75 あなたに降る雨はやさしいですか
一面に広がる鮮やかな青を覆うように、真っ白な毒の霧が視界いっぱいに漂っている。
空からはらはらと落ちる花弁が顔の側を掠めていくのを眺めていたリグレットは、視線を下ろすと、一際大きな桜の木に身体を預けてしゃがみ込んだ。
この景色が夢の中だと認識しているのは、同じ夢ばかり見続けていたから。
大きな桜の木の根元で泣き続けていた少女が自分なのだというのもリグレットは理解しているけれど、その視点とは別に、周囲の景色を把握しているようで、いつしか辺りをぐるりと見回せるようになってしまっていた。
大きく手を広げるように四方に伸びた枝や幹がはっきりとした白色なのは、この場所が森の中央である証拠だろう。
青と白、二つの色彩で満たされた森の中は、不思議と恐れる事も怯える事もない、ただ、そっと安心するような、何かに見守られているような心地よさだけがあった。
そうして暫く景色を眺めていると、ふと桜の木の影に見慣れない何かが映っているのに気がついて、立ち上がったリグレットは桜の木の裏側を覗き見た。
ぼんやりとしてはっきりしないその場所に目を凝らして見てみれば、奥に大きな建造物が佇んでいる。
横に二本、その両端には縦に一本ずつ、青く塗られた木を組み合わせて出来た門のようなものが、大きな桜の木の周囲に幾つも幾つも並んでいる。
見慣れないものだけれど、何故だか厳かで神聖ささえ思わされる、そんな雰囲気を感じられ、呆然とそれを眺めていると、遠くで、ちりん、と不思議な音が響いていた。
(……気のせい、だよね?)
だんだん夢が鮮明になってきてる気がして、リグレットは思わずぎゅうと眼を瞑った。
夢と記憶が混ざり合って、本当が何なのか、分からなくなっていく。
怖いというわけではないけれど、このまま意識を保っていられなくなったら地面に引き摺り込まれていきそうで、少しだけ不安にはなってくる。
(もし、これが夢じゃないとしたら)
考えて、リグレットは胸元を握り締める。
そうだとしたら、あの少女は今、どうしているのだろう。
ずっとあの森の中で、一人きりでいるのだろうか。
せめて、淋しい思いをしていないといいのだけれど、と祈るような気持ちで、リグレットはそっと目を開いた。
カーテンの隙間からは陽光が細く入り込んでいて、自室の中へ朝の訪れが来た事を知らせてくれている。
ゆっくりと瞬きを繰り返した目蓋の淵から流れた涙は、輪郭をなぞるように頬を伝って、シーツの上へと落ちていた。
***
「ねえ、森の中央の方に、すっごく大きくて、背の高い門みたいなものって見た事ない?」
グレイペコーとノルの三人で昼食を摂った後の中庭は日当たりが良くて、ふわふわと眠気がやってきてしまう。
ブラッシングをしていたキナコの背中を撫でていたリグレットは、その柔らかな毛並みの心地よさに、思わず頬を擦り寄せた。
普段ならば寝起きがいいけれど、変な夢をたて続けに見ているせいか、ここ最近のリグレットはベッドから起き上がるまで随分な時間をかけてしまう。
目眩などは起きていないけれど、血液を多く採った影響なのだろうか……。グラウカに診て貰っている限りでは、問題はないようなのだけれど。
グレイペコーは狼達の健康状態を確かめているようで、ミゾレに口を開けるよう指示を出して歯の様子を見ていたが、確認が済むとご褒美の餌をあげながら、不思議そうに首を傾げている。
「どうしたの、急に」
「え? あ、えーっと、そんなのがあったら面白いかなあ、って」
えへへ、とリグレットは笑って誤魔化そうとするけれど、二人にはすぐ気付かれてしまいそうで、慌ててキナコの背中に顔を押し付けた。
流石に夢でそんなものを見た、などと言った日には、血を採った影響で体調が悪化しているのではないか、と心配されかねない。
ぎゅうと抱き締めたキナコのふわふわの毛並みからは、独特の獣臭さと草花の青々とした匂いがしていて、リグレットが鼻先を擦り寄せるとキナコは不満げにふすふすと鼻を鳴らしている。
見かねたノルがリグレットをキナコから引き剥がしていると、グレイペコーは口元に手を当てて小さく息を吐き出していた。
「門みたいなもの、だっけ? ボクは見た事も聞いた事もないけれど……」
グレイペコーに視線を向けられ、ノルも首を捻っている。
「いや……、俺もないな」
ノルに言ったならきっと鼻で笑われるだろうとばかり思っていたのに、とリグレットは思わずじっと彼を見つめてしまった。
あの騒動からノルは随分調子がいいようで、薬の量も大分少なくなったようだと聞いている。
自分の血液を使った薬が、彼の助けになっているのかもしれない。
そう考えると、何だかくすぐったいような気持ちになって、リグレットは思わず小さく笑みを浮かべた。
そんな時、不意に金色の眼を向けられて、リグレットは慌てて顔を背けた。
少し前に彼と話をした際、泣き疲れて回収されるまで大泣きしてしまった事を思い出してしまい、羞恥で顔に熱が集まってきてしまう。
それに、あれ以来、何でかわからないけれど、ずっと優しい気がするし……。
熱の引かない頬を押さえていると、頭にぽんと柔らかな重みが降ってくる。
顔を上げればノルが頭を撫でてくれていて、嬉しいのと恥ずかしいのとで、リグレットはますます顔が赤くなってしまっていた。
何とかしてそれを誤魔化したくて、つい頬を膨らませていると、「何で怒っているんだ」とノルは顔を顰めている。
「にしても、森の中の妙な構造物、か……」
ノルは腕を組んで暫し考え込むと立ち上がり、中庭の入り口へと足を向けた。
「局長に聞いてみよう」
「え?」
「そうだね。なんか気になるし」
「えっ? 待って、ペコーまで?」
何故かグレイペコーまでノルに付いて行こうとしているので、リグレットは慌てふためくけれど、二人は互いに何か察したらしい。頷き合うと、さっさと動き出してしまう。
「そ、そんな大事にしなくてもいいのに……」
キナコ、ミゾレ、どうしよう?
問いかけに、二匹の狼達は尻尾をぱたぱたと振りながら、くうん? と鳴いて不思議そうに首を傾げていた。
*
二人の後を追いかけて行った先の局長室では、イヴルージュはうんざりした顔で書類に目を通したり、ぞんざいにサインをしたりしていた。
シノワズリ調の調度品が置かれた室内は荒れ果てていて、見かねたグレイペコーが端の方に放られている書類や衣服などを手早く片付けている。
「構造物ぅ? 森の中でそんなものがあるなんて報告はないがなあ」
それ見た事か、とリグレットは側にいるノルへ視線を向けたが、彼は顔を前に向けたままぽんぽんと頭を撫でていた。
平然とした顔で宥めてくるのが不満だけれど、頭を優しく撫でられるのはやはり嬉しく感じてしまい、リグレットはむうと口先を尖らせる。
書類の束から顔を上げたイヴルージュは、大きく息を吐き出すと手にしていたペンを置き、腕を組んで背凭れに身体を預けてことりと頭を傾けた。
「あー……、ただ、その門みたいなやつっていうのは確か、鳥居、とかいうやつじゃないか?」
「トリイ?」
この国が建国してまもなくの頃にあった宗教の名残で、神が住む場所へと続く門、とか言ったかなあ、とイヴルージュは曖昧な記憶を探っているのか、顔を顰めている。
ある程度部屋の隅を片付け終えたグレイペコーは、それを聞いて、腰に手を当てながら大きく息を吐き出した。
「何だか胡散臭い話だね」
「宗教なんざどれもこれも胡散臭いもんだろ」
「まあ、それはそうだけど」
神様なんかにお祈りする時間があるなら、こうして掃除でもしていた方が気持ちもすっきりするし、目の前も綺麗になるもの。
呆れたようにグレイペコーが言えば、お前らしいな、とイヴルージュはからからと笑っている。
「しかし、よく知っていたな」
そう言われて、どうにも返事に詰まってしまったリグレットはへらりと笑っておく事しか出来ない。
下手に言い訳をしたら以前森の中央付近まで行っていた事がバレてしまいかねないし、髪が青くなってしまった事で心配をかけている今、これ以上に皆に迷惑をかけたくはないのだし。
「確か、城の裏手にも小さなものがある筈だぞ」
「そうなの?」
イヴルージュの言葉を聞き、リグレットは青眼を大きく瞬かせた。
ただの夢でしかないと思っていたけれど、意外な所で現実と繋がりがあったと知れて、胸底が騒めくように鼓動が早まる。
それがもし彼女に関連するものなら、何か手掛かりが掴めるだろうか。
リグレットの戸惑いに気付いたのか、イヴルージュは赤眼を柔らかく細めると、ことりと頭を傾けている。
「気になるなら、シュレルジーナ様にお伺いしてみるか?」
あれからお前に会いたいって何度か催促が来てるんだ、と言って机の中を引っ掻き回したイヴルージュが取り出したのは、綺麗な青い封筒だ。
一つ二つどころではない封筒の束を見るに、相当催促があったようだけれど、この様子では何とか言い訳を拵えて躱しているのだろう。
森の中の少女の手掛かりを得られるなら仕方がないのかもしれないが、以前強制的に城へと連れて行かれた経緯もあり、自ら進んで行きたい場所ではない。
リグレットは助けを求めてグレイペコーとノルの顔を見上げる。が、二人は何か嫌な予感を察知したのか、ぱっと顔を背けている。
「ペコーも一緒に、」
「行かないよ?」
「ノルは、」
「行くわけないだろう」
もう、少しくらい悩んだりしてくれたっていいのに! とリグレットはわあわあと抗議をするけれど、二人は決して視線を合わせようとしない。
流石に一緒に城へ行ってくれと言って共に行動してくれる人物などそうそういないのだろうが、それにしたって、にべもなく断らなくともいいだろうに、とリグレットは頬を膨らませた。
「で、どうする?」
ことりと首を傾けて、イヴルージュは手に持った封筒の束をひらひらと左右に振っている。
流石に彼女が同伴してくれるのだろうが、どうにも城へ足を向けるという状況は出来る限り避けたい、というのがリグレットの素直な気持ちだ。
しかし、目の前にある手掛かりをみすみす手放すのか、と問われると困ってしまう。
「ちょっと、考えさせて……」
がっくりと項垂れたリグレットを慰めるように、左右にいる二人の手のひらが交互にぽんぽんと頭を撫でてくれていた。




