62 ありふれた日々へ
「ちょっとよろしいですか?フリーゼ様」
「どうしたのだ改まって。それに私はぼたんであるぞ。まさか解雇の通告か!?」
「えっ、いや、そんなわけないじゃないですか。実はですね……」
とある日の朝の支度時間。さくらときなこがいつもの買い出しを済ませて店まで戻ってくると、これも日課のように、フリーゼが店の前で待ち構えていた。
鍵はとっくの昔に渡してあるのだが、こうして門前で待つのが彼女のこだわりらしい。さくらはどこか申し訳ないと思いつつも、こうしたルーティンも彼女には大事なのだろうな、と考えていた。
そうした日常の中に潜む、ごくありふれた平穏な毎日に、さくらときなこは喜びを感じている。その嬉しさを忘れずにいたいと思うことこそが、彼女たちの人生の大切なひとかけらなのだ。
準備の最中、さくらは思い切ってフリーゼにある頼み事をした。
「実はですね……」
「な、なんなのだ……なんだか不穏な気配だな」
いつもと違うさくらの真剣な雰囲気に、フリーゼは珍しく眉をひそめていた。
「申し上げにくいのですが……」
「は、早く言ってくれ。私にも覚悟はある。なにか不手際があるのなら、私も直すべきところは真摯に直そう」
「もう、いっぱいいっぱいでして……」
「私に対する気遣いや扱いなど、今更気にしないでほしい。確かに私はこの国の王女であり……」
「さくら、いい加減にするにゃ」
もったいつけるような言い方にきなこがしびれを切らし、背後からツッコミを入れた。
「うふふ、ごめんなさい。実はもう何ヶ月も先まで夜の宴会の予約が入っちゃって、手がつけられないくらい忙しくなるんです。どうしても猫の手も借りたい状況なので……。ご相談なのですが、これから夜の部も、入れる時はできるだけバイトに入っていただけないでしょうか?無理を承知のお願いなのですが」
さくらがようやく切り出した。ここのところ夜の座敷は宴会続きで、予約はひっきりなしだった。簡易昇降機を使って、半分は客に手伝ってもらう仕組みにはしているものの、それでも人手が足りないのだ。
さくらが申し訳なさそうに言うと、フリーゼはそれまで落としていた暗い影を払い、ようやく表情を明るくした。
「なあんだ、そんなことであるか!もう、心配して損をしたぞ!任せておけ!私はいつだって私用の予定はあるのだが、時間はいつでも割けるのだ!案ずるな!わはは、そんなことだったのか。本当によかった……」
フリーゼは心から安堵し、その快活な表情の奥に見え隠れしていた不安は、一瞬で霧散した。彼女は胸をドンと叩き、腰に手を当てて、ふふんと誇らしげに鼻を鳴らすのだった。
「そうですか、よかったです。ぼたんちゃんがいてくれると、二階は大助かりなんですよね」
「そういえば前にも聞いたんにゃけど、その用事って一体なんなにゃ?」
「そろそろ準備を始めないと開店に間に合わないぞ」
そうして、とんかつさくらの賑やかな一日は幕を開けるのであった。
「ところでさくらちゃん」
ランチタイムを終え、三人で片付けや夕方の仕込みをしながらおしゃべりを楽しむ時間。フリーゼが今度は改まってさくらに尋ねた。
「はい?なんですか、ぼたんちゃん」
「うむ。今更ながら、これほど多忙を極めているのによく一人であらゆることをこなしているなと思ってな。きなこ様も下ごしらえから揚げものまでお一人でなさっているし。正直、この店がどうして滞りなく回っているのか不思議であるぞ」
きなこもさることながら、さくらのこなす作業は尋常な量ではない。付け合わせの品、一品料理、ごはんの炊き直し、味噌汁、そして客との応対などなど、とても一人でこなせる仕事量ではないはずだ。
営業が終わってからもリゼロッテと晩酌をしたり、小物の制作をしたりと、一体どこにそんな時間があるのか。フリーゼでなくとも首をかしげるところだろう。
「ええ〜?このくらい、なんてことないですよ」
「いやいや、ジャガイモを蒸してこねて、なんだか色々工程を経て『ぽてとさらだ』を作るのであろう?あんなもの、私がやったら半日は費やしてしまうぞ」
「うーん……『手際』ってやつですかね。一つの作業を進めている間に、別のことを何個も並行してやっているので」
「そうだとしても、体がいくつあっても足りないぞ。私はさくらちゃんの健康が心配だ」
「うふふ、ありがとうございます。平気ですよ。もうちょっと仕事量を増やしても大丈夫なくらいです!」
さくらはそう言うと、出ない力こぶを見せるように腕を曲げ、鼻息をふんと漏らした。
「そうであるか。余計な心配であったなら、それは何よりだ」
「ボクも心配な時はあるんにゃけど、さくらは夜お風呂に浸かってぐっすり眠れば全快するみたいだにゃ」
いつも一緒に暮らしているきなこは、さくらの健康状態を把握する役目も担っているらしい。
「私の唯一の健康法ですよ! お風呂と睡眠、早寝早起き朝ごはん!」
「早寝ではないにゃ」
「そっか」
三人は今日も笑い合い、穏やかに時間は過ぎていく。
「へえ、ぼたんちゃんが二階担当で夜も毎日入ってくれるのですか。それは大助かりなのです」
「そうなの。明日から当面、忙しさが落ち着くまでは入ってもらおうかなって」
夜の営業が終わり、さくらとリゼロッテは相変わらず美味しい酒で晩酌をしていた。この二階の座敷部屋は毎日客が入り、そろそろ畳の『表替え』を考えなくてはならない頃合いだ。きなこは今日も一階で、一人黙々と油作りに精を出していた。
「最近は本当に、とんでもなく忙しいのです。楽しいのですが、お客様をお待たせする時間が増えてしまって、心苦しいのです」
「そうだねえ。二階の宴会も一度始まればラストまでいらっしゃるし、一階は一階で、お酒を嗜むお客様も多いし」
いわゆる『長っちり』の客は、回転率を重視する商売においては頭を悩ませる存在だ。注文が少ないまま長く居座られるのは、店にとっては厳しい面もある。
「でも、私がお酒を振る舞うのが好きだし、今来てくれているお客様もたくさん飲んで食べてくれるから、ありがたいんだけどね」
「お席を増設しましょうか? なのです」
「それもありかな……でも、居心地が悪くなっちゃうよね」
「そうですねえ」
悩みは尽きないが、本来商売とはそういうものだ。そうした悩みも一つの醍醐味であり、『商いは飽きない』という洒落のような格言がある。忙しくしていられるからこそ、悩みが多いほど楽しめる部分もあるというものだ。これぞ商売人冥利に尽きるといったところだ。そして飽くなき探求こそ、長く続ける商売につながるというもの。いつまでも、笑顔を忘れず、楽しくやること、客を楽しませること。そんなシンプルさが意外と重要なのだ。
「これから行楽シーズンにゃから、外で宴会ができるような仕出し弁当を出したらどうかにゃ?」
一階での仕込みを終えたきなこが、二階に上がってきながら提案した。
「お疲れ様、きなこ。それは面白いね。『アラカルト料理』だね」
「『アラカルト』?ってなんなのですか?」
店のメニューの中から好きなものを選んでもらい、それを折り詰めにすることだ。パーティー向けに大皿に料理を盛り合わせる、とても便利な方式である。
「お家でパーティーをする人には喜ばれそうだね」
「お座敷の予約がなかなか取れない場合には、いい案かもしれないのです」
かつては弁当を出すことで、店内の混雑を分散させることに成功していた。どれほどの効果があるか、試してみる価値はありそうだ。
「でも、きなこちゃんの揚げ物がとても大変になりそうなのです」
「そうだにゃ。もう一個、揚げ鍋を追加しようにゃ。ついでにコンロもあと二口くらい欲しいにゃ」
「じゃあ今度、ジェイムズさんに改装をお願いして、バレットさんに大きな揚げ鍋を作ってもらおうか」
「ついでに揚げたものを載せるバットも欲しいにゃ。できれば保温できるやつがいいにゃ」
「魔導装置と連動して保温機能もつけてもらおう!バレットさんとアオくんカナタくんと連携してもらえば簡単に作ってもらえちゃいそうだね」
「『この娘っことネコ!また無茶言いだしやがる!』って、また文句を言われそうなのです」
ワハハと三人は笑い合い、こうしてまた、とんかつさくらの夜は賑やかに、そして穏やかに更けていくのだった。




