『神の蝶』たち
神とは、天である。
太陽のひかりは、神の愛である。
雨は、神の慈悲である。
うつくしき羽根をもつもの、
それは、天からの使いである。
小鳥が謡い、
蝶が舞えば、
子らよ、そこを楽園とよぶがいい。
クァ古謡『楽園』より
「見て、ローサ」
芝を踏む音もなく近づいてきた気配が、凛とした声を降らせる。
一文字に開脚して胸を芝に押しつけていたローサが顔を上げると、白い羽根がひらりと視界を舞った──ように見えた。
白い衣は、師匠であるルエ・ムーのものだとすぐに分かる。
逆光のまばゆさに目を細め、ローサは左手で視界から空を消す。
水瓜半分ほどのかごをぶらさげているほっそりとした手の一方が覆いの布を取り去ると、濃い桃色と赤のはざまに色づいた、ちいさな果実が現われた。
「桜桃! こげに、たくさん!」
「ノルシア侯国からいらした方にいただいたの。ローサにはなつかしい味でしょう?」
ノルシア侯国とは、クァ神国を宗主とする七つの侯国のうちのひとつで、神国領では最北に位置する。
温暖な地にひろがる神国領にあって、雪の多いノルシア侯国でとれる作物は比較的めずらしいものが多かった。
かごからつまみ上げたまっ赤な桜桃を、軸つきのままつい、と口の中に押し込まれる。
「どう、おいしい?」
軸と種をくちびるから取り除くのももどかしく、ローサは感動を顔いっぱいで表現した。
「ルエ様、こげにあまい桜桃は、ノルシアでもめったに食べられるもんでありません。この桜桃は紅陽という品種で、大粒でとても甘いうえに、果肉もかためで日持ちもするだで、極上の贈答果なんだす。ノルシアからこの聖都までは馬車をとばしても五日はかかるだで、ひやっこい水で冷やしてすぐに食べてしまったほうがええだす、……いいです」
「ローサは、ほんとにものしりねえ」
自身も桜桃をひとつぶ、果実よりもなお赤いくちびるの間に押し込んでから、ルエはぱち、と大きな黒瞳を見開いた。
「ほんとうだわ。あまい。おいしい」
「る、ルエ様、種は? 種は出さねばっ」
おもわず腰を浮かせたローサは、ルエの手首をつかみ、顔をのぞき込む。
「ええ? 種を出す? …………そのうち、出てくるでしょう。いいじゃないの」
国一の美女とうたわれるルエの蘭花のごとき顔を前にしては、出てくるってどこから、とはさすがに突っ込めなかった。
「だ、め、だす。鳥たちは、実だけを食べて、種は地に返すもんだで、ひともそれに倣わねばならぬのだす、……です」
「わかったわ。次からは出しましょう」
と言ってもうひとつぶ、ぱくと食べたルエは、あごの下に右手を添える。
が、待てども笑みを含んだくちびるから種は出てこない。
「……あら?」
「ルエ様────っ! 呑んではだめだす」
「呑んだのではなく、どこかに消えたの。種のない果実もあるのかしら、ね、ローサ?」
「誤魔化されねーだで! 種のない桜桃など、生まれてこの方、見た試しがねーずら」
ローサは立ち上がると、自分より十センチほど低い位置にあるルエの細い肩をつかんでガクガクと揺さぶり、抗議する。
端でだれかが見ていれば、あまりの不敬さに卒倒したかもしれないが、ルエはコロコロと笑うだけでとがめたりはしなかった。
ローサだって、ときどきおかしいとおもう。
目の前にいる女性は、ひかりの色とされるもっとも高貴な白い衣を身にまとい、舞徒のトップたる『白蝶』の中でも、史上稀なるうつくしさをもつとして『光の蝶』とまで讃えられる貴人だ。
『神の蝶』と呼ばれる舞徒たちおよそ五〇〇人の頂点に君臨するその舞がすばらしいのはもちろんのこと、ただそこに立っているだけであまりに神々しく、初対面では感涙さえしたはずのひとなのに。
あえて桜桃を献上してきたノルシア貴族も、舞の名手である白蝶がよもや、種を丸飲みにするほど不器用だとはおもわなかったはずだ。
かごを小川に浸して桜桃を冷やすこと、小一時間。
ローサは芝の上で入念な柔軟体操をつづけ、ルエは腕にかけた羽衣をひらひらとはためかせながら、小川のほとりの石の上を裸足で軽やかに飛びまわっていた。
ときおり、かごから桜桃をつまみあげると、種を避けて半分ほどをかじり、ローサのところまできてのこりの半分を食べさせてくれる。
白蝶の手ずから食べかけの果実を分け与えてもらうなど、舞学徒としてきちんと教育を受けている他の蝶たちなら恐れ多いことだと遠慮するのだろう。
しかし、そんなしつけと無縁なローサは、ルエとの半分こにためらいはなく、自分の無作法を幸いにさえおもった。
何より、ルエ自身が、半分こして食べることをこの上ない名案だとおもっているようで、それはそれはうれしそうに、おいしいわね、とほほえみかけてくれるのだ。
軸をとった果実を口に入れてくれるたび、ルエの細くしなやかな指がローサのくちびるに触れる。
蝶のいのちとも言うべき羽衣を操るための大切な指先に、いくどもくちづけを許されて、ローサはこれほど桜桃の一粒ひとつぶをいとしくおもえたことはなかった。




