30.訪問者
「突然の訪問になり、申し訳ありません」
「いえ……、その、どうか顔を上げてください」
部屋に入るなり頭を下げられ、菫は戸惑いながらも首を横に振った。
この時間、レーヴェは騎士団のもとへ午後の訓練を受けに行っているし、ヒルシュは昼食後、侍女に絵本を読んでもらって昼寝をしている時間帯だった。起こさぬよう、隣の部屋に移りテーブルを隔てて向かい合う。ジークハルトの補佐をしているような男が、単身で菫のもとへ来て話したいことがあるとは。それが一体どんな話題になるのか想像もつかなかった。
「まずは先日の謝罪を。こちらの私情でご不快な思いをさせてしまいご申し訳ありませんでした」
「……謝罪を受け入れます」
ここで否定をすれば、相手の面子を潰すことになる。下手にそんなことはない、と遠慮するよりは謝罪を受け取ってしまった方がいいこともあると、ヴィオレッタだった頃に学んだ。
「ありがとうございます」
「それで、ええと」
菫は男の顔を見て、言葉を濁す。周囲の話から名前を又聞きしているものの、本人から名乗られてはいないため、どう呼べばいいものか判断がつかなかった。
「申し遅れました。ヨハン・ノルドハイムと申します」
「スミレ・ホヅミです。ノルド、ハイムさま」
博士はその道を究めたものへ贈られる称号だ。大抵の場合、引退間近に国への貢献を認められ、国王から下賜される。所謂名誉職というものだ。目の前にいる己より年上だろう男は、それでも称号を授かるには随分と若い印象を受ける。
「ヨハン、もしくはノルドと呼び捨てで構いません」
「いえ、流石にそれは。ううん……」
「自分は渡り人様に敬称をつけられるような身分ではありません」
「私も本来、そのように呼んでもらう人間ではないのですが」
ヴィオレッタならばともかく、菫はただの庶民にすぎない。それも孤児。この世界に置き換えれば最底辺と言っても過言ではない。だがしかし、このままではどちらも譲らず言い合いが続くことも容易に想像できた。
「では、ヨハンさん、と。私のことも、スミレとお呼びください」
これは己が譲った方がいいのかとも考えつつ、堂々巡りを止めるため、菫は自分から提案を出した。
「……かしこまりました、スミレ嬢」
声に少しばかり渋さを滲ませながら、それでも譲歩してくれるらしい。
どちらともなく頭を下げ合い、互いの様子を伺い合う。どうにも、ヨハンとは似たような気質を持っているらしかった。なんとなく親近感を覚えて、まじまじと目の前にいる男を見つめる。第一印象は神経質そうな男。それは今も変わらない。そこに生真面目さと堅物感が加わって、なんとも近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
ジークハルトの側近で、周囲の物言いからおそらく腕も立つのだろう。だが男の格好は騎士の出で立ちはなく、どう見ても文官のそれだった。
「まずは、ご報告を。お預かりしたカンザキ様は、学院にてつつがなくお過ごしです」
「そう、ですか。それなら、良かったです」
なぜ自分に愛莉の様子を報告するのだろうか。不思議に思いながらも、菫はひとつ頷くことでそれに答えた。その様子を見て、ヨハンはほんの僅かに物言いたげな目を菫に向けた。
「……本日は、お願いがあって参りました」
しかしヨハンはそれを言葉にすることなく、ここへ来た目的を優先したらしい。すっと視線を伏せて話し出す。
「お願い、ですか?」
「ええ。陛下を、止めていただきたい」
「?」
ジークハルトを止める。一体何の話だろうか。話の要点が掴めず、菫は僅かに首を傾げた。
「陛下はあの日以来、ほぼ不眠不休で執務室に籠もっております。このままでは、お身体を壊しかねません。何を甘えたことをと思われるかもしれませんが、どうか――」
「わかりました。行きましょう」
頭を下げるヨハンを前にして、菫はほぼ間を置かずに頷いた。
確かに神殿や救貧院が変わってしまった原因を知りたいとは思っていたが、それを理由にジークハルトが倒れていいとは考えていない。しかし、なぜ、国王たるジークハルトがそのような状態になっているのだろうか。やはり、子どもの発言だけでは宰相以下大臣たちの協力を得るのは難しかったのか。臣下は一体何をしているのかと腹立たしく思いながら腰を浮かせれば、それを願ったはずのヨハンが微かにその表情を驚きに染めた。
「よろしいのですか」
「ええ、構いません。すぐに行きましょう」
「それは、早いに越したことはありません、が……」
ヨハンの言葉が不自然に途切れた。
「あの?」
ヨハンは菫を見つめたまま動かない。その表情は徐々に険しくなり、幾ばくも間を置かず、眉間にはくっきりと皺が刻まれる。
「スミレ嬢、失礼を承知で申し上げます。……少し、触れても構いませんか」
「え?」
一体何の話だろうか。そう疑問符を飛ばす菫の方に、ヨハンの腕が伸ばされた。
ヨハンの指先が額に触れ、彼の唇が小さく、しかし忙しなく動き始める。
「――、いや……、――?……」
何かを呟く度にヨハンの眉間の皺が深くなっていく。呟きは無意識のものなのだろう、小声でその内容はほとんど聞き取ることが出来ない。
「――解呪」
段々とそれが子守歌のように感じられて、うつらうつらと菫の目蓋が重くなる。その瞬間、ヨハンの声が耳の奥に響いて。菫の視界で、白い光が弾け飛んだ。
閲覧いただきありがとうございます。
この作品を書き始めて約一ヶ月。たくさんの方に読んでいただけるようになってとても嬉しく思います。
次回より少々更新が不定期になります(詳しくは活動報告をご確認ください)が、楽しんでいただけるよう目一杯頑張りたいと思うので、お付き合いいただけましたら幸いです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。次回の更新をお待ちください。




