70 星明かりをよくかき混ぜて
「うーん……」
風呂上がりにタオルで濡れた髪を拭きながら、リグレットは頬にかかった自分の髪を指先で摘んだ。
薄紅色の髪に、筋のような青い髪がまばらに混じっている。
自分では毛先しか見えないから、とグレイペコーやイヴルージュに確認して貰うと、青くなった部分は根元までしっかりと変化しているという。
今日一日はなるべく人前に出ないよう気をつけて、どうしても人が多い所に出る時はフードを被って誤魔化していたけれど、いつどうなるかわからなかったので、リグレットは終始ひやひやしてしていたものだ。
タオルを洗濯カゴに放り込み、溜息を吐きながら白いネグリジェの裾を揺らして自室に戻る手前、リビングからカップを片手に出てくるグレイペコーは、リグレットを見るなり不思議そうに首を傾げている。
グレイペコーは普段、男性的なデザインで身体のラインがはっきり出る服をよく着用しているけれど、家にいる間は気が緩まるからか、大きいサイズのだぼっとした服を着ている事が多い。
髪もサイドに緩くまとめて白いリボンで結んでいて、手にしているカップからは、ふわりと優しい香りがしていた。
「リグレット、どうかした?」
「ペコー……」
リグレットがしょんぼりした顔でとことこと近づくと、グレイペコーは察しがついたのだろう、苦笑いを浮かべて額を骨に沿って撫でてくれている。
「リグレットも飲む?」
そう言って目の前に差し出し見せてくれたのは、まろやかな優しい香りのするあたたかなミルクティーだ。
こくりと頷くと、グレイペコーはすぐに同じものを用意するからとキッチンに戻るので、リグレットはリビングにある出窓の前、張り出し部分に設置された収納付きのベンチに腰掛けながらそれを待った。
其処には家族それぞれが気に入って買ってきた、柄も色も統一されていないクッションがいくつも置かれていて、日当たりがいいので日向ぼっこをしたりだとか、のんびりしたい時に家族が集まってくる場所になっている。
淡い青緑色のカーテンはしっかりと閉じられていて、リグレットは側に置いてある赤地に金の刺繍が入ったクッションを引き寄せると、膝の上に置いて抱えた。
白い糸で幾何学模様の刺繍が施されているカーテンをそっと捲ると外は真っ暗で、硝子窓は光を反射し、室内にいるリグレットの姿をうっすらと映し出している。
「髪、やっぱり気になる?」
後ろから声がかかり、リグレットが振り返れば、グレイペコーがあたたかいカップを差し出していた。
小さく頷いたリグレットはカーテンから手を離し、カップを受け取ると、ふうふうと湯気の立つカップに息を吹きかける。
火傷しないよう注意深く一口飲み込めば、優しい紅茶の香りとほんのりとした甘み、ミルクのまろやかさが口の中にいっぱいに広がって、唇から、ほう、と息が漏れていた。
「このまま全部青くなっちゃったりしないかなあ、って」
リグレットは言いながら、カップを握る手に力を込める。
この薄紅色の髪は母親とよく似た色だ、とイヴルージュからは聞いている。
ささやかなものなのかもしれないけれど、リグレットにとっては家族との大切な繋がりの一つだ。
勿論、青は父親との繋がりのある色で、リグレットが好きな色でもあるけれど、この先全ての髪が青くなってしまったら、と考えて不安になってしまうのは仕方がないだろう。
向かいに座るグレイペコーは、どうだろうね、と心配そうに眉を下げている。
「その色って、王族の人達と同じ色なんだよね」
「うん。だから、多分、お父さんもそうだと思う」
以前城で会った子供達の髪色は、確かに自分の変化した髪と似た色をしていた。それこそが王族である証だという事は、実際彼らと対面したリグレットもよく理解している。
グレイペコーは、突然だったから不安かもしれないけど、と言い、少しだけ首を傾けて、柔らかく眼を細めている。
「もしかしたら、リグレットのお父さんとお母さんの二人の血が、リグレットを守ってくれているのかもしれないよ」
たくさん血を採って身体が弱っている状態だろうし、と言われて、リグレットは頰にかかった髪を手に取った。
言われてみれば、普段なら朝目覚めた時すぐに活動出来るリグレットも、ここ数日は起き上がるまでに随分な時間を要している。
目眩が酷くて、身体を起こす事さえ辛い時があるのだ。
朝にあまり強くないはずのグレイペコーが代わりに動いてくれていて、リグレットは申し訳なさを感じていたけれど、それだけ身体に負担がかかっているだろうから、と言われて、ここ数日は甘えさせて貰っている。
だから、もしグレイペコーの言う通り、この変化が両親から与えられたお守りのようなものであったのなら、それはとても心強くて、嬉しいものに違いない。
「うん、そうだったらいいな」
リグレットが頰を緩めてそう言うと、グレイペコーは吐息混じりに笑って、手に持っていたカップを置き、そっとリグレットの頭を撫でた。
乾いたばかりの髪がさらさらと揺れて、それを見たグレイペコーが「髪の毛まとめてあげようか」と言うので、リグレットはぱっと顔を上げて頷いた。
幼い頃からグレイペコーやイヴルージュに髪を整えて貰う事が多かったせいか、髪を短くしてからそうした機会がなくなって、少しばかり淋しく感じていたのだ。
グレイペコーは共用の白いドレッサーからヘアオイルと柔らかなブラシ、それから白いリボンを持って窓際に戻ると、リグレットに背を向けるよう促した。
「そういえば、リグレットも結構髪が伸びてきたね」
また伸ばすの、と聞かれて、リグレットは小さく頷きながら、カップの縁に唇を押し付けた。
グレイペコーがつけてくれるヘアオイルの甘い香りがして、ゆっくり髪を梳いてくれる感触は、とても心地いい。
リグレットはふわふわとした気持ちになって、ふふ、と吐息混じりに笑ってしまう。
幼い頃から腰近くまで伸ばしていた髪を肩の辺りで切り揃えたのは、伝言局に入る直前だ。
今では大分伸びて、胸元に近くなってきている。
「あのね、ペコーと同じくらいにしたいんだ」
言いながら、リグレットは気恥ずかしくなってしまって、カップを置き、クッションを抱えたまま膝を引き寄せた。
グレイペコーはリグレットの顔を覗き込むと、嬉しそうに赤い瞳を細めている。
「なあに、もしかしてお揃いにしたいの?」
「うん」
かわいい甘えんぼさん、と言って、グレイペコーがぎゅうぎゅうと抱き締めてくるので、リグレットは思わず笑顔を零してしまっていた。
子供の頃はリグレットの方がずっと長く伸ばしていたけれど、最近では逆に、グレイペコーの方が腰辺りまで綺麗に伸ばしている。
「ペコーもすごく長くなったよね」
「うん。イヴみたいに綺麗に伸ばしてみたかったから」
内緒にしていてね、と言われて、リグレットはそれを知った時のイヴルージュを想像してしまう。
「マザー、喜ぶと思うけどなあ」
「だーめ。あの人、絶対に調子に乗るから」
グレイペコーの言う通り、イヴルージュがそれを知ったなら、一日中あちこちで跳ね回って喜んでいるに違いない。
リグレットがくすくすと笑い声を立てて笑うと、肩越しに同じように響く声が聞こえてくる。
緩く三つ編みにした髪を白いリボンで結ぶと、かわいいかわいい、とグレイペコーは満足げに笑っていた。
室内はランプで照らされ、柔らかな黄金色の光が広がっていて、とてもあたたかだ。
けれど。
「ノル、大丈夫かな……」
昼間に話をした際、目を逸らされてしまった事を思い出して、リグレットはネグリジェの裾を握り締めた。
湯冷めしてしまったのか、見下ろした素足はすっかり冷たくなってしまって、指先がほんのりと赤くなっている。
「まだ目が覚めたばかりだからね。少しずつ良くなってくるよ」
大丈夫、と言われて、リグレットは小さく頷いた。
「リグレットも無理しないように、ゆっくり休まないとね」
「うん」
グレイペコーがヘアブラシなどを片付けているのを見つめていたリグレットは、もう一度カーテンを開けて外を見てみるけれど、其処には暗闇が広がるばかりで、硝子に映るのは、淋しそうな、情けない顔をした自分だけだ。
此処はこんなにも柔らかであたたかな光で満ちているのに、と考えて、リグレットはそっとカーテンから手を離していた。
***
夜の伝言局は、昼間の騒がしさなどまるでなかったかのように静けさで満ちている。
窓の外には真っ暗な景色が広がるばかりで、先を見通す事すら出来そうにない。
部屋の中はぼんやりとしたランプの灯りで照らされ、グラウカが開け放していたカーテンを閉じている。その音を聞いたノルは、気怠げに顔を上げた。
普段、伝言局の側に建つ単身用の宿舎で暮らしているノルは、療養の為、伝言局にある医務室の隣に作られた休憩室で過ごしている。
倒れて運ばれてから意識が混濁している間も、そうして今現在に至るまで、グラウカは伝言局に泊まり込んで看病をしているらしい。
その献身に感謝をしながらも、同時に申し訳なさと居た堪れなさを感じてしまう。
そんな自分に心底辟易したノルは、彼に気付かれぬよう、静かに息を吐き出した。
繋がれていた輸液の管は全て取られて、腕には青黒くなった跡だけが残っている。
「グラウカ先生」
「どうしたんだい?」
呼びかけに、グラウカは優しい表情を浮かべて、ノルの側まで歩み寄った。
もう管は全て取り払われた筈なのに、針が入っていた腕が少しずつ痛みを広げていくようで、ノルは思わず腕を握り締めてしまう。
それが、幼い頃の忌まわしい記憶を呼び覚ますよう、で。
「あの薬は、リグレットの父親から提供された血液を使っていたのですか」
問いかけというより、確信を持って告げた言葉に、グラウカは驚愕の表情を浮かべて、どうしてそれを、と、喉の奥から絞り出すような声で言った。
「それが本当なら……今回は、リグレットの血を使ったのではないですか」
視線を俯かせ、何も言葉を返せなくなったグラウカの反応は、明らかに肯定を意味しているのだろう、とノルは静かに納得してしまう。
ノルはイヴルージュやグラウカから、自身の身体の状態が著しく悪化した場合、もしくは、何らかの緊急事態が起こった時に備えて、ある薬を渡されていた。
幼い頃、自分の命を救ってくれたという、抗体値を正常に戻す薬。
ネムは、ノルが助かったのはリグレットの父親の命を使ったからだ、と言っていた。
そして、目覚めた時に目にしたリグレットの変化と、血を採ったという話。
それらの状況を把握したノルは、自分の中にある情報からそう結論づけていたのだけれど、グラウカの反応を見る限り、間違いはないのだろう。
「その事を……リグレットは、知っているのですか」
彼女の父親が、この命を救う為に、犠牲になった事を。
ノルの問いかけに、グラウカは暫く答える事を躊躇していた──というよりは、必死に堪えているように見えた──けれど、ノルの視線に耐えかねたのか、やがて観念したかのように、ぽつりと呟く。
「イヴルージュが全て話しているよ。その上で、リグレットは血液を提供してくれたんだ」
他者を助ける事を厭わない彼女が、そうしない筈はないだろう。
それはきっと、彼女を知る者なら誰もが分かっている。
「けれど、あれは事故だったんだ。ノルは悪くないんだよ」
グラウカはそう言って、手のひらが白くなるまで握り締めている。
深い後悔が滲んだ表情に、ノルは自身の内側を見ているようだ、と思う。
居た堪れなくて、申し訳なくて、苦しくて。
自分が此処にいる自体が、まるで間違いなのではないか、と、ネムが手渡してきた薬品を口にした瞬間に、ずっと考えていた。
今でも、ネムのあの言葉が、頭から離れていかない。
「それでも、これは俺が向き合わなければならない問題です」
呟いて、ノルは自身の腕を見下ろした。
内出血を引き起こし、青黒くなってしまった腕を、強く握り締める。
許されたいのでしょう、と告げたネムの言葉をノルは何度も思い出して、堪えきれずに目を瞑っていた。