東京女子高等師範学校時代②
東京女子高等師範学校時代には、生徒の下校時は人力車の交通整理もしたという。明治42年(1909年)に退職。退職後も山川浩や高嶺秀夫とは親交は続いたと言う。
「いやぁね。雑用とは分かっていながらこの仕事を引き受けたのは、年の事だけじゃないのですよ。未来を担う若者や子供を師範(教育)する教師と言う仕事に大きく感銘を受けましてね。まるで私が教師になったかのような錯覚に陥ったのであります。」
と、藤田五郎は退職時に述べている。また、人力車整理にあたっていた事については、特別な思い入れは無く、手の空いている者がいなかったからと述べている。東京女子高等師範学校退職時点で既に65歳。流石の五郎も現役を退いた。
「よくやったよ。3人の息子と嫁さんを養い、体力の限界まで働いた。」
と、杉村は言う。
「流石の貴様も満足だろう?」
「あぁ…。最近昔の傷がやけに傷んでな。仕事どころじゃなかったんだ。」
「昔の傷?」
「西南戦争の時に受けた傷だよ。お前さんだって池田屋事件の時にボロボロになるまで戦ったじゃねーか?それと同じだよ。」
「お互いに悪運は強いみたいだな。」
「相当な。」
「雑用は楽しかったか?」
「まぁそれなりにな。」
「よく会計が出来たな?」
「そろばん位はじけるさ。」
「警視庁からの天下り先にしては随分畑違いだな。」
「山川先生や高嶺先生のおかげだな。まぁ、頭を使うか体を使うのかの違いだけだ。」
「杉村さんも私ももう後先短い。だからこれけらは一日一日を大切に生きると決めたんだ。」
「何もせずただ、ぼーっと生きているのもしゃくにさわる生き方だが。」
「杉村さんには沢山の教え子がいるじゃないですか?」
「まぁそれなりにな。」
「私には教え子はいません。」
「だからどうした?人の価値はそんな事で決まったりはしないだろ?」
「誠に死んでいった多くの同志の分もしっかりと生きる必要があると言う事です。」
「松前から戻ると貴様はいつも変わらん。まぁそれが良い所ではあるんだがな。」
「刀と誠に殉じた人生だ。それは死んでも変わらん。近藤さんや土方さんの2倍は生きた。その分彼等が見られなかった景色を見れたと思っている。」
「私もそう思います。局長や副長や沖田さんが得る事が出来なかった物を65年かけて学べたんだと思います。」
「あの頃は本当に楽しかった。」
「自分も若かったですが楽しかったです。」
「いや、若いとか若くないとかじゃねーんだよ。」
「いや、実際若かったじゃないですか?」
「そりゃあそうなんだけどよ。」
「皆でわいわい楽しく剣術を磨いてさ。風呂入って飯食って女は…いなかったか。笑」
「試衛館時代は本当に楽しかったです。」
「京都へ上洛してからは激動期だったからな。」
「まぁ、それは成り行き上仕方ないですね。」
「数少ない新選組の生き残りとしてやれる事は全部やって来た。」
「例えば?」
「息子に経験を語り継ぐ…とかだな。




