98 かえらないと知っていたとしても
爪先を蹴り、グレイペコーはハンマーを横薙ぎに振り抜く。
それを避けたジルバに向かって、フィスカスがナイフで切りつけようとするが、下方から顎を蹴り付けられた。
それでもフィスカスはどうにか堪えて、袖に隠していた細いナイフを二本投げつける。
が、ジルバはそれをわかっていたのだろう。薄く笑みを浮かべてナイフを叩き落とすと、フィスカスは舌打ちを零している。
ジルバの動きを見計らったグレイペコーは、ハンマーを大きく振り被ると、頭上から勢いよく叩き落とした。
周囲に砂煙が舞い、周囲の様子を確認している隙にハンマーの柄を掴まれ、そのまま強く引かれてしまう。
重心が崩れ、前のめりになったグレイペコーを、ジルバは足を払って転ばせると、頭を地面に押し付けた。
強く押さえ付ける腕は抗おうともびくともせず、頬が地面に擦れて、じり、と皮膚に痛みを走らせている。
フィスカスは直ぐに駆け寄ろうとしたものの、それを見逃さずにいたジルバが奪ったハンマーを勢いよく投げつけられ、勢いに負けて地面に吹き飛ばされていた。
途端にしんと静まり返った森の中、ゆっくりと周囲を見回したジルバは、くたびれたように息を吐き出している。
「……こんな事をして、一体何になるっていうの……!」
地面に頭を押し付けられながら、グレイペコーはジルバに向かってそう叫んだ。
彼は答える事なく、グレイペコーの長い三つ編みを掴んでいて。
そのまま上へと引き上げられれば反動で顎が上がり、苦しさから、呻き声が漏れる。
どうにか逃れようと手を伸ばせば、負傷していた脇腹を踏み付けられて、あまりの痛みに声にならない悲鳴が上がった。
痛みに足掻きながらもきつく睨みつければ、見下ろす曇天の色をした瞳と目が合った。
決して感情を映さない、昏い空の色。
「もう何をしたとしても、姫様はこの国と此処に住まう人々を呪い殺すまでは止まれない」
此処にいる者達にではなく、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、彼は言う。
「姫様はとてつもなく長い間、苦しんでこられたのだよ。私達と同じようにね。終わらせたいんだ、彼女も……私も」
確かに此方を見つめている筈なのに、全く相手の事など認識していないかのような彼の言動に、グレイペコーは引き攣れるような呼吸を繰り返した。
自分を憐れんだような言葉も、差し伸べようとした手も、きっと、彼にとっては、此処にはいない誰かと彼自身に向けて欲しかったもの、で、あって、向き合った人間に対してのものではないのだ、と知れてしまって、グレイペコーはぎりと奥歯を噛み締める。
「だからって、こんなの間違ってる……!」
湧き上がる気持ちのままに言葉にして吐き出せば、痛みか、それとも、悔しさからか、視界がじわと滲んでいた。
僅かでもわかり合おうと考えてすらいない、そんな選択肢はきっと、もう彼には残されていない。
幾ら言葉を投げかけても、きっと彼には届かないのだろう、と改めて思い知らされる。
そんな可能性を僅かでも考えていた自分の甘さに、悔しさと苦しさが胸底から迫り上がって来る。
息が詰まって上手く話せないのは分かっていても、言葉を止める事など出来ず、グレイペコーは震える喉で息を吸い込んだ。
「自分が救われる為に誰かを犠牲にしたって、結局、自分が傷付くだけ……! そんな事に何の意味があるっていうの!」
此処で止めなければ、彼は本当に止まれない。
自分が救われると信じて、全てを道連れにして、自分さえ消えるつもりなのだろう。
それが、本当に救いになんてなる筈がないのに。
そうでもしなければ報われない、と、自分を慰める為の言い訳にしかしていないというのに。
「っ、そうやっていつまでもこっちの言葉を聞く気がないのなら、最初から優しくするのも、力になるなんていい加減な言葉も言ったりしないで!!」
悲鳴を上げるようにそう叫べば、髪を引く力が一瞬だけ緩んだように感じて、グレイペコーはジルバに掴まれた髪を、ぐ、と引いた。
痛みに顔が歪むけれど、グレイペコーは歯を食い縛って必死に腕を伸ばして踠いた。
踏みつけられた脇腹に力が入り、息が詰まって、苦しくて堪らない。
それでも抗い顔を上げれば、滲んだ視界越しに、鈍い銀色の光が見えた。
自分に向けられた深い緑の眼が一度瞬き、そして再びジルバへと向けられるのを見て、グレイペコーは震える喉で思い切り空気を吸い込んだ。
「フィスカス!!」
グレイペコーの叫んだ声を合図にするように、フィスカスはジルバに向かって駆け出した。
握り締めているナイフを上から振り下ろしたフィスカスを見て、ジルバは小さく息を吐き出している。
グレイペコーの三つ編みを掴んだまま、ジルバは右側からフィスカスを蹴り付けるけれど、彼はそれを防御して、袖に仕込んでいた細いナイフをジルバへと投げつけた。
ジルバの頬をナイフが掠り、赤い雫が空にぽつと舞う。
それに僅かに顔を歪めたジルバは、ナイフを掴むフィスカスの手首を掴んで、ぎり、と締め上げた。
みし、と嫌な音を立てている手首に、フィスカスの表情は苦しげなものに変わり、手からナイフが滑り落ちる。
ジルバの口元には微かな笑みが浮かんだ、その瞬間。
フィスカスは手首を握り締めるジルバの手を、反対の手でがっしりと掴んだ。
「? 何をして──、」
フィスカスの意図が読めず、ジルバが僅かに困惑した様子で、それでも、その拘束を解こうと手を振り払おうとする。
フィスカスが持っていたナイフは、鈍い光を弾いてくるくると回転し、グレイペコーの目の前に落ち、しなやかな指先は、しっかりとそれを掴んで、いて。
は、と小さく息を吐き出す。
泣き出しそうな気持ちになるのは、どうしてなんだろう。
今までの自分自身が、否定されるような気持ちになるのは。
(……違う)
うっすらと水分の滲んだ視界には、鮮やかな青色が広がっている。
怖がりで甘えたがりで、守っていなければならないとばかり思っていた彼女の、その強い意思を示したような、あの髪色に、それは良く似て、いて。
(あの子と同じように自分で選んだんでしょう、全部、何もかも!)
グレイペコーは意を決してナイフをしっかりと掴み、ジルバに掴まれていた三つ編みを一気に切り裂いた。
まるで、自ら首を刎ね飛ばしたかのよう、な。
そして、全てが解き放たれたような、感覚。
切り落とされ、はらはらと解けていく髪を見て、ジルバの灰色の瞳は大きく瞬き、その動きは止まった。
彼が掴んでいた三つ編みは、ずるり重力に従って落ちていく。
その瞬間を逃さずに、グレイペコーは地面に手をつき、身体を捻って、呆然としているジルバの鳩尾にナイフの柄を思い切り叩きつけた。
勢いのままに後ろに倒れ、地面に転がるジルバを見て、グレイペコーは上下する胸を押さえながら、息を整える。
夜明けを思わせる淡い紫の長い髪は散らばり、やがて風に吹かれていく。
首筋はすうすうとして心許ないけれど、すっかり頭は軽い。
視界も、広くなった気がする。
「……やっぱり、ジルバは優しいんだね」
言いながら、グレイペコーはジルバを見た。
ジルバは荒い息を繰り返し、呆然とした顔で、鳩尾を押さえて蹲っている。
「この程度の事だって、そんなふうに傷付いた顔をしてる」
イヴルージュやフィスカスになら容赦をしないだろうが、アルティのように庇護の対象としている者には、彼は甘さが捨てきれない。
グレイペコーがイヴルージュを此処へ来させないよう説得したのは、その可能性が高いと踏んでいたからだ。
分かっていた事だけれど、やはりこうして納得出来てしまうと、無性にやるせない気持ちになる。
イヴのようになりたい、とグレイペコーが大切に髪を伸ばしていた事を、彼は知っている。
それが、グレイペコーにとって、どれだけの恐れと願いが込められていたのか、も。
捨てられないように、傷つかないように、強く在れるように。
そうして伸ばしていた髪だと、彼は知っているから。
泣き出しそうになりながら笑って、グレイペコーは軽く頭を振った。
それが、いつから重りになってしまったのだろう。
自分自身が変わらなければ、いつまで経っても、過去の自分が救われる事なんてないというのに。
「だけど、あなたはただ優しいだけ……、それって、自分がして欲しかった事を上辺で再現しているだけの、凄く残酷な事だよ」
呼吸を整えながら、グレイペコーはジルバの前に立った。
酷く咳き込んだジルバは、震える手で血が滲んだ口元を押さえている。
「あなたは優しいのに、本心ではいつまでもそうやってわかり合おうとしない。ただ自分の気持ちを押し付けて、他人を排除しているだけ」
あなたがしているのは優しい拒絶だ、と言ってしまえば、目の前がゆらりと揺れた。
鼻の奥がつんとして、視界は揺れて、呼吸が震える。
(……それでも、あなたのその優しさに救われていた事も、確かにあったのに)
そう、誰にするわけでもない言い訳じみた言葉を、口内に転がしてしまう。
グレイペコーは緩やかに頭を振ると、倒れた彼の目の前に、鈍く光を弾くナイフを向けた。
「降参して。その身体じゃあ、もう満足に戦えないのはわかっているでしょう?」
ジルバはグレイペコーを見る事なく、ただ地面を見つめて瞬きを繰り返し、そのうちに、観念したかのように目蓋を固く閉じている。
どれだけ向き合っても言葉ひとつ返ってこない事が、こんなにも悲しい事だとは思わなかった。
考えて、グレイペコーは静かに唇を噛み締めていた。




