て。落ち着け。
こんな現実離れした現象が存在するはずがない。そもそも聖杯とは何だ。魔道具? 創造? 概念の物質化? SFなのかファンタジーなのかも分からない。
「……まあ、検証してみるか」
混乱しながらも、俺の頭の一角は冷静だった。
俺の本業は投資家だ。投資家とはリスクを取り、仮説と検証を繰り返す職業である。未知の事象に直面した時、ただ恐怖するのではなく、許容できる最小限のリスクでテストを行うのが鉄則だ。
「水」
聖杯を軽く抱え直し、ぼそりと呟く。
「水を作れ」
――ぽん。
拍子抜けするほど軽い音が響いた。
次の瞬間、空だった杯の中に、なみなみと透明な液体が満たされていた。
「…………」
覗き込む。色も匂いもない。どう見ても普通の水だ。
俺は恐る恐る器に口をつけ、喉を鳴らした。
「……水だ。至って普通の」
だが、その「普通」こそが異常だった。質量が、何もない空間から一瞬で生成されたのだから。
俺は眉間を寄せながらポケットを探り、十円硬貨を一枚取り出した。
「十円玉」
――ぽん。
まったく同じ音と共に、杯の底に出来立ての十円玉が現れる。
取り出して指先で弾いてみる。銅の質感、刻印された平等院鳳凰堂、エッジの感触。どれを取っても本物と区別がつかない。
「……本当に、なんでも作れるのか」
『肯定』
「……じゃあ」
少しの思考時間。
投資家としての理性が「これ以上は危険だ」と警鐘を鳴らす一方で、かつて少年だった頃のロマンが胸の奥で頭を持ち上げた。
「聖剣」
俺は空を見上げ、はっきりと口にした。
「聖剣を作ってみてくれ」
――ゴォン。
大気が重低音を響かせて震えた。
「うわっ!?」
聖杯から眩い黄金の光があふれ出す。光の粒子は空中で渦を巻き、密度を高め、やがて物質としての質量を持ち始めた。
光が収まった時、俺の目の前には一本の剣が浮かんでいた。
白銀の美しい鞘。純金で施された精緻な装飾。柄頭に埋め込まれた、深紅に輝く巨大な宝石。
どこからどう見ても、物語の中でしか許されないはずの「聖剣」そのものだった。
「…………」
唾を呑み込み、静かに手を伸ばす。
柄に指が触れた瞬間、脳裏に不可解なステータスウインドウのようなものが展開された。
『聖剣【アストラル】』
『ランク:EX』
『付与能力:魔力切断 / 再生阻害 / 邪悪特攻 / 所有者認証 / 自己修復』
『備考:万物の理を断つ伝説の聖剣』
「…………」
俺は無言で剣を見つめ、それから誰もいない周囲を見渡した。
「……やばすぎるだろ、これ」
緊張感が限界突破した結果、思わず笑いが漏れた。
無理もない。俺は今、日本のありふれた河川敷で、何の前触れもなく神話級の兵器を手に入れてしまったのだ。
「……どうすんだよ、マジで」
当然だが、現代社会において聖剣の使い道など存在しない。
日々の取引でマウスをカチカチ叩くのが仕事の俺に、剣を振り回す機会などあるはずもないのだ。
しかし。
「……試してみたい、よな」
未知の力を前にして、それを一度も使わずに封印できるほど、人間は達観できていない。
俺は河川敷の草むらを掻き分け、さらに人目のつかない橋脚の陰へと移動した。
念入りに周囲を確認する。通行人はいない。防犯カメラもない。
俺は柄を握り締め、ゆっくりと鞘から刀身を滑り出させた。
――シュン。
空気を切る音すら清らかだった。
出現したのは、極限まで磨き抜かれた白銀の刀身。刃先には、まるで生き物のように淡い光芒が走っている。
「……マジで本物かよ」
足元に転がっていた、大人の腕ほどもある太い枯れ木に目をつける。
構えるでもなく、ただ刀身の重みに任せてスッと刃を当ててみた。
抵抗は、ゼロだった。
何の感触もなく、枯れ木が豆腐のように二つに切断され、地面へ転がった。切断面は鏡のように滑らかだ。
「…………」
切られた木と、手の中の剣を交互に見比べる。
「……これ、銃刀法違反どころの話じゃないよな?」
真っ先に頭をよぎったのは、あまりにも現実的な法律の問題だった。
だが、事態は一個人の犯罪リスクなどという次元を遥かに超えている。
俺は手の中の聖杯に視線を落とした。
「……これ、本当に『なんでも』作れるんだよな?」
『肯定』
「……生命も?」
『肯定』
「金も?」
『肯定』
「病気を治す薬も?」
『肯定』
「……魔法も?」
『肯定』
俺は完全に黙り込んだ。
少し想像すればわかる。
金を無制限に作れば通貨価値が暴落し、経済が崩壊する。
食料を無限に作れば農業や流通が壊滅する。
万能薬を作れば医療産業がひっくり返る。
兵器を作れば世界の軍事バランスが瓦解する。
――使い方を一歩間違えれば、世界が滅ぶ。
笑えない。冗談抜きで笑えない代物だ。
「……とりあえず」
頭を振って思考を切り替える。
世界を救う気も、世界を征服する気もない。俺はただ、平穏に過ごしたいだけの冴えない個人投資家だ。
「まずは部屋に持ち帰って、安全確認だな」
俺は聖剣を静かに鞘へ納めると、聖杯と一緒にバックパックへ押し込み、足早に自宅へと引き返した。
◇
その日の夜。
俺は自室のワークデスクに向かい合っていた。
ディスプレイには、いつものようにリアルタイムで変動する株価チャート。
そのすぐ隣には、暗闇の中でほのかに黄金の光を放つ【聖杯】。
そして足元には、異世界の英雄が携えるような伝説の【聖剣】。
「……どう考えても、画面の絵面がおかしすぎる」
深々とオフィスチェアに腰掛け、溜め息を漏らす。
聖杯を見る。聖剣を見る。チャートを見る。
そして、ふと根本的な疑問に突き当たった。
「……そういえば」
この聖杯は、俺の望むものを何でも形にできる。
だとするなら。
「俺が本当に欲しいものって、なんだ?」
金ではない。口座の数字は一生分を超えている。
不動産でもない。一人暮らしには今のマンションで十分だ。
高級車にも興味はないし、名誉や権力が欲しいわけでもない。
俺は腕を組み、天井を見上げて長考した。
そして、ポツリと本音を零した。
「……退屈を紛らわせてくれる、面白いこと」
それが、俺と聖杯の、長く奇妙な関係の始まりだった。




