71 それでも願わずにいられなかったの
ノルが呼んでいるから、と言われて、医務室のすぐ隣、小さな部屋の扉をリグレットが開けると、ノルは上体を起こしてクッションとベッドヘッドに背中を預けていた。
カーテンが開け放たれた室内は明るく、窓際には眩しい光が零れている。
ベッドにいるノルは、顔色は良くなってきたようだけれど、その表情は何処か強張っているように、リグレットには見えた。
「ノル、身体はもう大丈夫? どっか痛い所ない?」
思わずベッドの側に駆け寄って顔を覗き込むと、ノルは金色の瞳を僅かに揺らしてリグレットを見つめ返した後、すっと逸らしてしまう。
ただの偶然だったのかもしれない、と昨日まで押さえ込んでいた不安が、再び胸の内で膨れ上がってくるのが分かって、リグレットはぎゅうと胸元を握り締めた。
「問題ない」
素っ気ない返事に、そっか、としょぼくれた気持ちで返事をしたリグレットは、暫く視線をうろつかせていたけれど、どうしようもなくなって、ベッド脇に置かれた小さな椅子を引いて、腰掛けた。
室内はしんと静まり返り、沈黙が部屋の中をどんどん圧迫していきそうに感じられてしまう。
ノルが一向に口を開こうとしないので、リグレットは髪に触れたりスカートの裾を直したり、と落ち着かずにいたけれど、ちらと見たノルが押し黙っているので、意を決して話しかけた。
「え、と……なんか、話があるって聞いたけど……?」
血を採った後、グレイペコーに吐露した不安を不意に思い出し、リグレットは膝の上に置いた手のひらをぎゅうと握り締めた。
自分のした事が、彼にとってただの迷惑だったら、と思うと、胸底がじくじくと痛んで苦しくなってくる。
「どうして、俺を助けたんだ?」
全て聞いたんだろう、と、感情の伴わない静かな声音で言われて、リグレットは思わず唇を引き結んだ。
例の薬については折を見て話すとイヴルージュは言っていたけれど、もう話をしたのだろうか。
リグレットは一度口を開きかけて、止めると、震える息を吐き出した。
自分自身が責められるなら、とてつもなく悲しいけれどまだいい、とリグレットは思う。
だけれど、自分の言葉一つ一つが、彼を傷付けてしまわないか、そう考えてしまうと、指先が震えて、目の奥が熱くなってくるのだ。
「ノルが、いなくなっちゃう、って、思ったから」
リグレットがそう言うと、ノルは緩やかに瞬きを繰り返してから、眉を顰めた。
「それだけで?」
掠れた声で呟かれた言葉は、理解出来ないという彼の気持ちが如実に現れているかのようだった。
それは、彼自身が救われる事を望んでいなかった、とも感じられて、リグレットはみるみる悲しい気持ちになってしまう。
リグレットの言葉は、本心からの言葉だった。
以前、メッセージカードを届けた際に聞いた、命の終わりに響く呼吸の音と、医務室で聞いた、何本もの管に繋がれ、酸素を求めて無理に息を吸い込もうとするノルの呼吸の音は、とてもよく似ていた。
あのままにしておいたら、きっとノルはいなくなってしまう。
それがわかっていたからこそ、イヴルージュは過去について全てを話したのだし、自分は血を採る事を決めたのだ、と、リグレットは緊張から冷たくなってきた指先を強く握り込んだ。
「……あの薬が、お前の父親の命を奪った原因でもあるのに?」
僅かに視線を持ち上げて見たノルは、顔を俯かせたまま、唇を噛み締めていた。
前髪で隠れて、その表情は上手く読み取れない。
けれど、きっと、彼もイヴルージュと同じように、追い詰められているような顔をしているのだろう事は、リグレットには理解出来ていた。
「前にも言ったけど、私、自分の命を粗末にしてるとかじゃないよ」
そう前置きをして、顔を上げたリグレットは大きく深呼吸をする。
「お父さんはもういないし、お父さんの気持ちはわからない。だけど、お父さんがした事は残ってる。ノルがここにいるのは、お父さんやお母さんがノルの事を助けたかったから、って、私は思ってるよ」
言いながら、目の奥がじわじわと熱くなって水分が滲んでいくのを感じて、リグレットはそれを振り払うように、手をぎゅうと握り締める。
繰り返し読み返した母親の手紙には、『あなたの側にいる子を助けてあげて』と書いてあった。
あれは、間違いなくノルの事だったのだろう、とリグレットは思う。
そして、『それが出来るのはあなただけだから』と付け足されていた言葉は、ただの偶然かもしれないけれど、ノルを助けたいと思っている自分の背中を押してくれる為の言葉だったのかもしれない、と、思うのだ。
「お母さんだって、手紙でノルを助けてって言ってた。もしノルの事を恨んでたら、そんな事言わないよ」
震える息を吐き出して、リグレットはそっとノルを覗き見た。
「私はノルがいなくなったら嫌だよ。だから、ノルを助けたいと思ったんだもん」
それじゃ、ダメなの?
問いかけても、彼は少しもリグレットの方を見ようとはしなかった。
自分の思いや言葉だけでは、彼を納得させる事も、受け入れて貰う事はできないのだろうか。
リグレットはすんと鼻を鳴らして、悔しいのか悲しいのか、ごちゃごちゃになった気持ちに耐えきれなくて、膝の上に置いていた手のひらで、スカートの裾を強く握り締めてしまう。
皺になったスカートはくしゃくしゃでみっともなくて、まるで今の自分みたいだ。
それでも、どうしよう、何か、何か言わなくちゃ、とリグレットが焦って口を開いては閉じるを繰り返していると、ノルが掠れた声で、ぽつぽつと言葉を零している。
「これは、俺が勝手にやった事だ。それに、ネムの事だって、お前まで巻き込んで……」
言いながら、彼は握り締めた手のひらに力を込めていて、ただでさえガーゼや包帯が巻かれた指先は、血が滲んでしまいそうで、リグレットは思わず首を振った。
「ネムさん、ノルの事を大事な家族だって私に言ってたよ。もしかしたら、何か事情があったかもしれないでしょう?」
「流石にそれは、何でもかんでも都合よく考え過ぎだろう……」
少し呆れたような口調で言われて、それがいつもの調子に似ていたので、リグレットは少しばかりほっとして、喉の奥に詰まっていた息を吐き出した。
「そうかな? でも、ノルが後ろ向きに考えすぎだから、ちょうどいいと思うけどなあ」
ノルが落ち込んでたら私が励ましてあげられるし、と少し茶化したように顔を覗き込んで言えば、彼は顔を俯かせたまま、握り締めた自分の手をじっと見つめている。
「ノルは私が落ち込んでる時、ちょっとだけいつもより優しくしてくれるでしょう? それに、ペコーと一緒に私の事を助けに来てくれた。私がしたのは、それと一緒だよ」
約束をしてくれないけれど、ぞんざいに頭を撫でてくれた。
突き放すような言葉を言っても、ほんの少しだけでもその内側に入れてくれた。
何より、あれだけ冷たい眼を向けていた森に入る事も厭わずに、自分を助けてくれた。
その一つ一つが、リグレットには嬉しかったし、大切なものだ。
「どうしてお前は、そう……」
呆れたように溜息を吐き出して顔を上げたノルの、金色の眼が大きく瞬いて、動きが止まっていた。
不思議に思ったリグレットが首を傾けようとすると、ぽた、と、透明な水玉が膝の上に落ちている。
「……リグレット、」
「え、あれ……? ご、ごめ……、違う、違うの」
言いながら、何が違うのかもわからずに、リグレットは慌てて俯きながら、口元を両手で押さえた。
自分は泣いているのだ、と理解して仕舞えば、目の前が一気に水分が広がっていって、視界が歪む。
次から次へと、堪えきれなくなったように、涙が落ちていく。
リグレット、と、名前を呼ばれているのはわかっていたけれど、これまで我慢していた気持ちがどんどんあふれてきてしまって、止められなかった。
「私のわがまま、で、ごめん、ごめんね、ごめんなさい」
ぼろぼろと涙を零しながら、リグレットはずっと彼にそう謝り続けてしまう。
ノルがいなくなってしまうと思った時、もう二度と、彼の言葉も、温度も、想いも、大切に思っているもの全てが消えていってしまうようで、怖くて怖くて、堪らなかった。
思い出すだけで、身体が震え出してしまう程に。
生きていないと、この気持ちは届けられないし、届けてもらえない。
でも、それがどれだけ彼を傷つけているのか。それを考えると、自分のした事がただのわがままではないかと思わずにいられなかった。
「どうして、お前が謝る必要が……」
戸惑ったノルの声が聞こえたけれど、リグレットは子供のようにしゃくりあげて泣いてしまう。
零れ落ちた涙がベッドのシーツを濡らして、歪な模様を描いている。
其処へ顔を埋めるようにして、リグレットは嗚咽を抑えて、震える唇をどうにかこじ開けた。
「私、ノルがいなくなっちゃうのは、いやだよ」
どんな誰にだって、いつか、さよならを言う時が来ると知っている。
それでも、願わずにはいられなかった。
「お願いだから、いなくならないで。此処に、一緒にいてよ」
お願い、と、みっともなく泣きながら、リグレットは懇願する。
今日も、明日も、出来るならどうか、もっとずっと遠くまで、その日が来るのを遅らせて欲しい。
そう願う事を、許して欲しい。
ごめんなさい、と、お願い、を何度も繰り返して、ぐちゃぐちゃになった気持ちで、もう何が何なのか、わからなくなる程に、リグレットは泣いていた。
このまま、涙ごと、自分も消えていってしまいたい。
ぼんやりとそんな事を考えていた時、頭の上から、掠れた声が降ってくる。
「リグレット」
名前を呼ばれているのは分かっていたけれど、どうしてもみっともない自分を見られたくなくてリグレットはますますシーツに顔を押し付けてしまう。
何度か名前を呼ばれて、それが、少しいつもの彼とも、先程の彼とも違う、何故だか悲しそうな声だったので、リグレットはしゃくりあげながら暫し考え込んで、それから、のろのろと顔を上げた。
次から次へと涙があふれて、滲んだ視界では、ノルの顔がぼやけて上手く見えない。
悪かった、と言われて、リグレットは泣きじゃくりながら、子供のように首を振る。
違う、そんな事を言われたかったんじゃない、謝って欲しいわけでも、ない。
これは、どうしようもなく、自分のわがままだ。
だけど、そうだとしても、ただ、彼がここにいてくれれば。
それだけで、良かった。
乾いた手のひらがリグレットの濡れた頰を撫でて、そのまま頭を抱えるようにして、ノルの胸元に押し付けられた。
生きている音が聞こえている。生きている温度が伝わってくる。
「助けてくれて、ありがとう」
周囲の音が全くしないような中で、彼の言葉ははっきりとリグレットの耳に届いた。
震える指先で彼の背中に手を伸ばすと、優しく頭を撫でてくれる感触がして、いて。
それは、独りよがりの自分の思いを、受け止めてくれたようで。
熱い涙がまた、目蓋の淵から零れ落ちていた。




