(二十七)都市島・9
よいしょっ、と声を合わせ、ノリトはレーニスと大型日除け傘を砂浜に突き立てた。その根元に楔を打ち込めば、ちょっとした風ではびくともしない造りだ。
「いい風が吹きますね。ちょっと、べたつきますけど」
「そうだねぇ。潮風、普通なら経験しないもんね」
女性陣の着替えを待つ間、黒髪の少年と薄茶色の髪の青年は、巣作りに精を出していた。割と生真面目な性質の二人は良く働き、その背中は、早くも汗まみれだ。
左右に伸びる白い砂浜、そのほぼ真ん中に、折り畳み式の白い甲板用長椅子が三脚、広げられている。大型日除け傘の下には卓袱台、大人数でも座れる敷物、さきほど買ってきた食べ物、受付で借りた携帯冷蔵箱とその中には飲料類、清潔な大型手拭、そして大きな浮き輪が5つ、きちんと整えられていた。
太陽は、天頂を10度ほど過ぎ、まっさらな光線を、砂浜に注ぎ込んでいる。
ひとまず準備を終えた二人は、お互い声を掛けるでもなく、きらきらと水面を輝かせる、波打ち際に足を向けた。
「わっ! 冷たい!」
「ほんとだ! 意外に冷たい! あー、でも、気持ちいいな……」
少年が初めて経験する海の水は、ことのほか冷たかったが、その冷たさがじんわりと、砂浜に熱せられた両足を癒す。寄せては返す小さな波が、足の指の間を通り抜ける。
ノリトはじゃぶじゃぶと音を立てながら、遠浅の海に歩みを進めた。
沖合から、潮騒が聞こえてくる。
アルカイド市の政令指定人工海洋は、その表面積が約百平方キロメートルを誇る、地球連合の管轄する居住可能空域の中でも最大級のものだ。沖合の水深は最大5百メートル、約150種類の海産物が、人工的にここで管理、生産されていた。
ノリト達がいる海浜公園はそのほんの一角、二つの人工岬の間に、意図的に造られたものだ。ここの海は敢えて遠浅に造られており、背後に広がる砂浜も、石英や長石などをふんだんに使った、贅沢なものだった。
「さっすが、1万8千リーベの景観だね」
「僕のひと月分の食費ですよ……」
ノリトの隣まで歩みを進めたレーニスが言う。その金額を耳にして、少年は嘆息しながら腰に手を当てた。
この海浜公園の入場料だけで、一人あたり1万8千リーベが掛かる。さらに大型日除け傘、卓袱台、敷物、甲板用長椅子、携帯冷蔵箱、大型手拭、そして浮き輪……これらを借用する金額も含めると、とても一般庶民に手が出るものでは無い。辺りに人気が無いのも、頷ける話だった。
「まあまあ、お財布はガイツハルス少佐に任せて、のんびり楽しもうよ」
「いいのかなぁ、ほんと……」
イオキベ達が大喜びで呑んでいた酒も、少佐の付けになっているはずだ。後日、彼にはどれほどの請求書が届くんだろう、そこまで考えて少年は身震いし、それから先を考えるのを止めた。
不意の沈黙に左を見ると、レーニスが考え深げに、そのはしばみ色の瞳で、沖合を見つめていた。
騎兵服を来ているとひどく痩せて見える彼だが、下半身だけを丈長遊泳着で覆ったその身体からは、細めの骨格に、しっかりと筋肉が付いていることが分かる。ただ、なぜ、青地に向日葵が咲き乱れる派手な柄を選んだのかは、分からなかった。
一方のノリトは、単調な紺色の丈無水着を履いていた。
比べてみれば、太腿もレーニスほど太くないし、二の腕や腹筋、胸の筋肉も、まだ柔らかさを残している。オラシオン小隊で体力訓練にも付き合わされているとは言え、ノリトはまだまだ、少年期の体つきをしていた。
その事実が、彼に小さく、吐息をつかせた。
沖合を見る。
ここから見ると、人工海洋の縁は、ちょうど界平線と重なるように見えた。
それはまるで、かつての古代地球がそうであったように、どこまでも海が続いているように、少年には思えた。
――そんな訳で、沖合を見つめながらそれぞれの物思いに耽る二人は、背後から近づいてくる物音に気づかなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ノリトくん、えーい!」
「レーニスこのやろぅおりゃー!」
不意に、柔らかい掌で背中を突き飛ばされ、ノリトは前につんのめった。レーニスは両脚飛び蹴りを喰らって、顔から水面にぶち当たる。
慌てたノリトが振り返ると、トゥシェとアンテットが笑っていた。
「ぶっふぁ!……しょっ、しょっぱ! な、何すんだよー!」
「わーはっはっはっは! 解・放・感!!」
あやうく海水を飲みかけたレーニスが、尻もちをついて見上げると、仁王立ちのアンテットがいた。総髪に結い上げられた豊かな金髪は、太陽の日差しを受けて後光のように輝いている。女性らしい起伏に恵まれた褐色の肌を包むのは、何故だか見る者を眩しくさせる、口紅色の三角状衝撃型水着だ。
「いい若いもんが昼間っから黄昏てんじゃないわよ!」
「そ、わ、別に、たそ……」
いきなり背中に受けた物理的な衝撃と、今、眼前にある視覚的な衝撃に、しどろもどろになってレーニスが抗弁しようとした矢先、彼の鼻から、赤いものがつーっ、と垂れた。
「れ、レーニスさん鼻血! 鼻血! 大丈夫ですか!?」
「わ! レーニス、だいじょうぶ!?」
「ははぁん? 何、あんたもお年頃ってやつ? ふふーん?」
「ち、違うよ! 顔を水面に打ったからだよ! 誰のせいだよ!!」
敢えてしなを作って見せるアンテットから慌てて目を逸らし、レーニスは異論の声を上げた。得意そうに総髪を揺らしてアンテットが近づくと、その分だけレーニスは、中腰のまま、慌てて遠ざかる。
「くすくす、頑張るなぁ、立派な体でまだおぼこちゃん」
「う、うるさい! この可愛い顔して猛禽類!」
「え~、こんなに可愛いのに、猛禽とかひどいよぅ。ね? ノリトくん?」
トゥシェは柔らかそうな頬に手を当て、小首を傾げると、少年を見上げた。栗色の髪を短い双房髪にまとめた彼女は、山吹色も鮮やかな、ひだ飾り付の一体型水着を身に着けている。きらきらとした栗色の瞳から、仰角45度で放たれる視線に耐えきれず、真っ赤になってノリトは横を向いた。
「か、可愛いです! とっても!」
「うふふ~、素直だね~、いいこ、いいこ」
自分より背の低いお姉さんに頭を撫で撫でされて、少年の顔は耳まで染まる。
「ぐはぁ、うざ! うっざ! ノリト、気をつけな! こういう女が一番危ないから!」
「え~、そんなことないよぅ。ね? ノリトくん?」
「は、はふ、はぁ、はぅ!」
「――ちょっと、二人とも! 水に入る前は、準備運動ぐらいしなさい!」
砂浜から声を掛けられて、一同は一斉にそちらを見た。いきなり注目の的となった彼女が、体をよじりながらたじろぐ。
「……な、なに?」
「猛禽類さん、あれはどう思う?」
「そうですねぇ、おぼこちゃん……おねえさん兎なんてどうでしょう?」
「あー! あっは! それいいね! それ!」
「な、なに? どうしたの?」
「何でもないでーす!」
「大尉! 浮き輪取ってください! 遊びましょうよ!」
彼女たちの笑い声をよそに、少年はスズ・オラシオン大尉を見つめていた。
墨色の長い黒髪は総髪に結い上げられ、太陽に照らされて光の流れを作っている。少し控えめな起伏は、真っ白な上下分割型水着に包まれていた。陽光を直接浴びる素肌は、雪のように白く照り返している。浮き輪を手にした彼女が歩く都度、総髪が揺れ、魔法のように目を奪った――ノリトがふと気づいた時には、吸い込まれそうな水色の瞳は、もう目前だった。
「……どうしたの? ノリト君?」
「あ、いえ! なんでもないです!」
ノリトは真っ青な空を見上げ、太陽に挨拶した。
波の音が、からかうように響いている。
少年は心から思った。
(――夏期間、夏期間って、いいなぁーっ!!)
(つづく)




