『神のカナリア』
「ね、ローサ。おいしくいただいたあとは、べつの楽しみと、交換しに行きましょう」
小川からかごを引き上げたルエが、立ったまま片足の先を空に向けてバランスをとっていたローサを手招く。
おなじ姿勢でルエならふら、ともせず何分だってそのままでいられるのに、ローサは十秒もたせるのが精いっぱいだ。
ルエほどきれいな一直線でないことも承知しているけれど、そもそもルエのように、とおもうことが分不相応なのかもしれない。
「べつの楽しみ、だすか」
「この『信徒の宮』で、いちばんうつくしいものをおしえてあげるわ」
怪訝に近づいたローサは、羽衣ごと腕をつかんで引っぱるルエの背中を見て歩きながら首をひねった。
『信徒の宮』で暮らし始めて、三カ月。
『光の蝶』以上にうつくしいものがあるなどというはなしは聞いたことがないし、そんなものがあるともおもえない。
蝶が暮らす『舞徒の宮』の南の森を抜けると、ローサの背よりも高い石塀が現われた。
それより向こうは『謡徒の宮』のはずだ。
ローサは、手にしたかごからルエが覆いの布に桜桃を十粒ほど取り分けるのを見ていた。
包むつもりでいるらしいが、角を結ぶはしから丸い果実がぽろりところげ落ちる。
ローサはかごを腕にかけ、拾いあげた桜桃を自身の薄紫の衣できれいにぬぐうと、ルエの手の上で布をほどけないよう結んでやった。
「ありがとう。これ、持っていて。それから、肩を借りるから石塀のそばに立ってくれる」
言われたとおりにしたローサは、三メートルほど離れたルエが、自分の肩から背後の石塀へと視線を流したのを見て、蒼くなる。
「ルエ様っ、なにをする気──」
「しっ、おだまりなさい」
ぱく、と空気を食んだローサに向かって駆けてきたルエの手がぐっ、と左肩に乗った。
体重がかかったのはほんの一瞬で、すぐに重みは消え去る。
顔の前をひらりと羽衣が舞い上がった。
ふり返ったローサの目に、石塀を踏んだルエの引き締まった足首が飛び込んでくる。
すっくと立ち上がったルエを仰ぎ、ローサはまぶしさにほとんど目を閉じた。
包みを投げてと言われたものの、どこに放ればいいか分からないので頭上に掲げ持つ。
「ルエ様、『謡徒の宮』に蝶が立ち入ってはなんねー決まりずら」
「立ち入ってないわ。ここはまだ境界、どっちの敷地でもないもの。ギリギリセーフよ」
手のひらにあった重量と入れ替わりに、ルエの声が降ってきた。
石塀の厚みがどのくらいかローサには分からないが、ルエは地面の上と変わらない足どりで歩いていく。
石塀の向こうには、すぐ建物が見えていたが。
「ルエ様、ひとに見つかるだよ」
言ったそばから、カタン、と窓の開く音がして、ローサはとっさに両手を組み合わせた。
「──ルエ。そんなところで何をしてるの」
熟した桃をおもわせる、とろりとあまい声。
ルエはどうやら相手の名を呼んだようだったが、ローサにはよく聞き取れなかった。
「これをあげる。お礼は歌でいいわよ」
「……………………けっこう重いな。中身はなに?」
「桜桃よ。ノルシアでもなかなか食べられない極上品で、紅陽というのよ!」
「どうしたの。あなたは、茘枝を大きな木苺とまちがえるようなひとだったはずだけど」
ローサは壁から数歩離れ、建物を見上げた。
逆光のまぶしさの中で目をこらせば、開け放たれた二階の窓の向こうに人影が見える。
ルエ・ムーの名を気安く呼び捨てにできる人物など、めったに居るものではない。
が、謡徒にも白蝶に比肩する存在はいた。
「……カナリア様、だか」
ひとりつぶやいたローサの声が届いたらしく、そうよ、とルエが肯定を落としてくれる。
「ルエ、そこの褐色の髪の子はだれ?」
「ローサよ、私の徒妹なの。ノルシア侯国の出身で、年は十五」
「白蝶が自ら弟子に取るなんて。それはまた、よほど優秀な子なんだな」
ローサは、心臓に氷が触れた心地がした。
否定も肯定もしないまま、ルエは笑って、舞に対するものとはべつの評価を口にする。
「北部なまりが、すごくかわいいのよ」
「ルエ、お礼に歌うのはいいけど、昔みたいにそこで舞ってはだめだからね」
わが耳を疑うローサのそばにひらりと飛び降りてきたルエは、顔を寄せてささやいた。
「小鳥の中から彼を見出し、歌をみがかせたのは私なの。彼がカナリアとなり今も歌っていることは、私の神への無上の貢献よ」
そんなばかな、とローサはおもったが、窓から響いてきた歌声を耳にしたとたん、ルエの本気のほほえみにも納得がいく。
まるで、天から降るビロードのような高音。
大祭など、白蝶の舞にはカナリアの歌がつきものだというが、ルエのきらびやかな舞に霞むことなく、闇を祓える歌があるとは。
『神のカナリア』とは、一〇〇〇人以上もいる『神の小鳥』と呼ばれる謡徒の少年たちの中から、十年にひとりだけが選ばれるという才能の持ち主だ。
ルエが舞徒のトップなら、カナリアは謡徒のトップだと言える。
歌が聞こえるあいだ、ルエは突き動かされるように羽衣をひるがえして舞っていたが、ローサは舞いたいきもちをぐっとこらえた。
白蝶の舞と、カナリアの歌──その共演には、新入りの蝶などがおいそれと割り込めない崇高な気配がただよっている。
今、空を仰げばそこにはきっと神がいる、そんな確信でローサの胸は痛いほど熱を帯びた。




