39 化学反応
とある日の朝早く、さくらときなこの店の魔導ベルが、けたたましく鳴り響いた。
もうそろそろ起きる時間である午前六時前。さくらは布団のなかで、うとうとと微睡んでいる最中だった。
しかし、さくらには予感があった。
この鳴り方は、きっと楽しみにしていた、あの知らせだ――と。
すぐに魔導ベルの解析を行い、発信元がエリックであることが判明する。さくらときなこは、顔を見合わせるなり外出の支度を整え、エリックの待つ警視庁へと向かった。
「やあ、さくらさんにきなこさん。朝早くからすみません」
「いえいえ、例のやつですよね?」
「はい、例のやつです。彼はどうにも時間の概念がなくて困ります」
そう言って頭を抱える仕草をするエリックだったが、口元にはかすかに笑みが浮かんでいる。
目の前の少女が、きらきらと瞳を輝かせ、いそいそと急かすような態度を見せるものだから、普段は尖った表情を崩さないエリックも、さすがにその期待に応えたいと思うのだった。
「出来上がったぜ。見てみろ」
あれほどの大立ち回りを経て、ようやく製作依頼にこぎつけた相手『バレットダーク・サーベラー』は、驚くほどあっさりと言った。
しかし、その指先がわずかに震えているのは、気のせいだろうか。
「わぁ……素敵ですね」
並べられた三本の刃物。
肉切り用の包丁、千切り用の万能包丁、そして片刃の出刃包丁。
それぞれが妖しく光を放ち、装飾が凝らされ、持ち手のハンドルにも細やかな工夫が施されているのがわかる。
さくらときなこは、バレットの工房に来る際に持ち込んでいた肉や野菜を取り出し、その場で刃物の切れ味を確かめてみた。
「わわ! これはすごい!」
「すごいにゃ。肉がスルスル切れるにゃ」
「これなら作業の効率も、ぐんと上がるね!」
「にゃ。ここまで道具で変わるもんなんだにゃ。さすがだにゃ」
わいわいと声を上げながら、さくらときなこは包丁の性能を確かめ合う。
これからの営業や仕込みで使う光景を思い浮かべ、二人の気持ちはますます昂っていった。
「バレットさん、ありがとうございました。これで仕込みが、すごく楽になります」
「大したもんだにゃ」
「ええ、バレットさんの腕は、確かですよ」
惜しみない称賛を受け、紹介役のエリックもほっとした表情を見せる。
しかし
「……………………」
当のバレットは俯いたまま、やはり指を震わせていた。視線もどこか定まらず、さくらたちの言葉に反応を示さない。
その異変に気づかない三人ではなかった。むしろ、少し心配になるほどの様子である。
「バレット……さん?」
さくらは、バレットの顔を下から覗き込むように身をかがめた。
「どうしたんにゃ?」
「バレットさん、酔っ払うにはまだ早い時間ですよ」
三人が一様に声をかけるなか
「親方?」
背後から、さすがに異変を察した弟子が、バレットの丸まった背中に手を添えた。その瞬間――
「たのむ!」
バレットは突然、立膝をついて跪いた。
さくらたちは息を呑み、さくらに至っては、目の前から一瞬でバレットの上半身が消えたかのように感じ、思わず視線を泳がせるほどだった。
「あのウイスキーの漬け方を教えてくれ!」
一瞬、さくらは何を言われているのか理解できなかった。
わずかな沈黙ののち、彼女はその言葉の意味を、深く、改めて考え始めていた。
これほどぶっきらぼうで、頭も固く、強い自尊心の塊で、誰に対しても譲らぬ態度を崩さず、滅多に笑うこともない頑固一徹の男が
跪くだけでなく、指を震わせ、何百年も年下のただの少女に、頭を下げて懇願しているのだ。
仕事に対する情熱は誰にも負けず、酒を何よりも愛する男が、ここまで言うのである。
よほどのものだったに違いない。
さくらに意地悪な気持ちはなかった。
駆け引きが得意で、その過程を楽しんだだけだったのだ。
バレットは、実のところ素直な男なのだろう。
これほど揺さぶられる経験は、彼の人生においてそう多くはなかったのかもしれない。
そしてさくら自身も頑固で、余程のことがなければウイスキーの製法など教えるはずがない――そう思われていたのだろう。
さくらは、少しずつ申し訳なさを覚え始めた。
確かに企業秘密ではあるが、彼女の中には「良いものは広める」という信念がある。優れた技術を共有することは、技術発展につながり、文化や文明を前へ進める、常にそう考えていた。
バレットに対し、やりすぎたのではないかという後悔と反省が胸に浮かぶ。
「バレットさん」
「……むむ……」
「いいですよ」
「なに…………?」
「教えますよ。ウイスキーの漬け方」
「……な、なんだと? だがあれは『なんとか秘密』って言ってたじゃねえか」
「そうなんですけど、ここまで良いものを作っていただきましたし、そこまでお願いされて、教えないわけにはいきません」
「……ほ、本当か! 本当に……あれの漬け方を……!」
バレットは完全に狼狽し、正気を失ったような様子だった。
そこまで酒を愛する姿は、むしろ少し羨ましくもあると、さくらは思った。
「親方! 落ち着いてください!」
後ろから弟子たちが数名がかりでバレットを押さえ込む。こうした場面での対処に慣れているかのような手際だった。
「うるせえ! これが落ち着いていられるか!」
「まあまあ、バレットさん。一度、話し合いをしましょう。さくらさんも、代金を支払わなければなりませんし」
エリックの言葉で、ようやくバレットは平静を取り戻す。弟子たちも手を離し、一同は商会の詰所へと移動した。
さくらときなこ、バレット、エリック、そして数名の弟子たちが見守るなか、バレットは包丁の代金を提示する。
鉱石代や技術料、そしてさくらが提供した包丁の『意匠』分を差し引いた金額だった。
さくらは少し納得のいかない表情を浮かべたが、ここで食い下がればバレットがさらに頑固になるだけだと判断し、今回は手打ちとした。
「んじゃ、さっそく頼む」
待ちきれない様子のバレット。朗らかな笑顔を浮かべ、あまりの前のめりさに、さくらはうっかり口を滑らせそうになる。
「では、我々は少し席を外しましょう」
エリックはそう言い、弟子たちとともに詰所を退出した。
その場には、さくら、きなこ、そしてバレットの三人だけが残り、一瞬、水滴の落ちる音すら聞こえそうな静寂が訪れる。
「では……話して……くれるか」
「……はい……実はですね……」
バレットとさくらは睨み合い、バレットの喉が鳴りそうなほど、期待と焦燥が入り混じっていた。
その様子を、きなこは終始冷静な表情で見守っている。
「……ほ、本当か……? そんなことで……何が起きているというのだ」
「私も詳しい作用までは正直わかりません。でも、私の『田舎』では、こうしたことは普通に行われていました」
さくらが説明したのは、ウイスキーそのものの製法ではなく、完成したウイスキーに香りを付けるための工程だった。
その手法とは、『樽』の内側を焼き付けることにある。
さくらは、自身の経験と記憶だけを頼りにそれを行ってきた。しかし、どこをどのように焼くのか、焼き付ける時間や温度、さらにはその他細かな要素、そういった諸条件が一定の結果を生み出す理由は、あくまで自分の感覚として身についているものであり、他人に伝えられるほど明確な言葉や数値に落とし込めてはいなかった。
そして、もうひとつの工程は、乾燥させた植物を加えることだった。
この異世界において、さくらはさまざまな植物や木の実を試してきたが、青果店で売られていた香辛料に似たものを加えたときが、最も良い反応を示した、という結果に行き着いていた。
こちらの世界に来てから、彼女は何事にも物足りなさを覚え、そのたびに工夫を重ね、少しずつ改良を続けてきた。それはきわめて自然な行為であり、何よりも彼女自身が楽しんでいることだった。
「今の悩みは、ウイスキーが少しずつ溢れてしまうことですかね」
さくらは笑顔で舌をぺろりと出し、自身の詰めの甘さを、少し自嘲する。
「ふん。なるほどな。だが、それは少し研究してみたくなったぜ」
「そうしていただけると助かります」
「わかった。じゃあ『木』はジェイに頼むとして、それをかしめる部分を俺が作りゃいい。そこまでは簡単だ」
バレットは立ち上がり、さくらの仕草を真似るように片目を閉じ、親指を立てて、にかりと笑った。
物理的な課題は、ひとまず解決したように思える。
残るは、なぜ『香り』が付くのか。その解明は、別の専門家を探すことになりそうだった。
「いい取引ができましたか?」
工房からの帰り道、エリックはさくらときなこと並んで歩きながら、今日の出来事を振り返るように問いかけた。
「はい!本当に有意義でした。いつもありがとうございます、エリックさん」
さくらは長身のエリックを見上げるように身を寄せ、にこにこと笑顔を向ける。
その無邪気な表情に、エリックも思わず目尻に皺を刻むのだった。




