第43話 過去を知る者③
「……あっそ。どうなっても知らないからね!」
やがて荒々しくそう言い放つと、マリアはぶつんと一方的に通信を切った。
奈落は、大きく紫煙を吐き出す。マリアのことを抜きにしても、このまま雨宮深雪の元へ駆けつけるつもりはなかった。
この街で《死刑執行人》として生きるなら、ギャングの親玉に喧嘩を吹っ掛けられるなど、日常茶飯事だ。それでも奈落や流星はこの街で顔を知られている。抗争に積極的に仲介に入ることはあっても、降って湧いた諍いに巻き込まれることは稀だ。
だが、雨宮深雪はまだ無名である上に、見るからにカモにされそうな貧弱な容姿をしている。暫くは、風当たりの強い時期が続くだろう。
これくらい一人で対処できないでどうする、というのが奈落の考えだった。
白い煙が、月夜に照らされ、幻想的に霞む。それが紫煙だと、一瞬、忘れそうになるほどに。奈落は目を細めてそれを眺めると、再びゆっくりと歩き出した。
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初めて会った時、その少年はゴロツキたちに囲まれていて、とても脅えているように見えた。
シロはそれを見て、初めてアライグマのピピに会った時のことを思い出していた。
その時のピピは足に怪我をしていて、事務所の裏で雨に打たれ、不安そうにこちらの様子を窺っていた。可哀想だったので手当をし、餌を上げたら、頻繁にやって来るようになったのだ。
と言っても、アライグマは簡単には人に懐かない。ピピは決して、シロと一定の距離を取り、直に触れようとはしなかった。そういう点も、深雪とピピはよく似ている。どこかで常に他人を警戒し、完全には心を開かない。それをもどかしく思うこともあったが、シロはあまり気にしないようにしていた。それが臆病で弱い生物にはありがちな性質だと知っていたからだ。
ただ、何故だか六道はシロに、深雪と行動を共にするようにと言ってきた。理由を尋ねても、答えを教えてはくれない。ただ、一緒にいなさいと、それだけを伝えられた。
だから最初は、面倒を見てあげるつもりだった。シロの方が年下だけど、《監獄都市》ではお姉さんだから、いろいろ教えてあげるんだと、そう張り切っていた。
それが変わったのは、事務所の屋上で喧嘩をした時だ。
あの時、深雪は鵜久森命の死を目の当たりにし、激しく取り乱していた。
ショックだったのは分かる。シロだって、少なからず衝撃を覚えた。
だが、だからと言って六道の事を悪く言うのだけは許せなかった。六道は、《ニーズヘッグ》からも見放され、路頭に迷い野良猫のようにボロボロだったシロを拾ってくれた恩人だ。六道にだって悪い部分はあるのかもしれないが、そこだけを突き回すような深雪の物言いには、どうしても納得できなかった。
思わず言い返して喧嘩になり、顔を合わせない日々が続くこととなった。
正直、ああいうモヤモヤ・ムカムカした状態は大嫌いだ。
ユキのバカ! 泣き虫・弱虫! 六道のこと何も知らないくせに! 絶対にこっちから謝ったりしないんだからと、頬を膨らませて日々を過ごした。
でも時間が経ち、怒りが収まってくるに連れて、心にぽっかりと大きな穴が開き、それはどんどん広がっていった。シロはそれが何なのか知っている。『淋しい』――シロの一番嫌いな感情だ。そして、最も恐れている感情でもある。
そして、その時ふと気づいたのだ。
深雪と一緒にいる時、シロは『淋しい』と感じたことは一度もなかったという事に。
誰かと一緒でも、淋しいと思う事はある。《ニーズヘッグ》にいた時がまさにそうだった。
亜希や銀賀、静紅はシロと親しくしてくれたが、チームの中にはシロを恐れる者や警戒する者、或いはシロのアニムスに露骨に眉を顰める者もいた。亜希は気にしなくてもいいと言ってくれたけれど、そんな時、まるで暗闇の中に一人ぽつんと取り残されたような、とてつもない淋しさに襲われたのだった。
深雪のそばは、それが無い。何と言うか、とても居心地がいいのだ。
思い返せば、深雪はシロのアニムス、《ビースト》を目の当たりにしても、恐れたり嫌悪したりしなかった。それどころか、感情に流されて暴走しがちだったシロを、身を挺して止めてくれた。努力している部分も多分にあるだろうが、もともと深雪自身がそういう性格なのではないかという気がする。
相手がどれだけ自分と『違う』者であっても――例え相手が己に反感や敵意を持っていたとしても、それを受け入れようとする。或いは、理解しようと努力する。それが本来の深雪の姿なのだろう。《監獄都市》に来たばかりの頃は、何か事情があって、そういった部分を封じ込めてしまっていたのではないか。
今も、深雪は他のゴーストを拒絶する一方で、どうにかしてそんな自分を変えようとしている。
そういうところは、六道と本当によく似ている。ただ、表に出る時の出方が違うだけだ。
深雪は奈落や神狼のように分かりやすく強いわけではないし、流星やオリヴィエのように頼もしいわけでもない。でもそれは、まごうことなき深雪の長所だ。
生憎とこういった街では、深雪のような長所は見えにくくなってしまう。それでも、シロは深雪のそういう優しいところが好きだった。
はっきり言って、そんなに難しく考えなくてもいいのに、と思うこともある。深雪は深雪なのだから、正々堂々、胸を張ればいい、と。
でもきっと、それが深雪なりのやり方なのだろう。
最初は確かに『命令』だった。でも、今は違う。
深雪はシロの仲間だ。同じ事務所にいるとか、単純にそういうことではなく、『本当の仲間』だと思っている。だから、深雪のことは命を懸けてでも守りたい。深雪に危害を加える者がいたなら、全力でそれを排除するのだ。
シロが仲間にしてあげられるのは、ただ、それだけだから。
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磨き抜かれた鏡のように、まっすぐで曇りのないシロの瞳が深雪に注がれる。
そこに映り込む己の姿を見つめているうちに、深雪はかつての《ウロボロス》で過ごした日々の記憶を呼び起こしていた。
最悪でこれ以上もなく残酷な最期を迎える前の、皆が互いに仲間だと信じて疑わなかった、純真な日々のことを。
《ウロボロス》での思い出は、辛い事や悲しい事ばかりではなかった。
同じ過酷な境遇に置かれ、共にそれに立ち向かっているのだという濃密な一体感。或いは、唯一無二の仲間だという誇り。それらは、ただぼんやりと普通の学校生活を送っていただけでは、決して味わえなかったものだった。
当時の深雪にとって《ウロボロス》は唯一の居場所だった。他に心を許せる者も、身を寄せる場所すらもなかった。だから、《ウロボロス》での記憶が濃厚になるのは必然の事といえる。だが個人的には、ただそれだけではないと思っていた。
深雪はゴーストになったその瞬間から、自分の存在意義に自信が持てなくなっていた。ありとあらゆる人間から攻撃され、集団から排除され続け、途方に暮れて路上を彷徨う、小汚い野良ネコのようだった。
何故自分は存在しているのだろう、誰にも必要とされていないのに、何故、無様に生き永らえているのだろう、と。
その苦しみに終止符を打ってくれたのが《ウロボロス》だ。
彼らは深雪を仲間として受け入れ、ここで存在してもいいのだという安心感をくれた。そして、
辛い時期を共に過ごし、時には慰め合い、支え合って、またある時は互いに怒りを吐き出し合った。どれも他愛無い事ばかりだが、それに一体どれだけ助けられただろうか。言葉では到底、言い尽くせない。
もしあの時、《ウロボロス》のメンバーたちと出会っていなかったら、深雪はこの世のありとあらゆる事柄に悲観していただろう。チームの皆は、深雪の生き方を、そして心を救ってくれたのだ。
深雪にとって、《ウロボロス》のチームも、チームのメンバーも全てが宝物のように大切だった。代替品など決してない、かけがえのない存在だった。
だからこそ、守りたいと思ったのだ。間違った方向に進む《ウロボロス》を止める事で、深雪なりにみんなを守りたいと思った。チームが当初より凶暴化し、変質しているのには気づいていたが、それでも見捨てるなんてできなかった。
《ウロボロス》があったからこそ、深雪は生きることを諦めずに済んだのだから。
(そうだ……確かに、俺達は仲間だった。だから、あいつらを止められるのは俺しかいないと思ったんだ。それが……ただの思い込みだったとしても……俺はあいつらが好きだった。例えぶっ殺されても構わないって、そう思えるほど、大好きだったんだ……!)
深雪の事を『仲間』と言い切るシロの純粋さは、どこか《ウロボロス》のメンバーと重なるように思う。と言っても、それは排他的で被害妄想に取りつかれ、攻撃的な暴力集団と化した後期の《ウロボロス》ではない。もっと初期の、包容力があって、行き場のない者同士が震える身体を寄せ合っていた頃のチームだ。
そして、いつかまた学校に行けるようになればいいなとか、大学に進学したり就職したりしたいけど、現状ではそれが叶うかどうか不安だとか、そういったごく普通の悩みを打ち明け合っていた。
見通しは決して甘くは無かったけれど、互いに支え合い、力を合わせ合っていけば、この窮状をきっと何とか解決できる。不安や憤りの中にも、そういった微かな希望が残っていた。深雪が何としてでも守りたかった、それがチームの本当の姿だ。
(俺の事を、まだ仲間だと言ってくれる人がいる。こんな俺のことを、守るって……そう言ってくれる人が確かにいるんだ……‼)
だからこそ、坂本のことは自分で片をつけねばならないと思う。シロが坂本に勝っても負けても、その結末はシロを傷つけることになってしまう。
(もう、同じ事は繰り返したくない……そして、シロも傷つけさせない‼)
《ウロボロス》は守れなかった。でも、シロの事は最後まで守ってみせる。《ウロボロス》の最期の時にできなかったことを、今、果たして見せる――そう思うのはおこがましいだろうか。
いずれにせよ、決意を固め、顔を上げる深雪の眼には、先ほどより比べようもないほど強い光が灯っていた。
「……大丈夫だよ、シロ」
「ユキ……?」
「後ろで見てて。すぐ終わるから」
振り返るシロに、少し強張った、けれど確かな笑顔を見せる。すると、深雪のその決意を察してくれたのか、シロは僅かに目を見開いたものの、刀の切っ先を下げた。だが一方で、深雪の言葉を耳にした坂本は、不機嫌そうに眉を吊り上げる。
「ふん、やるってのか。今さらだな?」
深雪はそう息巻く坂本の方を向き、静かに告げた。
「……来いよ。殺し合いがしたいんだろ。相手をしてやるよ」
その瞬間、坂本はカッと目を見開く。
「くくく……言うじゃねえか! あの世で後悔するなよ‼」
大言壮語を吐く深雪に対する苛立ちと、ようやくこの手でぶっ殺せる機会を得たという狂喜。坂本の上げる地鳴りのような咆哮には、それらが螺旋状に拮抗し、入り混じっていた。その二つの感情が、深雪を粉々に打ち砕かんと、大砲の砲丸の如く降り注ぐ。
しかし、深雪は怯まなかった。恐怖や躊躇といった感情が無いではなかったが、それよりもシロの心に応えたいという、まっすぐな思いが勝った。
シロが深雪のことを仲間だと言った時、とても嬉しかった。同時に何だか救われたような気がしたのだ。自分が東京に戻ってきたことが、今ここにいる事が全くの無駄ではなかったのだと、そう思えるような気がした。そして、それに答える為に、態度で示さなければならないと思ったのだ。
坂本は「しゃっ!」と鋭く叫ぶと、深雪の方へと踏み、氷を纏った拳を叩きつけて来る。凍気の塊がパーカーの裾を掠め、瞬く間に布地の表面に霜を降らせた。だが、坂本の拳は大振りな分、軌道も読みやすい。深雪は上半身を捻ってそれを避けた。坂本は二度、三度と拳を振り回すが、深雪は一定の距離を保ったままそれを全て受け流す。
「おいおい、どうした!? 逃げ回ってばっかりじゃ、さっきと変わんねえぞ‼」
自分の攻撃が避けられるのは、坂本も織り込み済みなのだろう。一喜一憂することなく、ただ蛇のように執念深く深雪へと拳を振り続ける。
深雪が右に避ければ坂本もそれを追い、左に逃げれば坂本も左へと攻撃を繰り出す。二人はそうして、追いかけっこのように縦横無尽に廃墟の中を駆け巡った。
シロが離れたところで、ハラハラしながらそれを見守っている。
「テメエ……いつまでこのお遊びを続けるつもりだ? 殺り合うんじゃなかったのかよ、このヘタレ野郎‼」
坂本は深雪を追いつつも、焦れたように声を荒げる。重量感のある体躯と言い、気の短い性格と言い、もともと長期戦には向いていない。早くも息が上がっている。右手に嵌めた義手も、物々しい代わりに随分と重そうだ。何度も振り回すには不向きだろう。
(そろそろか)
その時、深雪は初めて自分から動いた。右足を踏み込み、体にブレーキをかけると、今までとは真逆の方向――坂本の方へ向かって、飛び込んでいく。そして右手の拳を坂本の鳩尾に叩き込んだ。
「ふぐぉっ!?」
突然の方向転換に、重量のある坂本は対応できなかった。深雪の拳は、坂本の腹に直撃する。
坂本はまさかそこで深雪が反撃してくるとは、露ほども思っていなかったのだろう。三白眼の目を剥き出しにしていたが、すぐに余裕を取り戻し、にやりと笑った。お前のなまっちょろい拳など、痛くも痒くもないぞ――そう言わんばかりだ。
実際、その鍛え上げられた腹筋は、ちょとやそっと殴った程度ではダメージを負わせそうになかった。
だが、深雪としても、それで終わらせるつもりは毛頭ない。すかさず、拳の中に握り締めたビー玉に、《ランドマイン》を発動させる。ボン、と重々しい破裂音が響いたかと思うと、次の瞬間には坂本の巨体は爆風に煽られ、吹っ飛んでいった。
「っがあ‼」
坂本の体はごろごろと地面を転がって、数メートル先でようやく停止する。いくら筋肉を鍛えていても、物理法則には逆らえなかったようだ。一見したところ、大きなダメージはないようだが、深雪の目的は負傷させることではないので構わない。無言で佇み、坂本を見つめる。
今のところは、狙い通りだ。
一方、地面に強かに体を打ち付けた坂本は、憤怒の形相を顔に浮かべ、起き上がった。
「て……てめえ……!」
よほど悔しかったのか、目元には幾重にも亀裂のような深い皺が刻まれている。だが、深雪はやはり動じることなく、禿頭の男に問いかけた。
「この下に何があるか知ってるか?」
「……何!?」
一瞬怯む坂本。そして、はっとして地面に目を落とす。
だが、深雪はそのタイミングを逃さなかった。瞳孔の淵を紅く光らせ、《ランドマイン》を発動させる。
しんとした月夜の元で、突如として轟音が静寂を切り裂いた。爆発が起こったのは、坂本のニメートルほど離れた場所だ。パルテノン神殿を支える柱のような巨大な土煙が、天を突くようにして巻き上がる。
しかし、それは一つでは終わらなかった。最初の爆発が起こった場所とはやや離れた場所で、二つ目の爆発が起きる。それらは連続し、坂本を中心にして円を描くように、次々と爆発を起こしていく。
「これは……‼」
坂本は、さすがに焦りを見せた。目を凝らすと、瓦礫で埋め尽くされた地面の中に、月光を浴びてキラキラと光るガラス片が見える。それが爆発を起こしているのだと気付いたからだ。そのガラス片は、先ほど深雪が坂本の攻撃から逃げ回っていた時、巧妙に地面に落として回ったビー玉だった。
爆破によって切り取られた円陣に幾筋も亀裂が入り、そのままガラガラと音をたてて崩れ始める。その真ん中で膝を折る坂本は、今やはっきりと狼狽していた。
この真下にあるのは、大型商業施設だった建物の地下部分だ。上は既に破壊され尽くし、原形を留めていない。地下も、今では大きな空洞になっている。
「そうか、てめえは《東京》の地理には詳しい。さっきからちょこまか動き回っていたのも……最初から、これを狙ってたってワケか……‼」
「俺はお前を絶対に殺さない。そして、シロも傷つけさせない」
それが深雪の答えだった。どれだけ挑発されても、坂本の思い通りにはなる気は無い。大人しく引く気が無いのであれば、無理にでも距離をとるだけだ。
ところが、半ば呆然としていた坂本は、深雪の意図に気づくや否や、両目に怒りを湛え、カッと見開いた。
「ふざけんじゃねえぞ! このまま俺を瓦礫もろとも崩落させて、それで全てが清算できるとでも思ってんじゃねえだろうな!?」
そして、右の義手を天高く掲げる。
黒鉄色をした機械義肢の表面が、パキパキと乾いた音を立て、白く凍結していくのが見えた。《ヴァイス・ブリザード》によって、氷点下まで一気に冷やされた空気が風の流れとなり、深雪の頬を撫でる。触れたところがそのまま裂け、血飛沫が上がりそうなほどの、凶暴性を帯びた風だ。
「認めねえぞ……これで終わりには、絶対にさせねえ!」
坂本はそう吐き捨てると、上空に掲げた義手をそのまま崩落しかかった地面に、躊躇なく叩き付けた。
「っらあああああああぁぁぁぁっ‼」
そして獣のように猛々しく吠えると、自らのアニムス《ヴァイス・ブリザード》を発動させる。




