第42話 過去を知る者②
パーカーのポケットに手を突っ込むと、ビー玉を二個取り出し、それを放った。
ビー玉はコロコロと軽快に転がり、坂本の足元へと向かう。深雪はそのタイミングを見計らい、《ランドマイン》を発動させた。
「‼ ちぃっ……!」
今度は坂本が真横に飛び退く番だった。禿頭の巨躯が地を蹴るとほぼ同時に、小さいビー玉は次々と破裂していく。
パアンと、高く鋭い爆竹にも似た音が、二連続で空を打った。二メートル近くも粉塵が舞い上がり、周囲の崩れかけたコンクリートが細かく振動する。直径一センチほどの小さなガラス玉が爆発したとは思えないほどの威力だ。
坂本は舌打ちをし、更に数歩、後退した。
多少は懲りたかと思いきや、坂本は即座に態勢を整える。そして、皮肉に頬を緩めて見せた。
「ふん……ようやくやる気になったか?」
その視線の先にある深雪は、先程とは雰囲気が激変していた。坂本をじろりと真正面から睨むと、低い声で鋭く囁く。
「シロには手を出すな……!」
「嫌なら俺を殺すしかないな。お前が死ねば、どの道あの女も殺す。俺が死ねば、お前らは助かる。二つに一つだ」
「どうしてそういう考え方しかできないんだ‼」
苛立ちと怒りを丸めて、一気に吐き出す。すると、坂本は威嚇する野犬のように歯を剥き出し、呻り声を発した。
「……お前のその、偽善者臭い態度ムカつくんだよ! 自分は被害者です、みたいなツラしやがって‼」
深雪は、一瞬、その激しすぎる憤怒に戸惑うが、すぐに坂本を睨み返す。坂本が何故それほどまでに深雪へ憤りをぶつけてくるのかは分からない。だが、だからと言ってシロに危害を加えさせるわけにはいかない。
坂本もどす黒い感情を露わにし、深雪を睨んでいたが、やがてふと両目を細め、その顔を弛緩させた。といっても、深雪やシロのことを諦めたわけではない。
もっと効果的にいたぶる方法を思いついた――そんな表情だ。
「……いいだろう、教えてやるよ。何で俺がお前を殺してえのか。
俺がゴーストになったのは高校ン時だ。これでもまじめに勉強して、偏差値はそれなりに高かった。親は良い大学に入る事を期待してたみたいだが、当時の俺はギターに夢中だった。ミュージシャンになるのが密かな夢だったんだ。そういう――どこにでもいる、ただのガキだった。
ゴーストかどうかを調べる検査で陽性反応が出た時の事は忘れもしねえよ。目の前が真っ暗になって、何も考えられなかった。腰が抜けたのは後にも先にもあれっきりだ。すぐに家に警察が来て、大学病院やら裁判所やらに回されて……気づいたらここ――《監獄都市》にいた。
まるで悪い夢でも見ているかのようだった」
「………」
坂本は凶悪なゴーストだ。同情する余地もない。だが、深雪はつい、その話を聞いて自分がゴーストになった時の事を思い出していた。
当時はゴーストが世間的に認知されておらず、マスコミや野次馬で、家の前は連日、大混乱に陥った。それに対し、今はゴーストの存在もさほど珍しくない。実際、囚人護送船でも大勢のゴーストと乗り合わせた。だから、あれほどセンセーショナルな騒ぎは起きないだろうが、失うものは同じなのかもしれない。
坂本はあくまで刺々しい様子で口を開いた。
「お前は何故《東京》が《監獄都市》になったのか知ってるのか」
「いや……俺が《東京》に戻ったのはつい最近だ。この二十年間、何があったのかは知らない」
「はっ……通りでな。寝ぼけたことばかりほざくわけだ。いいか、《東京》にゴーストが隔離されるようになったのはな、二十年前どっかのゴーストのガキ共が、バカげた殺し合いをしたからだよ!」
「まさか……!?」
「ああ、そうだ! 《ウロボロス》のリンチ騒動があってから、世の中で急速にゴーストは危険な存在だって認識が強まった。極端な隔離政策が始まったのもその頃からだ‼
《東京》が《監獄都市》になった事、俺達ゴーストがその《監獄都市》に集められている事……全部、元をただせばお前らのせいだろ! お前らが下らねー手前勝手な殺し合いをしたせいで、一体どれだけの人間が犠牲になったと思ってる!? お前が奪ったのは《ウロボロス》のメンバーの命だけじゃねえ……何の関係も無い、俺たちの人生も根こそぎ奪ったんだよ‼」
深雪は自身の顔から音を立てて血の気が引いていくのを覚えた。
「そんな……そんなつもりじゃ……!」
「じゃあ、どういうつもりだってんだ? この期に及んでもまだ言い訳かよ!? ――なあ、分かるだろ? 俺がどれだけてめえをぶち殺したいと思ってるか……てめえだけは許せねえんだよ‼」
「………‼」
「お前はどう思ってるんだ? 自分一人だけのうのうと生き延びて、何も感じないのか! これだけ公害みてえに不幸を撒き散らしておいて、二十年経ったから時効だなんて考えてるわけじゃねえよな!? ……いい加減、気づけよ! お前は、この世界にとって、必要のない人間なんだよ‼」
「お、俺は……!」
背中にずしりと、凍った重たい氷を背負わされたようだった。考えてみれば、当然だ。《ウロボロス》には当時、百人近いメンバーがいた。それがほぼ全員、一夜もして絶命したのだ。何も影響がないわけがない。
(俺のせい、なのか……?)
今の《東京》には、明らかに異常で残酷な面がある。強いものが平気で弱い者を虐げる世界。トウキョウ・ジャック・ザ・リッパーを模した今回の連続猟奇殺人も、まさにその一端を如実に現した事件だ。そういった《監獄都市》の歪さが生んだのが《ウロボロス》のせいだというのなら、直接的ではないにしろ、深雪が永井エリや山下ヒロコらを殺したようなものかもしれない。
それだけではない。もし深雪たち《ウロボロス》が暴走し、殺し合わなければ、ここまで極端な隔離政策も行われなかったかもしれない。人とゴーストは問題を抱えながらもどうにか共生していたかもしれないのだ。そしてもし、それが実現していたなら、今とは全く違う未来も存在していたかもしれない。
(俺の……せいだ……!)
少なくとも、現状に対し良い作用は一切もたらしていない。それは確かだ。深雪は坂本に返す言葉も無く、深く項垂れる。何故だか、かつて告げられた六道の言葉が脳裏に甦って来た。
『……ゴーストは確かに法では裁かれない。しかし、だからと言って罪も無くなるのだとは私は思わない。君はどうやって己の贖罪を晴らすつもりだ? 過去に怯えてばかりいる者には、何も果たすことは出来んぞ―――』
今なら、その言葉の意味がよく分かる。《ウロボロス》が壊滅した夜――あの時から、全てが狂ってしまった。深雪は全てを失い、償いきれない業を負った。そして未だに罪の重さに恐れ戦いている。
《ウロボロス》という言葉を聞いただけで手足が震えを帯びるほどに。そしてどこまで逃げようとも、決して逃れられないのだ。
現に今も、それは深雪の真後ろに張り付いていて、真綿で首を締めるように責め苛んでくる。坂本一空という禍々しい姿をして。
一方坂本は、何の反応も返さず項垂れたままの深雪を、白けた様子で見つめていた。まるで虫けらでも見つめるかのような冷徹な目つきだ。
「ふん……あくまで殺り合う気はねえってか。あの悪名高い《ウロボロス》の生き残りだって聞いたから、どれほどの奴かと思っていたが……二十年前はよほど平和な時代だったと見えるぜ。てめえが何に拘ってんのか知らねえが、それならそれで、話が早い。とっとと終わらせようぜ‼」
口の端を歪めると、坂本は凶器と化した右手の義手を振りかざした。膝を曲げ、三白眼の目をぎらつかせて身構えると、一気に深雪へと突っ込んでくる。
深雪はただ、ぼんやりとそれを見つめていた。このまま何もしなければ、坂本の鋭利な爪によってずたずたに引き裂かれるだろう。だが、坂本がそれで満足するというのなら、それでもいいような気がした。
坂本の言う通り、自分がこの《監獄都市》で必要のある人間だとは、これっぽっちも思わない。それどころか、奈落に言わせれば『異物』ですらあるらしい。『異物』は集団から排除される。力が無ければ、その時点で容赦なく押し潰される。今がまさにその時ではないか。
深雪の眼前に機械電動式義手の獰猛な牙が迫る。うなりを上げる金属の義肢、その向こうでニタリと嗤う坂本の顔。深雪は虚ろな目でそれを凝視する。
その時、見慣れた濃紺色の影が翻った。はっとした次の瞬間、鮮やかな火花が舞い散る。そして、鋭い金属音と共に坂本の爪が弾かれた。
「……何!?」
坂本はバランスを崩し、停止を余儀なくされる。その狡猾さを湛えた両眼は、忌々しそうに新たな闖入者の姿を睨みつけている。
一方、深雪もまた、驚いて顔を上げた。月明かりに揺れる亜麻色の髪。シロがこちらを背にして仁王立ちしていた。彼女の構えている日本刀、《狗狼丸》の切っ先は、毅然として坂本の方を向いている。
「シ……ロ………?」
「ユキ、大丈夫!?」
シロの凛とした瞳が、背中越しにこちらへと向けられる。
「ち……犬耳女か……‼」
坂本は後退すると、改めて目を細め、シロを睨んだ。その身に纏う荒々しい殺気が、一段と濃くなる。深雪はぎくりとした。坂本は深雪を目の敵にしているが、己がシロから受けた仕打ちも勿論、忘れていない。この禿頭の大男にとっては、深雪もシロも等しく憎い敵であって、単に優先順位が違うだけに過ぎないのだろう。
シロを巻き添えにしたくない。そう思った深雪は、思わず声を荒げていた。
「ど……どうしてここに来たんだ! 待ってろって言っただろ‼」
「そんなのヤダ! シロだけ残されて……一人ぼっちで待つなんて、絶対に嫌だよ!」
「シロ!」
「それに……ユキが困ってるの、放っておくなんてできない! 助けるの、当たり前だよ! だって、ユキはシロたちの仲間だもん‼」
思いがけない言葉に、深雪は目を瞬いた。
「仲、間……?」
「うん。仲間、だよ! 『本当の仲間』……そうでしょ?」
尋ねられ、ますます戸惑う。シロは事務所の面々の中でも最も深雪と過ごした時間が長く、その分だけ仲も良いという自覚はある。しかし、今のシロの『本当の仲間』という言葉からは、単に身内であるという事実以上の、深い意味合いがあるような気がした。
自分の存在に意味など無いと、先ほどまでそう思っていた。世界にとって悪い作用しか及ぼさないなら、いない方がましだ。坂本の吐き捨てた言葉を、そのまま鵜呑みにしていた。そこへ稲妻のように現れたシロの存在は、余りにも明るくて眩い。深雪はまるで、狭くて真っ暗な牢から引っ張り出されて、久方ぶりに外の世界を見せられた囚人のように、両目を細めた。
深雪は月だとしたら、シロは太陽だ。その煌々とした明るさに、いつも助けられている。
だが、その光は時おり、強すぎる嫌いがあるが。
「ユキの敵はシロの敵だよ! だから……こんな奴、やっつけてやる!」
シロは刀を構える両肩に、力を籠める。同時に、獣耳を覆う産気が帯電したかのように、一斉に逆立った。触れたら、手が弾け飛んでしまいそうなほどの、激しい闘気。それに挑発されたのか、坂本も中腰になり、冷気を帯びた義手を構える。
「……ああ? やんのか、このアマ!?」
坂本は本気だ。《ディアブロ》の頭を辞め、全てをかけてこの襲撃に挑んでいる。このまま戦えば、なりふり構わず執拗に攻撃してくるだろう。シロのアニムスがどれほど強力だったとしても、坂本の執念深さの前では無傷ではいられまい。
深雪自身が坂本によって殺されるのはまだいい。全てを剝ぎ取られ、《監獄都市》へとぶち込まれた彼が、その原因となった深雪を殺したいほど憎むのは、無理からぬことだからだ。だが、このままでは、シロが坂本の右腕の先で光る爪の餌食になってしまうかもしれない。それは決して耐えられなかった。
「そんなの駄目だ! あいつに……六道にそうしろって言われたのか? 俺の敵と戦えって。だったら……」
シロは六道の命令で動いている。実際、深雪と一緒にいるのも、六道にそうしろと言われたからだと明言していた。だが、それはあくまで六道の都合だ。深雪はシロに、そのようなことをして欲しいとは思わない。そして、その価値があるとも思っていないのだ。
すると、シロは、日本刀は坂本へと向けたまま、静かにこちらを振り返った。
「違うよ」
月から零れ落ちる白銀の光が、シロの柔らかな輪郭をくっきりと縁取る。華奢な肩、豊かにうねる亜麻色の髪、三角の獣耳、蕾のようなふっくらとした唇。厳かな月光は、その中でも強い意志の宿った瞳を殊更、鮮烈に際立たせていた。
「そうじゃない。シロが自分でそう思ったの。ユキを守るんだって……シロが自分で決めたの」
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地上に出ると、まだ夜の気配は濃く、空には形のいい満月が未だに居座っていた。
奈落はそれを見るともなしに眺めつつ、廃墟の中をゆったりと歩いていた。
月夜はこういった『仕事』には不向きだ。光は否が応にも、物の輪郭を際立たせてしまう。廃墟だらけの《監獄都市》ではあるが、それでも至る所に人は棲みついている。どこで、誰に目撃されているとも限らない。
ただ、それを除けば、こういう夜は嫌いではなかった。人工の灯はどこか矯艶で、それはそれで刺激があるが、長く浴びていると神経が麻痺を起こす。それに比べると、青白い月の光は強すぎず弱すぎず、心地が良い。感覚をクリアにし、研ぎ澄ませてくれる。
何より、こうやって廃墟を移動する時に、足元がよく見える。
ふとタバコが吸いたくなり、懐に手を伸ばす。その際、腕にある通信機器が、赤いランプを点滅させているのに気付いた。どうやら着信がいくつか入っていたらしい。電源を入れ、通信回線を開くと、ほぼ同時にけたたましい声が飛び込んできた。乙葉マリアだ。
「あ、繋がった! もう、何やってんのよ!? 何で電源切っちゃうのよ? バカなの? バカなんでしょ‼」
開口一番、マリアはそう捲くし立てた。よほど腹を立てているのか、それとも焦っているのか。いつものふざけたようなマスコットは飛び出す気配もない。音声のみの通信だ。
何があったのかと尋ねると、マリアはすぐに事の次第を説明し始めた。それによると、どうやら、深雪がまたもや何かしでかしたらしい。どこぞの愚かなゴーストギャングの親玉に、ちょっかいを出されたのだという。
マリアは、勢い込んで怒鳴った。
「……そんなわけだから、今すぐ深雪っちを助けに向かって!」
「場所は?」
「それが分かんないのよ。勝手に移動しちゃって……深雪っちも端末の電源切ってるから、GPSで追うわけにもいかないし……」
「お得意のハッキングとやらはどうした?」
衛星から地上の様子を探れば、一発で居場所を特定できるのではないか。そう尋ねると、マリアはもどかしげに声を苛立たせる。
「あれはむやみやたらと使えるシロモノじゃないの! 長時間アクセスしてると、こっちの足がついちゃう……とにかく、急いで!」
マリアの声音は切羽詰まっていて、状況がかなり緊迫していることを窺わせた。しかし奈落は、その場から動かない。のんびりと懐から取り出した煙草を咥え、ライターで火をつけた。
「その必要はない。放っておけ」
途端に、マリアが猛然と嚙みついてくる。
「ちょっと……正気!? このままじゃ深雪っち、《ディアブロ》のハゲに殺されちゃうわよ!?」
「奴に対処能力はある。やる気がないだけだ」
「同じことよ! 第二の能力ってヤツの情報を採取するまでは、死んでもらっちゃ困るのよ‼」
奈落は、フン、と小さく鼻を鳴らした。
「だったら、自分で動いたらどうだ、引きこもり」
「何ですって……!?」
「それは六道の命令か? いつからお前は俺の雇い主になった? ……調子に乗るなよ、情報屋。こっちはお前の部屋の扉をぶち抜くくらい、いつだってできる」
さり気ない口調だったが、奈落はあくまで本気だった。
六道が雨宮深雪に妙な執着を抱いているのは間違いない。だが、深雪の持つという《第二の能力》――ゴーストを人間に戻す能力そのものには、あまり興味が無いようだった。
つまり、《第二の能力》を探れという命令は、六道のものではないのではないか。奈落はあさぎり警備会社のビルで六道と会話を交わした時から、そう踏んでいた。
そして、本当にそうであるなら、決して看過することはできなかった。
確かに奈落は傭兵だ。金の為ならどんな汚い仕事でもするし、ゴーストを殺しもする。だが、金さえ与えられるなら何でも言うことを聞くわけではない。誰を雇い主にするかは奈落自身が選ぶことだ。
この世の全てが自分の思い通りになると自惚れているような情報屋などに、雇われる気などさらさら無いし、ましてや使い走りにするなど絶対に許さない。
それが伝わったのか、マリアは警戒したように、一瞬、息を吞んだ。
「……。 脅す気?」
「今回は大目に見る。だが、次に同じ事をしたら、容赦はしない。……代償は必ず支払わせるぞ」
漆黒の闇夜の中で、赤い隻眼が凶暴に瞬く。同じ事務所の同僚だからと言って、手加減をするつもりはない。
領域を侵す者には、その愚かさを徹底的に思い知らせてやる。
通信機器の向こうで、マリアは暫く無言だった。この程度の威嚇で怯むような女ではない。こちらがどれだけ本気であるかを、狡猾に探っているのだろう。




