99 そして、いつかの明日に導いて
二区に駐在している軍の兵士達が慌ただしく走り回り、調査を行なっている様子を眺めて、グレイペコーは小さく息を吐き出した。
イヴルージュが事前に手配をしていたようで、のんびりした雰囲気に包まれている筈の二区の伝言局では、いつもとは全く違う光景が広がっていた。
業務時間外ではあるものの、数人の局員は局内に残っていたらしく、兵士達の聞き取りに応じているが、今何が起こっているのか理解しきれていないのだろう。受け答えをする彼らは、皆揃って蒼白そうな顔をしている。
グレイペコーは戻ってすぐにアルティの事を聞き回ろうとしたが、彼女は既に連行されてしまった後のようで、その際も暴れるような真似はしなかったという。
それらの様子を伝えてくれたのはテッサで、グレイペコーと顔を合わせると気まずそうに肩を縮こませながらも、こんにちは、と頭を下げていた。
挨拶くらいはするように、と以前言った事をきちんと覚えているのだろう。
おまけに、
「え、と……、アルティ、たくさん、ごめんなさいした。怒るはしない、で、欲しい……」
などと必死に頼み込んでくるので、グレイペコーは深く長く溜息を零してしまったものだ。
フィスカスはそんなしょぼくれたテッサを見て、頭をガシガシと撫でている。
彼とヴァニラがテッサの面倒を見ているのは聞いてはいるが、普段どういったやり取りをしているかまでは、グレイペコーも知りはしない。
ただ、頭を撫でられたテッサが強張らせていた表情を緩めているので、信頼関係が芽生える程度にはしっかり接しているのだろう。
とはいえ、手放しで褒めるのはまだ難しいけれど、と考えながら、グレイペコーは小さく息を吐き出して、お疲れ様、と声を掛けた。
ぱあっと表情を明るくさせたテッサは、それはそれは嬉しそうな顔で何度も頷いている。
それが、いつも世話をしている狼達のように思えてきて、なんだかなあ、と苦笑いを浮かべると、乾いた咳の音が聞こえて、グレイペコーは赤眼を瞬かせて振り返った。
兵士達の隙間から、身体を折り曲げ、激しく咳き込んでいるジルバが見える。
手で覆った口元には赤黒い色が滲んでいて、それが先程の戦闘でのものでない事は、グレイペコーにもよく分かっていた。
抗体持ちは、大抵は年齢を追う毎に抗体値が下がっていく。
更に、彼は無理に森に入っていた事もあり、身体に大きな影響が出ていたのは間違いないだろう。
そもそも、そうした状態だからこそ、彼はここまでの事を引き起こしてしまったのかもしれない。
連行する兵士達は医師を呼ぶよう指示を出したり、慌てた様子でジルバを取り囲んでいて、それをじっと見つめていたグレイペコーは、ポケットの中に入っていたものに手を触れて、ぎゅうと握り締めた。
ほんのりとあたたかさを感じる気がするのは、リグレットがその身を傷付けてでも手渡してくれたもの、だからなのだろうか。
グレイペコーは顔を上げると、大柄な兵士達に囲まれたジルバの元へと躊躇なく近付いた。
「君、此方へは近付かないように」
制止する兵士達に向かってにこりと笑いかければ、揃ってぽかんと間の抜けた顔をしているので、グレイペコーはその隙を狙って、指先でジルバの鼻を摘んだ。
突然の事に驚いているらしいジルバは、思わずぱかりと口が開いている。
その瞬間を逃さないよう、グレイペコーは手早く口の中に薬を放り込む。
「おいおい、年寄りなんだからもっと優しく飲ませてやれよ」
後ろから呆れたように言うフィスカスに、グレイペコーは空になった瓶を投げつけた。
「うるさい。だったら君がやればいいでしょ」
「俺だったら絶対ぶっ飛ばされるから無理だって」
「だろうね。ボクだってそうする」
容赦ない返事にフィスカスは肩を竦めているけれど、軽口を聞き入れるつもりは一切ない。
グレイペコーは薬を吐き出させないよう、ジルバの口を手でそっと塞いだ。
「ちゃんと飲んで。リグレットがあんな無理をしてまで用意してくれたものなんだから」
家族としてずっと一緒に過ごしてきたから、薬に必要な血液を採る際、リグレットがどれだけ怖い思いをしているのかは、グレイペコーもよくわかっている。
彼女の身体に、どれだけ負荷が掛かっているのか、も。
髪の色があれ程に変化していたのだ、身体の負担も前回の比ではないだろう。
それでも、リグレットはこうした時、自分を犠牲にする事を厭わない子だ。
否、彼女は犠牲だなんて思ってないだろう。
彼女がそういう性質だというのは、グレイペコーは勿論、周囲の人間達は皆わかっている。
リグレットは、誰かが傷つく顔を見るのが一番辛いと言う子だ、という事を。
その為に、自分の出来る事をしているだけだ、と。
ジルバが裏切っていた事、彼がブルーブロッサムの毒素で身体を悪くしていた事を、リグレットはおそらく、ノルを通じて知ったのだろう。
そして、それらの事実に、グレイペコーがどれだけ苦しむか、という事も。
このまま放っておけば、確実にジルバはノルと同じように苦しんで、死に至る可能性が高い。
グレイペコーがその事を深く考えないようにしようとしていたのだと気付いたのは、リグレットに薬を手渡されてからだ。
そうしなければ気持ちが揺らいでしまう、と無意識に思っていたのだろう。
だからこそ、リグレットはグレイペコーが迷わずにいられるよう、薬を渡してくれたに違いない。
大事な居場所にいてくれる人達は、いつだって、こんな自分の事を考えて、背中を押してくれる。
ちゃんと前を向いていられるように、いつだって。
こくり、とジルバの喉が動いた事を確認すると、グレイペコーはほっと息を吐き出して、手を離した。
それまでぽかんと見つめていた兵士達は、慌ててグレイペコーの行動を非難するかのように問い詰めてくる。
「お、おい! 一体何をしたんだ」
「薬を飲ませただけ。この人、病人だから」
文句があるなら伝言局の局長へどうぞ、と冷ややかに言えば、屈強な兵士達は揃って顔を青くして、怯えた犬のように肩を縮こませている。
こうした時にはありがたいけれど、本当に何をやらかしたんだ、あの人は。
グレイペコーが呆れながら溜息を零すと、ジルバが胸元を押さえて、訝しげに眉を顰めている。
「ジルバ」
名前を呼んでも、彼は顔を合わせる事も、視線を向ける事もない。
血で濡れた手のひらで触れた制服には、べっとりと赤黒い跡がついていて、痛々しい。
「ボクは貴方が思うよりずっと弱くはないし、もう簡単に傷付くような子供でもない」
一度言葉を切って、グレイペコーはぎゅうと手のひらを握り締める。
「アルティだって、きっとそうだよ」
その言葉に、ジルバは緩やかに瞬きを繰り返しながら地面を見つめていた。
「あの子はとても優しい子だよ。きっと、ジルバの事を信じていたから……信じていたかったから、あんなふうに必死に守ろうとしていたんじゃないの」
震える睫毛の先の、曇天にも似た瞳が、僅かに揺らいでいる。
「だから、今度はあなたが信じてあげてよ。あの子の優しさを、信じてあげて。
そうしたら、いつか……、あなたがずっと許せなかったものを手放せる日が、来るかもしれないから」
自分がイヴルージュやリグレットに救われたように。
今度は、大事なものを見失わないように。
そうしていれば、もしかしたら──。
唇を噛み締めて、グレイペコーが視線を俯かせると、乾いた咳を零す音がした。
顔を上げれば、ずっと逸らされ続けていた灰色の瞳が、しっかりとグレイペコーを見つめている。
いつもの優しく穏やかではない、けれど、静かな笑みを浮かべたジルバは、他の誰にも気付かれないよう、唇を動かし、微かな声で何かを呟いた。
グレイペコーはその言葉をしっかりと聞き取ると、小さく頷く。
目の前がぐらぐらと揺れている。
吸い込んだ息が、震えている。
「さようなら、ジルバ」
兵士達に促され、彼はゆっくりと歩き出した。
遠ざかる背中に向かって呟くと、グレイペコーは緩やかに目を閉じて、両手を白くなるまで握り締めていた。




