第一話 答え合わせ
紅茶のお湯が沸く前に、私はもう、答え合わせを終えていた。
書斎机に並べた家計簿の背表紙が、革の艶を失った順に並んでいる。
窓の外では雀が鳴いていた。普段なら気にも留めない鳴き声が、今朝はやけにはっきりと耳に届いてくる。
五感が、いやに澄んでいた。
そういうものらしい。
人が、自分の人生を一度、終わらせると決めた朝には。
◇
「家系魔法による照合があるそうだ」
朝食の席で、夫は新聞から目も上げずにそう言った。
「リオンの学院入学の式典でな。ただの形式だ。念のため伝えておく」
バターの皿がことりと鳴る。
リオンが「お父様、それなあに?」と無邪気に首をかしげた。
「お母様の血と、お父様の血と、リオンの血が、ちゃんと繋がっているかを、教会が確かめてくださるの」
私がそう答えると、リオンは「ふうん」とだけ言って、スープに戻っていった。
鼻の頭にパンの粉がついていた。私は手を伸ばしてそれを拭ってやる。十二年、毎朝、当たり前にしてきた仕草だった。
夫がやっと顔を上げて、私を見た。
ほんの一瞬、ナイフの動きが止まったのを、私は見逃さなかった。
(……ああ)
その瞬間に、たぶん、私は気づいてしまった。
気づかない、と決めていたものに。
◇
朝食を終えて、私は地下書庫へ降りた。
鍵束の重みが、いつもより冷たく感じる。
商家の三女として育った私は、嫁ぐ日の朝、父からたった一つだけ言いつかった。
「家計簿は、毎月、自分の手で書きなさい。誰にも見せず、誰にも書かせず」
父は理由を言わなかった。私も訊かなかった。
だから十二年、書き続けた。リオンが生まれてからは、育児の記録もそこに混ぜた。初めての発熱、初めての言葉、初めての一歩。母としての記憶は、すべてこの背表紙のなかにある。
棚から、十二冊を一冊ずつ机に並べる。
革の匂いが、ふと父の店の倉を思い出させた。
リオンが「養子だ」と告げられた日のページを、まず開いた。
日付。出産先の修道院の名。仲介の弁護士。費用。
そのページの上に、夫の出張記録を重ねる。同じ月の、同じ週の、同じ街。
さらに、その四十週前のページまで遡って。
紙をめくる手は、震えていなかった。
震えてくれたら、まだ救いがあったのに。
「……あら」
声に出した自分にも驚いた。
今のは、本当に私の声だっただろうか。
その月の宿の名前を、私はよく覚えていた。
父の遠縁が営む、王都郊外のひっそりとした宿だ。
先月、母の葬儀のあとに立ち寄って、おかみさんと長い話をした。
「あの子の旦那様、ずいぶん前から、奥様連れでうちにお泊まりくださってねえ」
あのときは、聞き間違いだと、思いたかった。
だって、夫は私を、嫁いでから一度も二人旅に連れて行ったことなど、なかったのだから。
奥歯の裏側が、いきなり痺れた。
痺れを押し戻そうとして、私は唇を、ぎゅっと、閉じた。
閉じたら、余計に、痺れた。
ちがう、ちがう、ちがう。
ちがう、って言いたいのは、私のほうだ。
ちがうと思いたかった、の、ほうだ。
十二年、いったい、誰に、ちがうと言いたかったんだろう。夫にか。ヴィオラにか。いや。自分に、だ。自分に、ちがうちがうと言い続けて、よくもまあ、ここまで、もった。
もった、と、商いの言葉が出た。商人の娘の口が出た。こんなときにまで出る口の癖を、父は死ぬ前に、ひとことも褒めてくれなかった。
頬を、何か、生ぬるいものが流れた、気はしなかった。
乾いていた。乾いたまま、私のなかの何かが、勝手に、干からびていた。
帳簿は汚さなかった。そこだけは、父への最後の言いつけを、守った。
ヴィオラ。私の親友。リオンの名付け親。
あの人から毎年届いた手紙の文面を、私は頭のなかで端から並べていく。
「リオンくん、もう歩いたの?」
「最近、よく笑うようになった?」
私が育児ノートに書いたばかりの言葉が、半月後にはあの人の手紙のなかにあった。
偶然だと思っていた。私たち、波長が合うからね、と笑い合っていた。
ノートの折り目の角度が、いつもほんの少しだけ、ずれていたことを思い出した。
私は、もう、誰かに愛されたいと願って生きるのをやめよう。
そう思ったら、ふしぎなくらい、息が楽になった。
◇
陽が傾く頃、私は書斎の戸を叩いた。
「お話があります、旦那様。お茶をお持ちしました」
夫は読みかけの書類から目を上げて、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ちょうど休もうとしていたところだ。気が利くな、エレノア」
紅茶を注ぐ。湯気が立ちのぼって、彼の顔の輪郭をやわらかくした。
私はソファの向かいに腰を下ろし、膝の上で手を重ねる。
「答え合わせを、いたしましょうか」
夫の指先が、カップの取っ手の上で、ぴたりと動きを止めた。
「……なんの話だね」
「リオンを養子にお迎えした、あの月のことです」
「ずいぶん昔の話だな。それがどうした」
私は持ってきた帳簿の一冊目を、机の上にそっと開いた。
「あなたが出張先と仰っていた街の宿は、私の母方の遠縁が営む宿でございます」
夫の指が、止まったままになった。
「先月、母の葬儀のあとにお邪魔いたしました。おかみさんが懐かしそうに仰いました。旦那様は、ずいぶん前から、奥様連れでお泊まりくださっていたと。私と、ではなく」
二冊目を開く。
「同じ月、王都では、あなたの会計名義から、修道院への寄付が大きく動いております。仲介の弁護士の捺印は、グランフォルト子爵家のお抱えのものでした」
三冊目。
「ヴィオラ様は、その月から半年、療養と称して領地にお戻りでいらっしゃいました。戻られたあと、お見舞いの手紙の返信のなかに、私のリオンの育児ノートを写したような言葉が、いくつも混ざっておりました。気づいたのは、去年の冬のことです」
カップが、受け皿の上で、こん、と小さく鳴った。
夫の口は、何かを言いかけて、開いたまま、止まった。
「申し上げたいのは、責めることではございません」
私は、できるだけ穏やかに微笑んだ。
「ただ、十二年分の数字が、すべて同じ答えを出しただけでございます」
書斎が、しんと静まり返った。
窓の外で、雀がもう一度、鳴いた。
「……エレノア、それは」
「お返事は、よろしゅうございます」
私は懐から、薄い封筒を取り出した。
机の上に置いて、彼の方へ静かにすべらせる。
「離縁状でございます」
夫の目が、封筒に落ちた。
「三年前から、毎月、書き直してまいりました」
「……三年」
「いつかあなたが、私に何かを告げてくださる日のために」
彼の顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。
そのさまを、私はただ、静かに見つめていた。
怒りも、悲しみも、まだ、来ない。
たぶん、あとから来る。来てくれるのなら、それでいい。
私は紅茶を一口、含んだ。
飲み頃を、少しだけ、過ぎていた。




