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答え合わせをいたしましょうか、旦那様  作者: 九葉(くずは)


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第一話 答え合わせ

紅茶のお湯が沸く前に、私はもう、答え合わせを終えていた。


書斎机に並べた家計簿の背表紙が、革の艶を失った順に並んでいる。

窓の外では雀が鳴いていた。普段なら気にも留めない鳴き声が、今朝はやけにはっきりと耳に届いてくる。

五感が、いやに澄んでいた。


そういうものらしい。

人が、自分の人生を一度、終わらせると決めた朝には。





「家系魔法による照合があるそうだ」


朝食の席で、夫は新聞から目も上げずにそう言った。

「リオンの学院入学の式典でな。ただの形式だ。念のため伝えておく」


バターの皿がことりと鳴る。

リオンが「お父様、それなあに?」と無邪気に首をかしげた。


「お母様の血と、お父様の血と、リオンの血が、ちゃんと繋がっているかを、教会が確かめてくださるの」

私がそう答えると、リオンは「ふうん」とだけ言って、スープに戻っていった。

鼻の頭にパンの粉がついていた。私は手を伸ばしてそれを拭ってやる。十二年、毎朝、当たり前にしてきた仕草だった。


夫がやっと顔を上げて、私を見た。

ほんの一瞬、ナイフの動きが止まったのを、私は見逃さなかった。


(……ああ)


その瞬間に、たぶん、私は気づいてしまった。

気づかない、と決めていたものに。





朝食を終えて、私は地下書庫へ降りた。

鍵束の重みが、いつもより冷たく感じる。


商家の三女として育った私は、嫁ぐ日の朝、父からたった一つだけ言いつかった。

「家計簿は、毎月、自分の手で書きなさい。誰にも見せず、誰にも書かせず」

父は理由を言わなかった。私も訊かなかった。

だから十二年、書き続けた。リオンが生まれてからは、育児の記録もそこに混ぜた。初めての発熱、初めての言葉、初めての一歩。母としての記憶は、すべてこの背表紙のなかにある。


棚から、十二冊を一冊ずつ机に並べる。

革の匂いが、ふと父の店の倉を思い出させた。


リオンが「養子だ」と告げられた日のページを、まず開いた。

日付。出産先の修道院の名。仲介の弁護士。費用。

そのページの上に、夫の出張記録を重ねる。同じ月の、同じ週の、同じ街。

さらに、その四十週前のページまで遡って。


紙をめくる手は、震えていなかった。

震えてくれたら、まだ救いがあったのに。


「……あら」


声に出した自分にも驚いた。

今のは、本当に私の声だっただろうか。


その月の宿の名前を、私はよく覚えていた。

父の遠縁が営む、王都郊外のひっそりとした宿だ。

先月、母の葬儀のあとに立ち寄って、おかみさんと長い話をした。

「あの子の旦那様、ずいぶん前から、奥様連れでうちにお泊まりくださってねえ」

あのときは、聞き間違いだと、思いたかった。

だって、夫は私を、嫁いでから一度も二人旅に連れて行ったことなど、なかったのだから。


奥歯の裏側が、いきなり痺れた。

痺れを押し戻そうとして、私は唇を、ぎゅっと、閉じた。

閉じたら、余計に、痺れた。


ちがう、ちがう、ちがう。

ちがう、って言いたいのは、私のほうだ。

ちがうと思いたかった、の、ほうだ。

十二年、いったい、誰に、ちがうと言いたかったんだろう。夫にか。ヴィオラにか。いや。自分に、だ。自分に、ちがうちがうと言い続けて、よくもまあ、ここまで、もった。

もった、と、商いの言葉が出た。商人の娘の口が出た。こんなときにまで出る口の癖を、父は死ぬ前に、ひとことも褒めてくれなかった。


頬を、何か、生ぬるいものが流れた、気はしなかった。

乾いていた。乾いたまま、私のなかの何かが、勝手に、干からびていた。

帳簿は汚さなかった。そこだけは、父への最後の言いつけを、守った。


ヴィオラ。私の親友。リオンの名付け親。

あの人から毎年届いた手紙の文面を、私は頭のなかで端から並べていく。

「リオンくん、もう歩いたの?」

「最近、よく笑うようになった?」

私が育児ノートに書いたばかりの言葉が、半月後にはあの人の手紙のなかにあった。

偶然だと思っていた。私たち、波長が合うからね、と笑い合っていた。


ノートの折り目の角度が、いつもほんの少しだけ、ずれていたことを思い出した。


私は、もう、誰かに愛されたいと願って生きるのをやめよう。

そう思ったら、ふしぎなくらい、息が楽になった。





陽が傾く頃、私は書斎の戸を叩いた。


「お話があります、旦那様。お茶をお持ちしました」


夫は読みかけの書類から目を上げて、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

「ちょうど休もうとしていたところだ。気が利くな、エレノア」


紅茶を注ぐ。湯気が立ちのぼって、彼の顔の輪郭をやわらかくした。

私はソファの向かいに腰を下ろし、膝の上で手を重ねる。


「答え合わせを、いたしましょうか」


夫の指先が、カップの取っ手の上で、ぴたりと動きを止めた。


「……なんの話だね」

「リオンを養子にお迎えした、あの月のことです」

「ずいぶん昔の話だな。それがどうした」


私は持ってきた帳簿の一冊目を、机の上にそっと開いた。


「あなたが出張先と仰っていた街の宿は、私の母方の遠縁が営む宿でございます」


夫の指が、止まったままになった。


「先月、母の葬儀のあとにお邪魔いたしました。おかみさんが懐かしそうに仰いました。旦那様は、ずいぶん前から、奥様連れでお泊まりくださっていたと。私と、ではなく」


二冊目を開く。


「同じ月、王都では、あなたの会計名義から、修道院への寄付が大きく動いております。仲介の弁護士の捺印は、グランフォルト子爵家のお抱えのものでした」


三冊目。


「ヴィオラ様は、その月から半年、療養と称して領地にお戻りでいらっしゃいました。戻られたあと、お見舞いの手紙の返信のなかに、私のリオンの育児ノートを写したような言葉が、いくつも混ざっておりました。気づいたのは、去年の冬のことです」


カップが、受け皿の上で、こん、と小さく鳴った。

夫の口は、何かを言いかけて、開いたまま、止まった。


「申し上げたいのは、責めることではございません」

私は、できるだけ穏やかに微笑んだ。

「ただ、十二年分の数字が、すべて同じ答えを出しただけでございます」


書斎が、しんと静まり返った。

窓の外で、雀がもう一度、鳴いた。


「……エレノア、それは」

「お返事は、よろしゅうございます」


私は懐から、薄い封筒を取り出した。

机の上に置いて、彼の方へ静かにすべらせる。


「離縁状でございます」


夫の目が、封筒に落ちた。


「三年前から、毎月、書き直してまいりました」

「……三年」

「いつかあなたが、私に何かを告げてくださる日のために」


彼の顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。

そのさまを、私はただ、静かに見つめていた。

怒りも、悲しみも、まだ、来ない。

たぶん、あとから来る。来てくれるのなら、それでいい。


私は紅茶を一口、含んだ。

飲み頃を、少しだけ、過ぎていた。

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