信念
「神がいるこの国は、裏通りまでも明るく、隣人を見殺しにはしない。赤の他人とも信頼関係が成り立つことの奇跡を、あなたがたは知らないでしょう。南にあって北にないもの……それは信じる心に他ならない。ゲルーンには神がいないんじゃない、いると信じる心がなかった、それだけのことです」
ルエが、音もなく椅子から立ち上がった。
「神など、ほんとうは存在しない──まるでそう言っているように聞こえるわ」
一歩踏み出し、ルエはカーナの水色の衣の胸元を両手でつかんだ。
否定も肯定もせずに、彼はルエの揺れる黒瞳を見つめた。
「医術とは、神がいない前提での人の業──そう考える師によって、私は医学舎へと迎えられました。神が成すことをただ信じて祈る師であったなら、私はここにはいません。ですから、信念をもって行動すれば、人の手で、いつもなにかが生じるのだ、と師が言うなら、私は神ではなくそのことばを信じます」
一本ずつ指をひらいていくルエを待って、カーナは足元にしゃがみ込んだ。
それでも、ルエの腰よりも高い位置に金色の頭がくる。
ルエの指先は、そっと、その髪をすくった。
「痛みはどうですか」
顔が上向いたとたん、短い髪は逃げていく。
「どう、って?」
「体重をかけて平気であれば、動かしてみて、足首にひどい痛みや違和感がないかを、確かめてみてください」
言われたルエは、右足を上げ、左足一本で立った。
カーナはルエの顔と右足を見比べる。
「それは、あなたのその手で確かめてみて」
ルエが促すと、腫れも引き、細さがもどった足首に、厚みのある白い手がかるく触れた。
右手につづいて、左手も。
関節の可動域ぎりぎりを時間をかけて見極めるようなカーナの手の動きを、ルエはもの言わず見つめている。
その光景を直視することはためらわれて、ローサはぱらぱらと机の医学書をめくった。
やがて、カーナはうなずいて、それまでのように包帯を巻くこともなく、そっとルエの右足を床に下ろす。
「ここまで回復すれば、舞うことも問題ないでしょう。足を使ったら、かならず二十分は小川で冷やすようにしてください」
「もう、治ったの?」
もう、と言ったことがローサは意外だった。
「ええ。もう、ここに来る必要はありません。今後は充分、怪我に気をつけて。……君も、木登りは今後、慎むように」
彼が窓から手を貸してくれなければ、どう考えてもルエ以上の重傷を負っていただろうローサは、ハイ、とうなだれて返すしかない。
そのため、このときのルエの表情がどんなものだったか、ローサには知る由もなかった。




