蒼い瞳
コツコツと枝の上から二階の窓硝子へと小石を投げたルエは、開けられた窓に向かって立ったまま優雅におじぎをした。
「ごきげんよう。治療にやって来ました。手を貸してください」
右手を出して乞うたルエに、数拍置いてから腕を差し出したカーナは、樹の幹に今まさに手をかけるところだったローサに向かって、声を降らせる。
「教授は外出中だ。君は表から入りなさい」
なぜ命令形、とむっとしつつも、一昨日、ルエの立つ枝よりもやや上に伸びていた枝をへし折ってしまい、一巻の終わり、という目に合いかけたローサは、ぶじにルエが室内に消えたのを見届けると、素直に建物の入口に回って階段をのぼることにした。
ローサが蔵書室のドアを開けると、ルエはカーナが座っていたとおぼしき椅子に腰かけ、机の上のノートに書かれたゲルーン語に興味津々の視線を注いでいる。
もう一年近く、横にある分厚い医学書の翻訳に取り組んでいるというはなしは、以前に聞いた。
本来、神国領内で異教徒の言語を用いることは、禁止されている。
まして、神の技たる医術を異教徒に開放するような真似が許されるはずもない。
即座にそう指摘したローサに、カーナはそっけなく首を振ってみせた。
「師いわく、この程度の医学は数百年も前からあるもので、白衣を身につけた医師のみが行う近代医術の範疇になど含まれないそうだ。もちろん、書き写す許可をもらっただけで、師は翻訳していることなど知らないが」
「数百年も前の医学をわざわざ翻訳することに、なにか意味があるの?」
ふしぎそうな顔を見せたルエに、カーナはいつになく強いまなざしを返した。
「われらゲルーンには、医学という概念がないのです。あるのは薬草の知識程度で、凍った手足を獣のそれとおなじように切り落とし、やがて死に至っても、生命力が尽きたのだと言われて終わり。体の一部が醜く膨らめば、異形に取りつかれたのだと首をはね、火をかけるだけ。その原因が寄生する虫だという神国の医学では当然の知識もなく、ましてや、手術で取り除いて命を救うことができるなんて、考えもしない」
そのときのルエは、カーナの瞳を食い入るように見つめていた。
端で見ていたローサにも、蒼い瞳が宿した焔を垣間見ることができたほど、彼の内にあるのがただの知識欲などでないことは、一目瞭然だった。




