(十八)都市島・2
リノリウム製の床に敷いたマットレスの上で、ノリトは目を開いた。
目を瞑ると、しばらくして世界がぐるぐる回りだす。
慌てて目を開いても、しばらくして世界がぐるぐる回りだす。
眠ることも起きることも出来ない時間を、少年は過ごしていた。
(今、何時だろう)
闇夜季節の夜は昏く、ノリトとイオキベに宛がわれた尉官用私室には、少しの灯りもない。まっくら闇の中、再び視界が回り始めて、仕方なく少年は目を閉じた。
自分の胃が、べ物を要求して鳴っているが、本体はそれどころでは無い。ソブリオが差し入れてくれた液状食を、僅かに啜るのが精一杯だった。酒類を摂取した経験は無いが、二日酔いってこんな感じなんだろうか。――そう、少年は思った。
『重力酔いね……馴れるまでひたすら飛びましょう、ノリト君』
優しく毛布を掛けてくれたスズの言葉は、容赦が無かった。
『僕もがんばるよ、ノリト君』
『お、ゲロ仲間の連帯感ってやつ?』
『だからそれは止めてってば……』
そんなレーニスとアンテットの掛け合いは、正直余計なお世話だと思った。
終日の試験飛行で散々に揺すぶられ、ノリトは完全に参っていた。夕食前、湯浴みを終えたオラシオン小隊隊員が見舞いに来てくれたが、大体が冷やかし半分だ。
アウダースにラソンはちょっと様子を見ただけで帰って行ったし、トゥシェなぞは、ぐったりとしたノリトの体を撫でまわしては、「気持ち悪い? ねえねえ、気持ち悪い?」といじり放題だった――その掌が温かくてちょっと気持ちいいな、と思った事は誰にも言えない。
最悪なのがイオキベで、工房長としてノリトの上長であるにも関わらず、湯浴み後には散々ノリトをからかった挙句、夕食後は「大丈夫か?」の一言も無く、躊躇なく部屋の灯りを消すと、そのまま寝台に突っ伏して寝てしまった。
(みんな、今頃気持ち、よく寝てるんだろうな)
再び襲ってきた眩暈に仕方なく目を開き、少年は闇を見つめた。
体がしんどいと、ここまで心細くなるものなのか。ノリトには初めての体験だ。
――その時、ふと、少年は自分の寝姿を見た。闇の中、毛布を被せられて、力無く横たわっている。
その右隣、イオキベが大の字になっているはずの一人用寝台は空だ。さらに視界が広がると、隣室で爆睡しているアウダースの様子や、廊下を行きかう警備の姿が見えてきた。
(夢か……夢を見てるのか)
ぼんやりとした意識で、ノリトは自分の視界を広げた。
電算室にいるラソンの姿が見える。
ガイツハルスは書類の整理に勤しんでいる。
あの少佐が一生懸命に書類を整理する姿は現実的でないので、やっぱりこれは夢だ、と少年は思った。
今やノリトの視界の中には、ベネトナシュ空域基地の全景が捉えられていた。
格納庫には、機体整備に精を出す整備士たちの姿がある。徹夜仕事なのだろうか、ピレルゴス曹長が眠たげな整備士たちに声を張り上げている。
葬祭場付近、人影は無い。
広い滑走路、基地浮島の縁、ぎりぎりのところに二つの人影。
(誰だろう?)
視界を寄せる。煙草をふかす金髪の男性と、懐中電灯を手にした黒髪の女性だ。
イオキベとスズが、深刻そうな顔をして何かを話している――警備の目を盗んで深夜に密会ができるほど、この基地の保安は甘くないはずだ。
――何かの波が、闇夜季節の夜空を走るのを感じ、ノリトはその発信源に目を向けた。
六角形の基地建物、中央管制塔、何かの管制室、栗色の髪の彼女、トゥシェだ。普段には無い固い表情で、手早く制御基盤を操作している。一連の操作を終えると、制御基盤から極小端末を取り出し、そっと部屋を抜け出す彼女。
(超短波無線管制室……?)
周囲の機材から、少年はそう推測した。
その管制室から抜け出したトゥシェは、廊下の向こうからやって来る警備と遭遇しようとしていた――見つかる!――ノリトは声にならない叫びを上げていた。
少尉とはいえ、一介の戦闘要員が中央管制塔に立ち入ることは基本的に無い。なおさら、こんな時間に超短波無線管制室に居たことを見咎められれば、懲罰房行きでは済まない。
――だが、立ち止まったトゥシェの脇を、警備は何事も無かったかのように通り過ぎて行った。その後姿を見送って、栗色の髪の彼女は、悠々と歩みを再開する。
ほっとした少年の意識に、猛烈な疲れが襲ってきた。すべての虚像が混濁して、曖昧な世界に視界が沈む。
(……疲れる夢だなぁ)
重力酔いすら忘れさせる疲労が身を包んだ時、ノリトはすっかり、眠りに落ちていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「トゥシェでーす」
相変わらず、返事も待たずに部屋に入ってきたのは、栗色の髪の彼女だった。朝日に照らされて、おかっぱ頭がやわらかな光の波を作る。
どういう訳か彼女は、毎朝迎えに来てくれていた。
「お、お早うございます!」
手早く新兵用騎兵服を身に着けていたノリトは、慌てて挨拶をした。トゥシェの到来を予期して、起床次第、騎兵服を身に着けるようにしている。妙齢の女性に少しでも素肌を見られるのは、少年には恥ずかしい事だった。
「あ、ノリトくん、もう平気になったんだ~」
何故か残念そうにトゥシェが言う。
距離の近さに、ノリトは一歩、下がった。
「はう、はい! 何とか回復しました……」
「どりどり……」
さらに一歩近づいたトゥシェにおでこの熱を計られて、ノリトは赤面した。
「もう、大丈夫です」
「育ち盛りだもんね~」
微妙に意味が分からない。
「め、し、は、なんだ……」
「はい?」
「飯、は、何だ……」
金髪を鬣のように広げて突っ伏したまま、イオキベが呻いた。
「えーと、茶がゆに焼き魚、煮物に煮浸しとなんかの和え物だそうです~」
「ちゃがゆ……やきざかな、にもの、にびたし、あえもの……ワショク、良し!」
どうも彼を起こすには、献立を告げるのが一番のようだ。朝御飯の様子を想定して、イオキベは飛び起きた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
リノリウム製の通路に、素足で歩くイオキベの、ぺたぺたという足音が響く。きちんと騎兵服を着たトゥシェの脇で、イオキベは臆面もなく、肌着にハーフパンツだ。
二人の背中を追いながら、ノリトは昨晩、自分が見た夢を思い出していた。昨日の対弩級竜種を想定した分隊飛行訓練の内容を、イオキベと楽しそうに話していたトゥシェが、ふと歩みを止めた。
「どうしたの? ノリトくん? やっぱり調子悪い?」
「あ、いや……」
栗色の瞳で心配そうに見つめられ、少年は言いよどんだ――それでも決心して、気になっていたことを尋ねてみる。
「イオキベさん、トゥシェさん、昨晩、何してました?」
「――何よ、エッチ!」
身を捩り、妙に甲高い声を張り上げたのは、イオキベだった。三十路男のする仕草ではない。
「あたしをどうするつもりなの!?」
「ちょ! いや! どうするとかこうするとかじゃなくてですね!」
慌てて弁明する少年に、金髪の三十路男はにやりと笑って答えた。
「爆睡に決まってんだろ。対弩級竜種想定戦とか、俺だって疲れるわ、そりゃ」
「そう……ですよね」
視線を泳がせたノリトの黒い瞳を、トゥシェの栗色の瞳が受け止めた。
「トゥシェ、さんは?」
「うふふ、知りたい? おませさん?」
「あ、いや、あの、どうしてもとか、そんなんじゃないんですけど……」
悪戯っぽい眼差しのお姉さんに見上げられ、少年はしどろもどろになる。
「夕食の後はすぐ寝ちゃったよ~、もうぐっすり! あ、それと……」
「それと?」
トゥシェはそっと近づくと、ノリトに小声で囁いた。
(今朝見た夢の話も、聞きたい?)
(い、いいです! いいです! それはいいです!)
息が掛かる距離まで迫られて、ノリトは急いで後ずさる。耳まで染めた少年の様子に、イオキベは「けけけ」と笑った。
「これはあれか? 世界青少年発育観測協会の出番か?」
「そんなもんの出番はありません!」
顔を真っ赤にして、ノリトは叫んだ。
急ぎ足で歩き始めた少年の背中を追いながら、二人の大人がそっと視線を交わしたことに、彼は気づきようもなかった。
(つづく)
前回はうっかり、後書きで次回掲載予定を書き忘れました!
こんな感じで部分部分で続ける場合、前書きは抜き、後書きは次回掲載の予告だけにしようと思います!
あ、「世界青少年発育観測協会」の英語読みですが、「ワールド・ユース・グロウス・オブザベーション・アソシエーション=World Youth Growth Observation Association」です!
略して「WYGOA=ウィゴア」です!
略した時の語呂が良かったので!
正直、どうでもいい!!
されば次回まで、ごきげんよう!
フライ・ルー!(ウィゴア!)




