60 ドリーム・チェイサー
「ふ〜んふふ〜ふ〜ふ〜んふ〜ふふ〜ん♪」
聴き覚えのない美しいメロディを奏でる朗らかな笑顔の少女は、太陽のように明るく、月のように丸い。そして、どこか異国の情緒を感じさせる艶のある黒髪に、まん丸の垂れ目。そのとても愛らしい顔立ちの彼女から発せられる、水のように透明で、バネのように弾む張りのある声は、変に上ずることもなく軽やかなハミングとなって流れていた。
「ら〜ら〜らら〜♪ららららんらららららら〜ん♪」
なんという可愛い少女なのだろう。人目もはばからず歌声を上げ、鼻歌をハミングしながら買い物を続けていて、周りにいる人はその少女を見かけるたびに笑顔で声をかけ、少女もまた笑顔で明るく話し返していた。そばにいるお付きのネコも、その少女に誰かが近寄るたびに肩に乗り、いちいち警戒しているように見える。さてはネコはヤキモチを焼いて、その少女に悪い虫がつかないようにしているのだろう。
その少女の周りにいる人たちは、彼女がいるだけで、彼女がハミングするだけで、明るい雰囲気に包まれているようだった。不思議な感覚だ、と僕は思った。
「ふ〜んふふ〜ふ〜ふ〜んふ〜ん♪」
この熱く光る季節に舞い降りた夏の蝶のように、その少女の足取りはヒラヒラと軽い。丈の長いスカートにエプロン姿、頭には頭巾をかぶり、大きなカゴを持って、ネコと一緒に買い物カートを押しながら、あのマーケットを散策していた。
毎日見かける彼女の姿に、僕はいつの間にか目で追うようになってしまっていた。どうやら学校には通っていないような気がする。年齢的には僕と同じか、少し上くらい。毎日大量に買い物をして帰るのだから、きっとどこかでお店でもやっているのだろう。
「ら〜ら〜らら〜ららら♪ららららら〜ん♪」
僕はあの子と、いつかおしゃべりをしてみたい。きっと楽しいんだろうな。いつでも明るい笑顔を向けてくれるんだろうな。いつでも明るい話題を振りまいてくれるんだろうな。
あ、いけない、そんなことをしていたら急がなきゃ学校に遅刻しちゃう時間だった。いつもの中学校へ通う道すがら、僕は彼女の姿を見つけている毎日だった。
僕の名前はナナミュウス・バレンシア。ブルーウッド・イースト地区とミンチェスティのちょうど間にある家は、パルプ工場を営んでいる。王都のみならず、センチュリオンのほぼすべての紙の需要を担っている会社だ。僕は特別成績がいいわけでもないけれど、家がお金持ちだから今の学校に通えているだけなので、高校は頑張って一般受験したいと思っている。夢があるからね。そのためにはちゃんとたくさん勉強して、いい大学まで行かないといけないんだ。
「おっはようだぞ!ナナミ!」
「わぁ!」
ボン、と後ろから背中を叩かれ、僕は思わず咳き込んでしまう。誰だ、こんな朝から元気なやつは。まあだいたい見当はつくんだけど。というか、もはや一人しかいない。こんなことをするやつは。
「やっぱりリコだったか。驚かさないでよ、まったく……ゲホゲホ」
「相変わらず体が弱いぞ。たくさん食べて寝ないと、アタシみたいに強くなれないぞ」
「別に僕は強くなれなくてもいいんだけどな」
この元気な女の子は、リカルディア・ロゼスティ。幼少期からの幼馴染で、僕とは正反対のスポーツ万能型だ。身長も僕よりずっと高い。そしてウザいくらいに活発で、後先考えずに行動する典型的な脳筋……のように思えるが、こんなんでも意外と勉強ができて頭がいいから、余計に恨めしい。
「リコ、なんでこの道通るの?」
「たまたまだぞ」
リコの家から学校へ行くならこの道は、回り道になってしまうはずだ。
「そんなことより、急がないと遅刻しちゃうぞ!」
「うん、走らないと間に合わなそうだ」
そう言っている間に、リコはそのまま僕を置いて走り去ってしまった。
リコは背が伸びて短くなりすぎてしまったスカートを翻し、僕の視界からあっという間に消えようとしていた。
こんなやり取りも、何年続けているんだろうか。あと何年続けられるのだろうか。そんな郷愁めいた思いを胸に抱きながら、遥か前を走るワイン色の長く揺れるポニーテールを、僕はいつまでも見つめていた。
いつものように学舎で授業を受けて、お昼ご飯を食べ、そして放課後はクラブ活動をする。
僕はこのクラブの時間が大好きで、この学校で唯一気に入っている図書館にて『司書クラブ』で活動している。親が勧めてくれたこの学校は、正直なところ僕には退屈で、学んでいる内容も僕にはあまり合っていなかった。
僕は魔導を率先して学びたいわけではなく、どちらかと言えば本をたくさん読んで見聞を広め、歴史を学び、新しいものを知ることが何より楽しかった。古きを温ねることは、僕たち人間にとって多くの意義があり、そこからまた新たな見解を見出さなければならない。二度と繰り返してはいけない失敗や過ち、今では計り知れない先人の生活の知恵、失われてしまった知識や技術など、数え上げればきりがない。これらを学ばずして僕は死ねないのだ。
世界中の文献を読み漁り、学者が提唱した定理や哲学、文筆家が残した物語や随筆を、できることなら全部読破したい。大したことは自分にはできないとわかっているけれど、せめて多くの人が遺した産物を僕は広め、多くのことを後世に語り継ぎたい。
そのために僕は、歴史を書く小説家になりたいと思っている。
歴史学者であることが先決であり、王立大学校へ進むためには、まず『グラン・パレス防衛大付属高校』へ進学しなければならない。今通っている中学校で活動している司書クラブでは、図書館を管理する経験と資格を得ることができる。まさに僕にとっては水を得た魚のような毎日で、ここにある図書はすでに全部読破していた。ここでやり残したことはないのだが、新しい図書が仕入れられた際には僕がチェックをし、そして納めていくのだ。
今日も十冊ほどの提供があり、とてもありがたい。これらをチェックできる放課後が待ち遠しかった。今の僕は、きっと恍惚の表情を浮かべていることだろう。
「ナナミ」
「わ、どうしたの? リコ」
急にリコが図書館へ僕を訪ねてきた。
「ナナミが気持ち悪い顔していたから、声をかけてやったんだぞ」
「うるさいな。からかいに来ただけなら邪魔だから帰ってくれないかな」
「ううん、勉強しにきたんだぞ」
「それは珍しい。一人で?」
「うん。ナナミと一緒にしようと思っているぞ」
「僕は今クラブ活動中なんだ。あとででもいいかな?」
「うん。待っているぞ」
リコはそう言うと、窓際のテーブル席に座り、どうやら受験科目の本を開いたようだ。何度も言うようだけれど、ああ見えてリコは勉強ができてスポーツ万能だ。この間の中間テストも学年で一番だったし、球技大会でも優秀だった。僕は男の子なのにリコより背が低く、成績も中の上くらいで、いつもリコに教わっている。リコは嫌な顔ひとつせず僕と一緒に勉強してくれるのだ。しかし図書館に来ることは滅多になく、ここ一年ほどはここで姿を見ていなかった。
新しく提供された図書のチェックを終えた僕はリコの席へ行き、声をかけた。
「おまたせ。今なにを学習しているの?」
「うん。ナナミの苦手そうなところを復習していたぞ」
「それは助かるよ、ありがとう」
「いいんだぞ」
そうして僕たちは受験対策の傾向と、僕の苦手な科学を中心に勉強を進め、図書館での学習を終えた。
陽もだいぶ傾いていたので、少し遅めの帰路についた。
「リコ、今日はありがとう。どうして図書館にきたの?」
「うん、なんでもないんだぞ。たまにはナナミとおしゃべりもしたかったんだぞ」
三年に進級してから僕とリコは別のクラスになり、接する機会も減っていた。昔はよく幼馴染であることを周りにからかわれ、少し恥ずかしい思いもしてきた。それをよくリコは、いき過ぎたやつらをとっちめていたけれど、僕はそれほど気にはしていなかった。
そもそも僕とリコはどう見ても不釣り合いだし、リコにはもっと活発で頭脳明晰で、みんなから人気のあるイケてる男子が似合うはずだ。僕はある時からリコと一緒にいることがそれほど恥ずかしくなくなり、どちらかと言えば気のおけない仲間という感じになっていた。リコもいつの頃からか、僕への話し方が少し変わった程度で、基本的には昔と変わらない接し方のように思えた。
それから僕たちは、他愛もない話をしながら歩いていた。
夕暮れ時のミンチェスティはとても美しく、眩しく光る太陽が肌に刺さるこの季節も、夕方になると少しカラッとした風が頬を撫でるような、穏やかな時間だった。
「今日うちは一番街へご飯を食べにいくんだぞ!」
「へぇ?そうなんだ。明日は土曜日だからゆっくりできるね」
「きっと美味しいお店なんだぞ」
僕とリコは帰り道、そんな話をしながら影を並べて家路についた。
週明け、僕はいつものマーケットの横を通り、やはりあの少女の姿を探していた。今日もいつも通りあの子の姿を見つけ、僕はまた少しゆっくり歩きながらその少女を目で追った。いつものようにあの子は耳に心地いいメロディを奏でながらマーケットを散策し、主に青果店で大量に仕入れをしているようだった。今日は大きな布袋をキャリーカートに入れていた。あれはなんの材料なのだろうか。
僕は毎日変わるあの子の仕入れの中身と歌声を確かめながら、学校への道を進んでいった。
そんな幾日か経ったある日、僕はいつものように登校の途中、マーケットの入り口近くを通りかかった。またあの子の姿を見つけ、僕は歩調を緩めてその後ろ姿を追っていた。
しかしその時、その子がパッとこちらを向いた。そして急にニコニコと満面の笑みを浮かべながら、ズンズンと僕に向かって歩いてきた。
あまりに突然のことに僕は驚き、どうしていいかわからず立ち尽くした。顔が紅潮していくのも自分でわかる。汗が首をつたいはじめた、その瞬間。
「リコちゃ〜ん!おはよ〜!」
えっ!?リコ??
僕が何のことかわからずあたふたしていると、僕の後ろから同じように顔を真っ赤にした、慌てた様子のノッポのリコが現れた。手をゴチャゴチャとクロスさせ、足もバタつかせながら、僕の顔と近づいてきた少女の顔を交互に見ている。
「あはは!おはようございますなのだぞ」
わけのわからない挨拶をしたリコは、余計に大汗をかきはじめた。そんな彼女の様子を、少女は「うふふ」と優しい笑顔で見つめていた。ようやくリコは落ち着きを取り戻し、肩をがっくり落としながらため息をついた。
「リコちゃん、この道を通って学校に通っているの?」
「はい、そうなんです。毎朝通ってます」
あれ?この間、この道を通るのはたまたまだって言ってなかったか?
「こちらは?」
少女が僕の方へ視線を向けた。
「はい……お、幼馴染のナナミュウスくん、です……」
なぜか僕の紹介の仕方がたどたどしいリコだった。
「ああ!この男の子がいつもリコちゃんが言ってるナナミくムギュウ」
そう言って手をポンと叩いた少女の口を、思いきり押さえるリコ。眉を八の字にして汗を飛び散らかしている。そこまでされたら、さすがの僕でも察する。
「リコ、ちゃんと紹介してくれるかな?この方とは知り合いなの?」
僕がそう言うと、何かを観念したようにため息をつき、リコは語り出した。
「うん、わかったぞ……こちらの方は『とんかつ さくら』さんというお店の店主さんだぞ。さくらさんっていうんだぞ」
「こんにちは。今リコちゃんが言ってくれたけど、さくらです。よろしくね、ナナミくん」
「きなこだにゃ」
「あ、では改めて。僕はナナミュウス・バレンシアと申します。リカルディア・ロゼスティさんとは同じ学校で、古くからの友人です」
それぞれが律儀に自己紹介をしたので、僕もきちんとしなければと思い、姿勢を正しながら一応貴族としての振る舞いを見せた。
「わぁ、すごくしっかりした男の子ですね。リコちゃんにとてもお似あムギュウ」
このさくらさんという人は、僕の思っていたイメージとは少し違っていた。そうかと思えば、その通りの感じもある。天真爛漫というわけでもない。かといって窈窕淑女という厳かな雰囲気でもない。様々な魅力を持った、どこか深みのある人で、それでいて親しみやすさも兼ね備えた奥ゆかしさがあった。
「ナ、ナナミ!そろそろ学校急がないと間に合わないぞ!」
そう言って一人で走り出し、ワイン色のポニーテールを大きく揺らしながら、あっという間に消えていった。
「なんなんだアイツは……それでは僕もこの辺で失礼します」
「はい、学校がんばってね」
さくらさんは満面の笑みで僕に手を振り、送り出してくれた。ああ、このお方の笑顔はとても麗しい。星が輝くようなその瞳は、いつも誰に向けられているのだろうか。
そんなことを一瞬考えていると、急に斜め下から小声で話しかけられた。
「いつも見ていることは黙っておいてやるにゃ」
僕の足はガクガクと震え、ようやく走り出せたころには、登校のチャイムはとっくに鳴り終わっていたのだった。




