第1話 俺はまだ本気を出していない
人事の内示は、いつだって妙にあっさりしている。
朝いちで総務課の共有メールに回ってきた一覧を、黒瀬遼司は自席の画面で開いた。異動、昇格、役職変更。名前と部署と発令日だけが並んだ無機質な表を、課内の誰もがそ知らぬ顔で見ている。見ていないふりをして、見ている。
斜め前の席で、渡辺が「あ」と小さく声を漏らした。
その一文字だけで、遼司にはだいたい分かった。
どうせ誰かが上がったのだ。たぶん、上がるべきと周囲に思われていた誰かが、順当に上がったのだろう。そういうとき、人は驚かない。ただ、納得した顔でわずかに浮き足立つ。
遼司はマウスを動かし、一覧を下へ送った。
営業推進部主任。真壁翔太。三十二歳。
ああ、やっぱり。
隣の島で、誰かが「おめでとう」と言った。すぐに二人、三人と続く。真壁は立ち上がりこそしなかったが、椅子の上で半端に背筋を伸ばし、困ったような笑顔を作って頭を下げた。愛想のいいやつだ。こういう場面で必要以上に照れず、かといって得意にもならず、ちょうどよく周囲に祝わせることができる。実に昇進向きである。
遼司は鼻で笑いそうになるのを、コーヒーで押し込んだ。
まあ、そうだろうなと思う。
真壁は優秀だ。少なくとも、会社の中では。上に好かれる種類の優秀さを、きちんと持っている。明るく、感じがよく、レスが早く、頼まれたことに嫌な顔をしない。人前での言葉選びもそつがない。多少の無理を振られても、顔に出さずに一度持ち帰る。管理する側からすれば、あれほど使いやすい人材もないだろう。
使いやすい、というのは大事だ。
能力が高いかどうかとは別の話である。
遼司は画面から目を離し、真壁の横顔を見た。周囲に声をかけられるたび、相手の目を見て短く礼を返している。ああいう細部が評価になるのだ。ああいうものを積んでいける人間が、組織では上に行く。
別に不思議ではない。
不思議ではないし、悔しくもない。
――悔しくない、は少し違うか。
遼司はその言葉を頭の中で訂正した。こういうところを雑にすると、思考が濁る。
悔しいのではない。ただ、競技が違うだけだ。
社内での立ち回りがうまいやつが、社内で先に上がる。当たり前の話だ。そこで評価されていないからといって、人間の格まで決まるわけではない。
その点、自分は違う。
そう思うと、胸のあたりのざらつきが少しだけ収まった。
遼司は総務課主任だ。三十五歳。仕事は地味だが、会社の裏側を止めないための実務を一通り回している。備品、契約、申請、会議室、来客、社内行事、雑多な調整、名前のつかない火消し。表に出る仕事ではないが、こういうものは、誰かが黙ってやっているから回る。
その誰か、であることは別に悪くない。
分かる人間が少ないだけだ。
「黒瀬さん、見ました?」
不意に声をかけられて顔を上げると、隣の席の水野が身を寄せてきていた。二十代後半、総務課に来てまだ二年目の女だ。悪い子ではないが、世の中を比較的そのまま信じている顔をしている。
「何を」
「真壁さんですよ。主任。早いですよねえ」
「まあ、そうだな」
遼司は曖昧にうなずいた。
水野は少し声を落として、「黒瀬さんのほうが先かと思ってました」と言った。
社交辞令にしては余計な一言だった。たぶん慰めのつもりなのだろう。こっちを立てたつもりで、かえって今の位置をはっきりさせる類の、あまり頭のよくない優しさだ。
遼司は口元だけで笑った。
「いや。俺はそういうの、あんまり向いてないから」
そう言ってから、内心で付け加える。
向いていない、ではない。合わせていないだけだ。
そこは大事だ。
最初から手を伸ばしていない場所に届かなかったからといって、それは敗北ではない。少なくとも、全面的な敗北ではない。自分の価値を、会社が決める役職の順番で測る必要はないのだ。
真壁の席のまわりで、また小さな笑い声が起きた。
遼司はメールの画面を閉じ、未処理フォルダを開いた。会議室レイアウト変更の依頼が二件、稟議の差し戻しが一件、来月の防災訓練の確認が一件。相変わらず色気のない仕事ばかりだ。
だが、こういうものを雑にする人間に限って、表では立派なことを言う。
遼司はキーボードに指を置いた。
まあいい。上がりたいやつは上がればいい。向いているやつが、向いている場所で評価される。それだけのことだ。
自分には、自分の時間がある。
少なくとも遼司は、そう思っているあいだはまだ平気だった。
防災訓練の案内文を修正しているうちに、午前中は思ったより早く過ぎた。
社内一斉メールの文面から、余計な丁寧語を削る。避難経路図の添付漏れを確認する。総務というのは、つまるところ「誰かが見落とすものを先に見つける仕事」だと遼司は思っている。表で拍手を浴びることはないが、裏で転びそうな石を拾って回る人間はいる。それを地味と呼ぶのは勝手だが、地味で済むようにしている側の手間まで軽く見積もるのは、単に想像力が足りないだけだ。
隣の席の水野は、昼休みが近づくにつれてそわそわし始めていた。真壁の昇進祝いに、午後いちで営業推進部の連中が軽くコーヒーでも奢るらしい。そういう空気の早さも、遼司には少し可笑しい。本人の能力が今日いきなり変わったわけでもないのに、肩書きが一つ増えた瞬間から周囲の反応まで変わる。人はつくづく、分かりやすい記号に弱い。
「黒瀬さん、お昼どうします?」
水野に聞かれ、遼司は画面から目を離した。
「いつものとこでいいなら」
「あ、じゃあ私も行きます。食堂、今日たぶん混みますよね」
「まあ、人事の日はな」
大して意味のないやり取りをしながら立ち上がる。課内の何人かも席を離れ始めていた。真壁は別の部署の先輩に捕まっている。背中越しに笑い声が聞こえた。たぶん、昼も誰かに囲まれるのだろう。
食堂へ向かう廊下の途中で、経理の永瀬と鉢合わせた。四十手前、既婚、子ども二人、去年郊外に家を買った男だ。遼司とは同期入社で、会えばそれなりに話す。
「お、黒瀬。見たか?」
「見たよ」
「真壁、早かったなあ。三十二だろ。すごいわ」
永瀬は、すごいと言いながら本当に感心している顔をしていた。そこに嫉妬も皮肉も混じっていないのが、遼司には少し不思議だった。人の成功に、そんな素直な顔ができるものだろうか。
「まあ、順当なんじゃないか」
「お前、冷めてるなあ」
「別に」
食堂は思ったほど混んでいなかった。窓際の席を確保して、日替わり定食のトレーを置く。唐揚げが三つに、しなしなの千切りキャベツ、味噌汁、小鉢のひじき。遼司は箸を割りながら、向かいに座った永瀬と水野を見た。
こうして並べると、三人ともまるで別の種類の人生を歩いているように見える。
永瀬はずっと堅実だ。学生時代から突出していたわけではないが、落とすところで落とさず、取るべきものを順に取ってきた顔をしている。結婚し、家を買い、子どもの写真をスマホの待ち受けにして、休日にはショッピングモールで買い物をする。悪くない人生だろう。たぶん本人も、それなりに満足している。
だが、その満足はどこか規格品めいてもいる。
用意された棚に、順番に荷物を収めていくような生き方だ。効率はいいし安定もするが、最初から置く場所が決まっている。
遼司には、少し息苦しく思えた。
「真壁さん、いいですよねえ」
水野が味噌汁をすすりながら言う。
「感じいいし、仕事できるし、ちゃんと評価されるし」
「ちゃんとしてるからな」
永瀬がうなずく。
「そういうの、大事なんだよ。結局」
結局。
その雑なくくり方が、遼司はあまり好きではない。
「ちゃんとしてる、ね」
思わず口に出すと、二人がこちらを見た。遼司は箸で唐揚げを割り、断面から湯気が抜けるのを見た。
「いや。もちろん大事なんだろうけど、会社で評価される“ちゃんとしてる”と、人間として上等かどうかは別だろ」
水野が少し目を丸くし、永瀬が苦笑した。ああ、この顔だ、と遼司は思う。面倒くさいことを言い始めたな、という顔。別に構わない。誰かが一度くらいは、そういう雑な一致をほどいてやらないといけない。
「でも、仕事ってそういうもんじゃないですか?」と水野が言った。「ちゃんとできる人が上がるというか」
「会社の中では、な」
「会社員なんだから、会社の中で評価されるのって大きいでしょ」
「大きいことは否定してないよ」
遼司は穏やかに言った。穏やかに言うのが肝心だ。熱を帯びると、負け惜しみに見える。
「ただ、評価ってその場に都合がいいかどうかで決まる部分もあるだろ。上にとって扱いやすいとか、今の組織に噛み合ってるとか。そういうのを全部ひっくるめて“優秀”って言うのは、ちょっと乱暴じゃないかってだけで」
永瀬が「まあ、それはそうかもな」と曖昧に笑う。
水野はまだ腑に落ちない顔をしている。若いな、と遼司は思った。評価されることと価値が一致している時期の顔だ。ああいう顔をしていられるうちは、ある意味で幸福なのかもしれない。
「黒瀬さんって、自分で出世したいとかないんですか」
水野は悪気なくそう聞いた。
遼司は一瞬、箸を止めた。
あるか、ないかで言えば、あった。
ずっと前には、あった。
ただ、今それを正面から認めるのは、あまりうまくない。
「どうだろうな」
遼司は少し考えるふりをした。
「肩書きが欲しいっていうより、俺は自分の裁量でやれる範囲が広いほうがいいかな。上に行くこと自体が目的のやつ、いるだろ。ああいうのはあんまり分からない」
言っていて、自分でも悪くない答えだと思った。完全な嘘ではない。しかも、自分が“上に行けない側”ではなく、“それを唯一の価値基準にしていない側”に立てる。
永瀬が「お前らしいな」と笑った。
その言い方には、少しばかりの諦めが混じっていた。理解ではない。分類だ。黒瀬はこういうやつ、と処理しているだけである。
まあ、いい。
人に理解される必要まで背負い込むのは、さすがにコストが高すぎる。
窓の外では、三月の薄い日差しが駐車場の白線を曖昧に照らしていた。食堂のガラスに映る自分の顔は、思ったより疲れていない。少なくとも、真壁のように祝われてはいなくても、永瀬のように家庭の話題を持っているわけでもなくても、今こうして昼飯を食っている自分には、まだ十分に余白がある。
余白は、負けではない。
埋まっていないことをそのまま不足と呼ぶのは、少し浅い。
そういうことにしておけば、たいていの昼休みは乗り切れる。
午後は、たいした事件もなく過ぎた。
たいした事件がない、ということ自体が総務の成果だと遼司は思っている。誰かが表で大きな数字を作るためには、裏で何も起きない状態が維持されていなければならない。会議室の予約が重ならないこと。来客用の駐車場が空いていること。押印の滞りがないこと。空調の苦情が大きくなる前に業者へ連絡が入ること。そういうものは、うまく回っている限り存在しないものとして扱われる。
存在しないものとして扱われる仕事を、存在しないものみたいな顔で片づけていく。
遼司はその感じを、嫌いではなかった。
五時半を少し回ったところで、営業から回ってきた備品追加の依頼票に確認印を押し、パソコンを閉じる。課内ではまだ何人か残っていたが、遼司は「お先です」とだけ言って席を立った。誰も止めない。総務課主任の帰宅時刻としては妥当なところだ。
エレベーターを待っていると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を見る。母。
遼司は一瞬だけ見なかったことにしようかと思ったが、すぐに出た。出なければ後で面倒になる。
「もしもし」
『あ、遼司? 今いい?』
「いいけど。何」
『何、じゃないわよ。別に用ってほどでもないんだけど、あんた最近声聞かないから』
最近と言っても、十日前に一度話している。母にとっての「最近」は、おそらく自分が心配を思い出した頻度のことだ。
「忙しかっただけ」
『忙しいのはいいことだけど、ちゃんと食べてる?』
「食べてるよ」
『ほんとに? あんた昔からそういうとこ適当だから』
駅前のロータリーへ向かって歩きながら、遼司は小さく息をついた。夕方の空気はまだ少し冷たい。学生の集団が笑いながら横を抜けていく。ああいう音の中で母の声を聞いていると、自分だけ時間の流れ方が違うところにいるような気がする。
『そういえばね、この前、近所の佐伯さんちの息子さんが帰ってきてて』
来た、と思った。
『あんたと一つ違いだったでしょう。今度二人目が生まれるんですって』
「へえ」
『へえって、あんた』
「別に。良かったんじゃないの」
『そりゃ良かったけど、そういう話聞くとねえ。あんたももう若くないんだから』
若くない。
そういう語を、母は悪気なく使う。悪気がないからこそ質が悪い。刃物だと分かっているものより、食卓に置かれたままの包丁のほうがよほどうっかり指を切る。
「まだ三十五だろ」
『もう、でしょう。男の人はいいわね、そういう言い方ができて』
「別に今すぐどうこうって話でもないだろ」
『今すぐじゃなくても、考えてるのかって話よ。仕事だって、この先ずっと今のままでいいのかとか』
遼司は足を止めずに歩いた。
改札前に人が溜まっている。定期券をかざす音が一定のリズムで続く。母の声だけが、その流れに少し乗り遅れていた。
『お母さんはね、別に偉くなってほしいとか、そういうこと言ってるんじゃないのよ』
たいてい、そう前置きした後に来るのは、結局似たような話である。
『ただ、ちゃんと落ち着いてくれたらって』
ちゃんと。
落ち着く。
遼司は口の中でその語を転がした。便利な言葉だと思う。中身をいくらでも曖昧にしたまま、人にだけ輪郭のある不安を押しつけられる。
「俺は別に、落ち着いてないわけじゃないけど」
『そういう意味じゃなくてね』
「じゃあどういう意味」
少しだけ声が硬くなった。
電話の向こうで、母が黙る。
この間が嫌だった。こちらが不機嫌になったことを伝えてしまった自覚と、それでも引っ込めるには遅い感じが、両方ある。
『……あんた、昔はもっと、自分はすごいことするって言ってたじゃない』
思ってもいなかった角度から来たので、遼司は一瞬返せなかった。
『お母さん、そういうの、嫌いじゃなかったのよ。根拠なくても大きいこと言うの。でも最近は、そういうのも言わないし』
それはつまり、期待していたのに、ということだろうか。
あるいは、もう期待していない、ということだろうか。
どちらにしても、聞いて気分のいい話ではなかった。
「別に、今でもそのつもりだよ」
言葉は思ったより早く出た。
ほとんど反射だった。
『……そう』
「ただ、何がどう転ぶかなんて分からないだろ。会社の中の順番とか、結婚の早い遅いとか、そういうので全部決まるわけじゃないし」
母はしばらく黙って、それから小さく笑った。
電話越しでも分かる、あまり納得していない笑い方だった。
『あんたは昔から、そうやって理屈をつけるのが上手ね』
「理屈じゃないよ」
『はいはい。とにかく、体だけは気をつけなさい。ご飯ちゃんと食べて、お酒飲みすぎないで。たまには顔見せなさいよ』
「分かった」
『ほんとに分かってる?』
「分かってるって」
通話を切ると、画面がすぐに黒くなった。
自分の顔がそこに一瞬だけ映る。疲れてはいない。老けてもいない。少なくとも急いで何かに敗北した顔には見えなかった。
改札前で、ひとりの女が立ち止まっていた。
スマートフォンを見たまま、通り過ぎる人の流れに半歩だけ遅れている。画面の端に、赤ん坊を抱いた写真が一瞬見えた。
祝いの報告か何かだろう、と遼司は思う。
ああいうものを律儀に食らって、いちいち削れる手合いがいる。他人の人生を真正面から見すぎるから、自分の足場までぐらつくのだ。祝えないなら、見なければいいのにと思う。
もっとも、ああいう人間はたぶん、見ないではいられないのだろうが。
女はすぐに顔を上げ、小さく会釈して脇へ避けた。遼司はそのまま改札を抜けた。
――昔はもっと、自分はすごいことするって言ってたじゃない。
改札を抜けたあとも、その一言だけが妙に残った。
言っていた。
たしかに言っていた。
もっと大きいところへ行くつもりだったし、もっと違う人間になるつもりでもいた。今いる場所が最終地点だと考えたことは、一度もなかった。
ない、はずだ。
遼司はホームに上がり、来た電車に乗った。車内の窓に夕方の景色が薄く流れる。座れはしなかったが、吊り革を掴む手には変に力が入っていた。
会社の中の順番など、本質ではない。
家庭を持ったかどうかも、人生の格を決める尺度ではない。
ああいうのは分かりやすい指標にすぎない。誰でも見える場所に置かれた、安い得点表のようなものだ。
そうだ。
別にある。
では何が、と問われると少し困るが、それは今すぐ明文化できないから価値がないという話ではない。むしろ、人に簡単に説明できる範囲に収まるものだけを人生の成果と呼ぶほうが浅い。
そのくらいのことは、母にも分からないのだろう。
永瀬にも、水野にも、真壁にも。
そう考えているうちに、胸の奥に刺さっていた細い棘が、少しだけ丸くなった。
駅から十分ほど歩いたところにある賃貸マンションは、築十五年のわりに外壁だけがやけにきれいだった。帰宅してネクタイを外し、ジャケットを椅子にかける。手を洗い、冷蔵庫を開ける。昨日買っておいた豆腐とカット野菜がある。賞味期限はまだ大丈夫だが、今日は面倒だった。結局、途中のスーパーで買った海苔弁当をレンジに入れる。
部屋は静かだった。
整ってはいる。汚くもない。
だが、生活が上向いていく気配のようなものも特にない。
テレビはつけず、食卓代わりのローテーブルで弁当の蓋を開けた。白身魚のフライ、ちくわの天ぷら、きんぴらごぼう、申し訳程度の漬物。悪くない。悪くないが、これが三十五歳独身会社員の平日夜として典型的すぎることに気づくと、少しだけ嫌になる。
遼司は醤油の小袋を開けながら、考えないようにした。
典型的で何が悪い。
誰に迷惑をかけているわけでもない。
自分の金で買った弁当を、自分の部屋で食っているだけだ。
食べ終えて、風呂をためるあいだに洗面台の鏡を見る。
蛍光灯の下では、顔色が必要以上に平板に見えた。
三十五歳の男。
目立った失敗もなければ、目立った成功もない顔。
その見え方に、ふと足元が少し浮く。
このまま何者でもなく終わるのかもしれない、という考えは、ときどき前触れもなく来る。派手な絶望ではない。もっと薄くて、日常に紛れた種類のものだ。会議室の乾いた空気みたいに、気づけば肺の中に入っている。
何者でもない。
たいしたこともしていない。
会社では便利な裏方で、家に帰れば弁当を温めるだけの男。
この先も、たぶん劇的なことは起きない。
そこまで考えたところで、遼司は蛇口をひねった。
水音が大きく響く。
「いや」
声に出していた。
違う。
そういうふうにまとめるのは雑だ。
まだ何も終わっていないし、決まってもいない。人生というのは、今どこにいるかだけで決まるものではない。遅れているように見える時期が、そのまま後の伸びしろになることだってある。
そうだ。
自分はそのタイプなのだ。
組織の中で器用に立ち回ることに全振りしてこなかった。だから今すぐ分かりやすい得点がついていないだけで、別に価値がないわけではない。家庭を持っていないのも、選択肢が狭まっていないという見方だってできる。自由度があるということだ。余白があるということだ。
余白は、敗北ではない。
遼司は鏡の中の自分を見た。
さっきまで少し頼りなく見えた顔が、今はそこまで悪く見えない。
風呂が沸きました、という機械音が鳴る。
遼司は洗面台の電気を消した。
危ないところだった、と思う。
ほんの少し気を抜くと、思考はすぐに安い現実認識のほうへ流れる。数字や肩書きや年齢みたいな、誰にでも見える尺度だけを並べて、分かったような気になる。
そのくらいのことは、自分で自分に言ってやらなければならない。
誰もそこまではしてくれないのだから。
真壁の昇進から二週間ほどで、営業推進部の空気は少し変わった。
表向きは、何も変わらない。
真壁は相変わらず感じがよく、朝は誰より早く来て、廊下ですれ違えばきちんと足を止めて挨拶をする。会議室の予約を確認しに来るときも、総務への依頼メールを送るときも、文面に余計な棘がない。そういうところがあいつの強みなのだろう、と遼司は思う。人を不快にさせない能力は、それだけで立派な資質だ。
ただ、目の下にうっすら影が出始めていた。
気づいている人間は、気づいている。
気づいていないふりをしているだけで。
月末が近づいたある日の午後、営業推進部から会議室レイアウト変更の依頼が二件重なった。片方は取引先を交えた打ち合わせ、もう片方は急遽入った役員報告。時間帯が微妙に食い違っていて、どちらも「どうにかならないか」という一言だけは同じだった。
どうにか、というのは便利な言葉だ。
自分では具体策を持たず、相手の裁量と善意にだけ期待するときに、人はたいていそれを使う。
遼司は依頼票と予約表を見比べ、空いている会議室を洗い直した。六人用では足りない。十人用は設備点検が入っている。応接室を一時的に転用するか、役員報告のほうを三十分後ろへずらすか。どちらにしても一度は誰かが嫌な顔をする。
嫌な顔をされるために給料が出ている。
総務の仕事とはだいたいそういうものだ。
電話を取り、設備管理に確認を入れる。次に役員秘書へ時間調整の打診。断られたら応接室案へ切り替えるつもりでいたが、意外にも秘書のほうが折れた。予定表を見直して、「三十分なら」と言う。遼司は礼を述べ、営業推進部へ内線を回した。
「黒瀬です。会議室、A-3をそのまま使ってもらって大丈夫です。役員報告のほうを後ろへずらしました」
電話口で一瞬、詰まる気配があった。
真壁だった。
『……すみません。助かります』
「別に。そっちで参加人数だけ最終確定してメールください。机の追加が要るなら先に出して」
『分かりました。ほんと、すみません』
その「すみません」が、少し重かった。
普段の真壁なら、もっと明るく、申し訳なさを相手に背負わせない調子で言う。今のは単純に、余裕がなかった。
遼司は受話器を置いてから、少しだけ営業推進部の島を見た。真壁は席で前かがみになり、ノートパソコンの画面を睨んでいる。隣の席の部下に何か聞かれ、すぐ顔を上げて対応していたが、返事の直前に一拍だけ間があった。ほんの小さな間だった。だが、崩れ始める人間はそういうところから分かる。
まあ、そうなるだろうなと思う。
上がったのだ。
上がれば背負うものが増える。
評価された人間は、その評価に見合い続けることまで込みで使われる。祝われて終わりではない。むしろそこからのほうが長い。
遼司は少しだけ気の毒にも思ったが、それ以上に妙な納得があった。
真壁のような、まっとうで、感じがよくて、ちゃんとした人間ほど、自分がちゃんとしていなければならない圧に弱い。周囲の期待を真正面から引き受けるからだ。ああいうタイプは、上がった後に自分で自分を追い込む。
その点、自分は楽だ。
評価されなかったことを、全人格への否定だとは受け取らない。
少なくとも、そう受け取らないための理屈を持っている。
上司の見方が浅いだけかもしれないし、今の組織に噛み合わないだけかもしれないし、そもそも役職の順番で人間の総量が決まるわけでもない。そういう逃げ道を、遼司は最初から自分の中にいくつも持っている。
逃げ道、というと聞こえは悪い。
だが実際、人間は逃げ道がなければ息が詰まる。
その日の終業間際、営業推進部から総務へ追加で備品申請が来た。翌週のキャンペーン用にパネルスタンドが足りないらしい。申請期限は過ぎていたが、どうせ放っておけばまた現場で揉める。遼司は倉庫の在庫を確認し、古い案内板のスタンドを流用できるよう手配した。
帰り支度をしていると、課のドアのところで「黒瀬さん」と呼ばれた。
真壁だった。
ネクタイが少し緩んでいる。顔色も朝より悪い。だが、それでも笑おうとしているのが分かった。そういうところだよ、と遼司は内心で思う。そういうところが、お前をここまで上げたし、そういうところが、これから先をきつくする。
「さっき、ありがとうございました。会議室の件も、スタンドの件も」
「別に。総務の仕事だから」
「それでも助かりました。最近ちょっと、抜けが多くて」
そこで真壁は、自分で言ってから少し困ったように笑った。
冗談めかしたつもりなのだろうが、冗談になりきっていない。
「忙しいんだろ」
「まあ……はい。思ったより」
思ったより。
そういう言葉が口をつく時点で、もうだいぶ来ている。
遼司は鞄に書類をしまいながら、真壁を見た。近くで見ると、やはり目の下が暗い。頬も少しこけたように見える。昇進して、周囲から祝われて、きっと今がいちばん順調に見えるはずの時期だ。そう見える時期に限って、中身はそうでもなかったりする。
「向いてなかったのかもしれません」
真壁はふいに、低い声で言った。
遼司は手を止めた。
真壁自身も、口に出すつもりはなかったのだろう。言ってしまってから、目線を少し泳がせた。
「いや、すみません。今のなしで」
「別にいいけど」
「なんか、ちゃんとやってるつもりなんですけどね。前より見る範囲が増えたら、全部中途半端になってる気がして。上からも下からも言われるし、家帰っても頭切り替わらないし」
遼司は黙って聞いた。
真壁のこういう顔は、少し意外だった。
いや、意外ではないのかもしれない。見えていなかっただけで、もともとこういう種類の脆さはあったのだろう。ちゃんとした人間は、ちゃんとしているぶんだけ、自分の綻びを人に見せるのが下手だ。
「自分だけが足りてない感じ、しないか」
気づくと、遼司はそう言っていた。
真壁が顔を上げる。
「……します」
「するよな」
遼司は肩をすくめた。
「でも、ああいうの、だいたい錯覚だぞ」
「錯覚、ですか」
「みんなそんな大したもんじゃない。上も下も、案外適当だし、たまたまちゃんとして見えてるだけのやつも多い。自分だけ基準値に届いてないみたいに思うの、あれ結構雑な見方だから」
真壁は少し黙った。
納得したというより、予想外の言葉を受け取った顔だった。
遼司は続けた。
「向いてる向いてないも、会社が今その役に誰を置きたいかってだけの話だろ。上がったからって急に完成形になるわけじゃないし。そんな、全部まともに受け取らなくていいんじゃないか」
「……黒瀬さん、いつもそんな感じなんですか」
「何が」
「いや、その……あんまり飲み込まないというか」
少し言葉を選っている。
たぶん、もう少しましな表現を探しているのだろう。見下している、とか、図太い、とか、そういう単語を避けて。
遼司は小さく笑った。
「どうだろうな。全部本気で受け取ってたら疲れるだろ」
それは、半分は真壁への言葉で、半分は自分への確認だった。
全部本気で受け取らない。
評価も、比較も、年齢も、周囲の人生も。
そのたびに少しずつ別の意味を与えて、自分が沈みきらない位置へ置き直す。人から見れば、たぶん見苦しい。都合がいい。負け惜しみにも見えるだろう。
だが、それで何とか呼吸が続くなら、悪いことばかりでもない。
真壁はそれ以上何も言わず、「ありがとうございました」とだけ言って頭を下げた。今度の礼は、昼間より少し軽かった。
営業推進部のほうへ戻っていく背中を見送りながら、遼司は自分でも少し妙な気分になった。たいしたことを言ったつもりはない。励ましたかったわけでもない。自分が普段、自分自身を持ち上げるために使っている理屈を、少し薄めて他人に渡しただけだ。
それでも、あれで少しは楽になるのだとしたら。
見苦しい理屈にも、使い道はあるのかもしれなかった。
翌週の金曜、遼司は上司との評価面談で小会議室に呼ばれた。
こういう面談には独特の空気がある。柔らかく話すことが決まっている人間と、柔らかく聞くことが決まっている人間が向かい合い、あらかじめ丸められた言葉を交換する。厳しいことを言われても「期待しているから」と添えられ、たいして期待されていない場合でも「今後の成長次第で」と逃げ道だけは残される。要するに、傷つけすぎず、しかし何も約束しないための様式だ。
課長の岸本は、資料の端を指で揃えてから口を開いた。
「黒瀬くんは、安定してるよね」
来た、と思う。
この手の評価はたいてい、褒め言葉のようでいて、その先へは行かない。
「日々の業務を堅実に回してくれてるし、細かいところにも気づいてくれる。総務としてすごく助かってる」
「ありがとうございます」
「特に最近、営業推進の会議室調整とか、ああいう横断的なところはかなり助かったって話も聞いてる」
「そうですか」
そうですか、で受けるしかない。
本当にそれが評価に繋がるなら、最初からもう少し違う場所に呼ばれている。
岸本は一度うなずいてから、少しだけ声の調子を変えた。
「そのうえで、なんだけど」
もちろん、そのうえで、が来る。
来なかったことなど一度もない。
「今後を考えると、もう一段、主体性というか、課全体を引っ張る動きが見えるといいかなと思ってる。黒瀬くんは自分の持ち場はきっちりやるんだけど、逆に言うと、そこに収まりすぎるところがあるから」
遼司は表情を変えずに聞いた。
主体性。引っ張る動き。収まりすぎる。
全部ふわっとしていて便利な言葉だ。何となく不足を示せるわりに、何を満たせばいいかは相手に委ねられる。
「あと、本人があまり前に出たがらない印象もあるよね。そこは少しもったいない」
前に出たがらないのではない。
安く前に出ることに意味を感じないだけだ。
そう言い返したくなるのを、遼司は飲み込んだ。ここで反論しても得はない。評価面談というのは、相手の見立てを訂正する場ではなく、訂正したくなった気持ちごと持ち帰る場だ。
「現状、役職や異動についてはすぐどうこうという話ではないけど、次の期はそのあたりも意識してもらえると」
「分かりました」
岸本は安心したように笑った。
分かりました、と答える人間は扱いやすい。実際に分かっているかどうかは、その場では重要ではない。
面談は十分ほどで終わった。
小会議室を出て廊下を歩きながら、遼司は自分の足音だけがやけに響く気がした。
現状維持。
すぐどうこうという話ではない。
もう一段。
もったいない。
要するに、今回も何も変わらないということだ。
席へ戻る途中、コピー機の前で水野に会った。
「あ、黒瀬さん。面談ですか」
「まあ」
「どうでした?」
「どうもこうもないよ。いつも通り」
遼司はそう言って通り過ぎようとしたが、水野はコピー用紙の束を抱えたまま少しだけ困った顔をした。
「黒瀬さん、ちゃんとやってるのに」
その言い方が、思ったより胸に引っかかった。
ちゃんとやってるのに。
その“のに”には、報われるべきだという前提がある。努力と評価が比例すると思っている人間の、まだ壊れていない言葉だ。
「ちゃんとやってるから上がるわけでもないだろ」
少し硬い声になった。
水野は「あ、すみません」と慌てて目を伏せた。
しまった、と思ったが、もう遅い。
「いや、別に怒ってない」
遼司はそう付け足して、自席へ戻った。
パソコンの画面をつけても、すぐには仕事に戻れなかった。
岸本の言葉が反芻される。
収まりすぎる。
前に出たがらない。
もったいない。
都合のいい言い方だ、と遼司は思う。
つまり、自分は便利だが、押し出しが足りない人間として整理されているのだろう。いて助かる。だが上へ上げるには何か決め手に欠ける。そういう棚に置かれている。
棚。
またその感じだ。
人はいつだって、他人を収まりのいい棚へ入れたがる。
真壁は昇進する人間の棚。
永瀬は堅実な家庭人の棚。
水野はまだ信じられる若手の棚。
そして自分は、少し理屈っぽいが地味に便利な総務主任の棚。
ふざけるな、と思う。
そんなもので人の総量が決まってたまるか。
その反発が胸の奥で熱を持つのを感じて、遼司は逆に少し落ち着いた。
そうだ。こういうときだ。
こういうときこそ、自分で自分の位置を置き直さなければならない。
岸本の見方が浅いだけかもしれない。
今の会社の評価軸が短期的すぎるだけかもしれない。
あるいは、自分がまだこの場に本気で合わせていないだけかもしれない。全部を丸ごと認めてやる必要はない。相手にそう見えている、それだけの話だ。
全部受け取るな。
全部本当だと思うな。
雑な尺度で自分を確定させるな。
遼司はゆっくり息を吐き、未処理のフォルダを開いた。
会議資料の印刷依頼が一件、社用車点検の日程調整が一件、蛍光灯交換の連絡が一件。相変わらず色気のない仕事ばかり並んでいる。だが、その色気のなさを毎日どうにかしている人間がいるから、ほかの連中は自分の“重要な仕事”に集中できるのだ。
だったら別に、今日のところはそれでいい。
定時を十五分ほど過ぎたころ、営業推進部の島から真壁がこちらを見た。目が合うと、真壁は会釈をした。遼司も軽く顎を引く。あいつはあいつで今日もまだ少し疲れて見えたが、先週よりはましだった。たぶん、呼吸の仕方を少し覚えたのだろう。
自分が言ったことが効いたのかどうかは分からない。
別に、どちらでもよかった。
会社を出ると、空はもう暗くなりかけていた。
三月の夕方は、明るさを手放すときだけ妙にためらいがない。駅前のガラス張りのビルに、群青と灰色のあいだみたいな空が映っている。人の流れは途切れず、誰も彼も自分の帰る先を知っている顔で歩いていた。
遼司はコンビニに寄って、少し値段の高い缶ビールと、焼き鳥を二本買った。
贅沢というほどではない。
ただ、今日くらいは少しだけ、自分を雑に扱わないでおくか、と思っただけだ。
レジ袋を提げて店を出る。
冷たい風が頬を撫でた。
現実は、たぶんたいして変わらない。
来月も総務の仕事をして、誰かの昇進を見送り、母から電話が来て、上司は曖昧な言葉で現状維持を告げるだろう。そういう小さな敗北のようなものは、これからもいくらでもある。
それでも遼司は、自分をそこで終わった人間だとは思わない。
思わないための言葉を、まだ持っている。
上がったやつが偉いわけじゃない。
家庭を持ったやつが完成しているわけでもない。
今ここで数字や肩書きがついていないからといって、それで人間の格まで決まるわけがない。分かりやすい棚に収まっていないだけだ。むしろ、安易に収まっていないぶんだけ、まだこちらには余白がある。
余白は、敗北ではない。
少なくとも遼司は、その理屈で明日も起きられる。
踏切の向こう、電線に鴉が二羽とまっていた。夕方の残り火みたいな空を背にして、黒い輪郭だけがくっきり見える。鳴き声はしなかった。ただ、当たり前みたいな顔でそこにいる。
遼司は少しだけ口元をゆるめた。
まあ、いい。
今日もなんだかんだで回したのは自分だし、ああいう連中が明日も気持ちよく働けるように、見えないところを片づけている人間がいるのも事実なのだ。分かるやつにだけ分かればいい。いや、別に分からなくてもいい。
駅へ向かう人波に混じりながら、遼司は歩いた。
翌朝、遼司はいつも通りに起きた。
洗面台の鏡の前で髭を剃り、シャツに袖を通し、ネクタイを締める。特別な日ではない。何かが好転したわけでもない。だが、昨日の自分から今日の自分へ、ちゃんと続いている感覚だけはあった。
玄関で靴を履き、ドアを開ける。
まあ、今日も俺が回してやるか、と思う。
少しだけ尊大で、少しだけ滑稽で、けれどその言葉があるかぎり、彼はまだ自分を凡庸な敗者として確定しないでいられた。




