【第4話】
梅雨明け宣言を、朝の天気予報で聞いた。
それを聞いただけで、あたしの心は少しだけ晴れやかで、だからどうしたと言うわけでも無いのに、これから本格的にやって来る夏の陽射しを想像して心が高鳴った。
何時ものように玄関を出ると、青空からは既に熱い紫外線が注がれていた。
今日は、終業式だ。
門を出ようとした時、目の前には彼の姿があった。彼は今までと変わりなく、優しい笑みであたしを見つめていた。
「田舎のオヤジが倒れてさ。俺、急に帰ることになったんだ」
「何時戻ってくるの?」
また、チョットの間小吉の世話を頼みに来たんだと、あたしはそう思った。
「いや……… もう、戻っては来ないよ」
「えっ」
あたしは、ポカンとして彼を見つめた。一瞬で頭の中が真っ白になった。
無意識にでた言葉は「引越しは?」
「急だから、全部引越し屋に頼んだ。午後にでも来ると思うよ」
彼は、両手で抱いた小吉をあたしに差し出すと
「こいつはキミにあげるよ。田舎のばぁちゃんが、ネコアレルギーでさ」
そんな笑顔で言わないで……
「死んだネコの代わりといったら何だけど、キミになついてるから」
違う…… そうじゃない。そうじゃないよ。
「ありがとう」
あたしは、彼につられるように、笑顔で応えて小吉を受け取った。
「じゃあ、元気で」
彼は、まるでその辺へ買い物にでも行くみたいに、気軽に声を掛けて歩き出した。
違う…… 違うよ。
あたしは……あたしは…………
彼を抱えた時の胸の感触が蘇えって、今更シクシクと疼いた。
確かに小吉に会いに行っていた。でも、たぶんそれだけじゃないよ。それだけだったら、こんなに胸の奥が締め付けられないよ。
「あたしは………」
その声に、彼は一度だけ振り返って、軽く手を振った。ほんとに軽く。また今夜会えるかのように。
あたしは、その先の言葉を叫ぶ事も、彼の背中を追いかける事もしなかった。
ただ小吉を抱いたまま、彼が先の路地を曲がるまで、その後ろ姿を見つめていた。
遠のいて行く彼の後ろ姿は、まるで幻のように溢れる涙で朧に霞んでいた。
終業式が終わって、友達のカラオケの誘いも断って、あたしは走って、走って、走り通しで帰宅した。
積み込まれる彼の荷物を、最後に人目見たかったから。いいえ、業者の人に言伝を頼もうとしていたのかもれない。
終業式の最中、校長先生のつまらない話を聞き流している間に、あたしは考えた。
彼はずっとあそこにいるのが当り前で、必ずあそこへ帰って来て、小吉を抱くあたしに優しく微笑んで、それが当然のように何時までも続くと思っていた。
何時までも続くはずの無い現実を、突然突きつけられたあたしは、ぐるぐると渦巻く意識の欠片にすがり付いて、心の奥を覗き込む。
人伝だったら言えるかしら……… 「あなたが、好きです」
家の前の通りまで来ると、引越しセンターのトラックが、反対側の角に消えるのが見えた。
大きく肩で息をしながら、呆然とその景色だけを見つめていた。
あたしは何時でも一足遅れなのだ……
がらんどうの206号室。部屋のカギはかかっていなかった。
何も無い部屋は意外と広くて、彼の匂いはもう消えていた。
あたしは、自分でも気付かないうちに、彼を感じる為にこの部屋へ来ていたのだ。
そして、この部屋の不思議な居心地の良さは、彼を感じていたからなのだ。
ふと窓辺に視線を移すと、ベランダには小吉の姿があった。
主のいなくなった、何時もの場所に佇む小吉の姿を見て、何だかとても悲しくて、頬を伝う涙が止まらなくなって、まるで迷子になった小さな子供のように、あたしはその場にうずくまってしまった。
夕闇に包まれる頃、大家さんが部屋のカギを取りに来るまで、あたしは小吉と一緒にその部屋に佇んでいた。
ドアを開けた大家は、暗闇の奥にうずくまる人の気配にしこたま驚いていたっけ。
お互いにあまりにも自然体でいられる相手は、本当は一番大切なのに、失うまでそれに気付かないのだという事を知った。
絹に落とした水滴が静かに広がって染み渡るように、それは自分の知らぬ間に、こころの内側を覆い尽くして大きくなるのだ。
ときめかない恋もあるのだと知って、あたしは自分がほんの少しだけ大人になったような気がした。
一ヶ月もしないうちに、あのアパートの206号室には新しい住人が入居したようだ。
今年の夏も、あたしにとってはこころ踊るような夏ではなかったけれど、見上げる青空が、以前とは 少しだけ違う蒼に見えるようになったのは気のせいだろうか。
あたしは今でも、学校から帰ると部屋のカーテンを閉めて着替えをする。
それから何時も、小吉を膝の上に乗せて背中の匂いを嗅ぐ。
小吉のぽかぽかした陽だまりのような背中からは、チョットだけあの人の香りがするから。
陽だまり END
短編に挑戦してみたのですが、結局4部に分かれてしまいました。少しずつ短編にも挑戦したいと思います。ご感想はお気軽にお書き込みください。




