第39話 キングとクイーン③
大橋は震え上がった。
これでは、素っ裸で猛獣の檻に入れられるようなものだ。この大男たちがその気になれば、自分はいつ八つ裂きにされてもおかしくない。
やがて、更に闇の向こうからゆっくりと赤い髪の男――赤神流星が姿を現す。全身で息をし、汗だくの大橋と対照的に、赤髪の男は両手をスーツのポケットに入れたまま、涼しい表情だ。それが、そのまま二人の置かれた状況を象徴しているかのようだった。
劣勢をありありと感じ取って、大橋は歯ぎしりをする。
「てめえ……‼」
渾身の力を込めて、相手を睨みつけてやったつもりだった。ところが、赤髪の男は出会った時と同じように、妙に愛嬌のある笑みを顔に浮かべ、伊達男ぶりを見せつけてくる。
「お疲れさん。たくさん走って、満足したか?」
「何だと!?」
「もう、銃弾はない。走り続ける体力もない。違うか?」
「くっ……!」
「欲求不満の犬は走らせるに限る。そうすりゃ飼い主の言うことを聞くようになるし、夜もぐっすり眠れるだろ。つまり……」
赤髪の男は、口元に笑みを浮かべたまま、しかし両眼には冴え冴えとした闘気を込め、獰猛に囁いた。
「残念だったな。……ゲームオーバーだ」
それを聞いた大橋は、先ほど自分が抱いた感覚が、決して気のせいではなかったのだということを思い知らされる。
自分はただ、走らされていたのだ。そして間抜けにも相手の思惑通りのルートを走り続け、ここに戻ってくるよう誘導された。
この男はこちらが銃弾を打ち尽くし、疲労で動けなくなるのを、ただじっと待っていたのだ。
そう、全ては大橋を無力化させるために。
大橋はその事実に気づき、再び慄然とするが、同時に心の奥底で全く別の感情が湧き上がるのも感じていた。
それは強い不満だった。
《死刑執行人》であれば、もっと手早く片をつけることも可能だったのではないか。さんざん追い掛け回し、脅しをかけて、挙句の果てには元の場所に戻って来させるという一連の行動に、悪意が無いと言えばそれは絶対に嘘だ。
わざわざ恥をかかせやがって――その感情が熾火の残りかすのように、どす黒く燻ぶった。
「さぞやいい気分だろうな、元警察官さんよ?」
顎をぐいと上げ、挑発も顕わに怒鳴ると、赤髪の男は垂れ目がちの瞳に殺気を込め、すっと鋭利に細めた。大橋はそれを認め、確信する。
「そうだ……その眼だよ。自分以外の弱いゴーストを、ゴミか虫けらのようにしか思っていない目だ! ……《アラハバキ》の連中もそうだった。強えアニムスを持った奴がこの世の支配者のようにでけえ面してた! そういう奴らに限って頭もイカれてるんだ……そして弱い奴やアニムスを持たない奴を蹂躙していた‼ お前らと奴らと、何が違う!? 目障りになった人間は躊躇なく殺す……そうやってただ、恐怖で他人を支配してるだけじゃねーか‼ この街は狂ってる……人間も組織も、何もかもだ‼」
半ば破れかぶれにそう叫んだ。大橋はどちらかというと無口な性質で、クイーンやジョーカーの前でも余計なことをべらべらと喋ったことは無い。だが今は、これまでに感じたことがないほどの激しい感情が大橋を突き動かしていた。それは恥辱を受けたことに対する怒りだったかもしれないし、これから起こり得ることに対する恐怖からくるものだったかもしれない。
納得できない。このまま一方的にやられてたまるか。
大橋はその一心で、目の前の《死刑執行人》に噛み付く。
ところが、それが赤髪の男の表情を変化させることはなかった。
「吠えてんじゃねーよ。他人のことをどうこう言えた義理か? 自分が何をしたのか忘れたわけじゃねえだろうな!」
穿つような凶暴な眼光が、情け容赦なく真正面から注がれる。懐中電灯の冷え冷えとした光が、余計にその威圧感を増幅させているような気がした。大橋は先ほどの威勢もどこへやら、たちまち委縮してしまった。
赤髪の男の言葉が『撮影』のことを指しているのは明白だった。
「あ、あれは……金を稼ぐためだ。仕様が無かったんだよ! たとえ人間であっても、《アラハバキ》から抜けるのは簡単じゃねえ……常にその制裁に怯えて生きなけりゃならない。この狭い《東京》じゃ逃げようにも逃げる場所すら無いんだ……! 他に方法が無かった……生きていくためだったんだ‼」
大橋はすっかり及び腰になり、後ずさりした。しかし、何歩か後退したところで、背中に冷たく堅い感触が伝わってくる。暗闇で気づかなかったが、どうやらかなり壁際に立っていたらしい。
しかし、あっと思った時にはすでに遅かった。
赤髪の男はつかつかとこちらに近づいてくると、大橋の胸倉を乱暴に掴んで、そのまま壁に激しく打ち付けた。
「ぐっ……!」
赤髪の《死刑執行人》は、見かけ以上に腕力があり、大橋は呼吸に支障をきたすほどだった。あまりの苦しさに、拘束から逃れようともがくが、《死刑執行人》の腕はびくともしない。それどころか、その力はますます強まり、大橋の気道を塞いでいく。
金魚のようにパクパクと口を開閉させる大橋に、赤髪の《死刑執行人》は今にも爆発しそうな怒気を全力で押し殺したような、険悪極まりない声で囁く。
「自己弁護だけはご立派だな。褒めてやるぜ。それで? 猟奇殺人のディスクは一枚五万か。さぞや儲けたんだろうな!? おまけに自分の手は一切汚さずに、だ! そもそも《アラハバキ》から追い出されたのだって、てめえが店の金を使い込んだのが露見したからだろう!」
「な、何でそれを……」
「それで選んだ小遣い稼ぎが、猟奇殺人か! ……とんだ下種野郎だな‼ お前に被害者を殺す権利があったのか? それを映像化して売り物にする資格が、一体どこにあったんだ‼」
額から汗が噴き出した。動揺を抑えきることが出来ない。《死刑執行人》はそんなことまで知っているのか。人間は相手にしないんじゃなかったのか。
気づけば、大橋はベラベラと喋り出していた。
「あ、あんただって分かるだろ!一度組織からはみ出した人間が、一人でやっていくのがどれだけ大変か! 俺達のようなのは、自分が溺れないようにするだけで精一杯なんだ‼ 仕事を選ぶ権利なんざ無え……でなきゃ、とことん堕ちちまう‼ あんたもそうだろう? だから警官を辞めて《死刑執行人》なんぞになったんだろう‼ そして、他のゴーストの命を奪う事で、何とか生き永らえてるんだ……だったら、俺と同じじゃねえか! 所詮、俺達は同じ穴のムジナだ……違うか!?」
「だったら何だ? ……仲間だから見逃してくれとでも言うつもりかよ!?」
(へっ……否定はしねえのか)
今や赤髪の《死刑執行人》は、己の怒りを隠しもせず、ぶちまけていた。大橋はそれを、どこか奇妙な優越感と共に見つめていた。
――仲間? 思い上がりも大概にしろ。俺は人間で、お前は所詮ゴーストだ。最初から俺の方がお前より勝ち組なんだ。
そして大橋は目を剝き、唇を突き出すと、密やかな声で囁く。
「お前に俺を裁く権利が――資格があるのか……? もはや警官でも、何者でもないお前に‼」
ゴーストには人間は裁けない。人間がゴーストに手出しできないのと同じように。だから、このおかしな優劣関係も、本来あってはならない事なのだ。
「……」
すると意外にも、《死刑執行人》の胸倉を掴む手が微かに緩んだ。
と言っても、あくまでほんの僅かで、こちらが身動き取れない事に変わりは無い。だが大橋は、ほんの些細なその変化を見逃さなかった。
大橋には、《死刑執行人》の男が怯んだように見えたからだ。
「本当は人間に戻りたいんだろ? ええ? 元警官さんよ。お前だって、《死刑執行人》じゃなくとも、他に生き方はいくらでもあっただろう! でも、人間だった頃に未練があるから、こんなヒーローごっこ、してんだろうが‼ 違うか!?」
動揺しろ。そして無様に取り乱すがいい。それが、お前のやっていることが偽善だという何よりの証左だ。大橋はそう嘲弄した。それまで、我こそは正義と澄ましこんでいた伊達男の本性を暴き、晒してやることが出来たのだ。一矢でも報いることが出来たことに薄暗い満足感さえ抱いていた。
ところが、赤髪の《死刑執行人》は、大橋が望んだような反応は全く見せなかった。一切の表情が抜け落ちたような、能面のような顔でこちらを見据えている。そのあまりの異様さに、大橋は凍り付いた。
(な……何だ、こいつ……?)
それは疑問というより、警告音に近かった。こいつは何かヤバい。喉がからからに干からび、ごくりと間抜けな音を立てる。それを知ってか知らずか、赤髪の男は場違いなほど鷹揚に口を開いた。
「……お前、何か勘違いしてねえか?」
「な……何がだよ」
「残念だが、俺はゴーストになってこの方、人間に戻りたいなんて一度も思ったことは無いし、未練もない。……どうしてか知りたいか?」
大橋は激しく首を横に振った。知りたくない。何も知りたいとは思わない。だが赤髪の男は、大橋のその反応を何ら顧みることなく、己の奥底にあるその化け物を解き放った。
「――人間に戻ったら、ゴーストをこの手で殺せなくなっちまうからだよ」
嵐で荒れ狂う海底のような、どす黒く濁った瞳。それが大橋を引き摺り込もうと大きくうねり、飛沫を上げている。大橋は息をつくのも忘れ、ただ震えながらそれを見つめ返した。目を離せば、即座に吞み込まれる。それは予感や想像ではなく、はっきりとした確信だった。
「く……狂ってる! お前、狂ってるぞ……‼」
上擦りながら叫んだその声は、もはや悲鳴に近かった。やめてくれ。放してくれ。俺をそっちに引き摺り込まないでくれ。
だが、赤髪の《死刑執行人》は、暗い眼はそのままに、羅刹のような笑みを浮かべる。
「何だ、今更気づいたのか?」
大橋はようやく理解した。自分が開けてはならない箱の蓋を開けてしまったのだという事に。
「ヒッ……‼」
思わず吸い込んだ呼気は、喉の奥で甲高い摩擦音となった。寒いわけではないのに、歯の根がガチガチと乾いた音を鳴らす。
縮こまって全身を震えさせるしかない大橋を、赤髪の男は冷徹に見下ろした。
「俺は《死刑執行人》だ。だから、人間は殺さない。……ただ、それ以上は保証しないがな」
大橋は恐怖に顔を歪める。死んでしまった方がまだマシだ――そう思わせる手段はいくらでもあるのだぞと、言外に脅されているのが嫌でも伝わって来た。
股間が生温かくなり、失禁したのだと分かったが、どうしようもなかった。
赤髪の《死刑執行人》は、それを知ってか知らずか、当初の憎たらしいほど余裕に満ちた笑顔を取り戻して言った。
「さて、と。お喋りはここまでだ。……言い残すことはそれだけか」
「………! ま、待ってくれ! た……助けてくれ! もう、二度としない‼ 約束する‼ だから………‼」
しかし、やはり赤髪の男がそれを聞き入れることはなかった。大橋から突き放すように手を離すと、背後で待機している大男たち(レギオン)に向かって片手を上げ、命令を下す。
「……やれ」
そして、《死刑執行人》が後退するのと入れ替わるようにして、影のような大男三体が一斉に襲い掛かってきた。
「ヒアッ……あああああああああああああああアアアアァァァ‼‼」
大橋は瞠目し、反射的に動いていた。手の中にあるハンドガンを男たちに突き付け、トリガーを何度も引く。もちろん、弾はない。ガチガチと撃鉄のおりる音がするだけだ。だが、そんなことを冷静に判断する余裕は全くなかった。
大橋はパニックに陥った。
咽喉の奥から悲鳴が幾重にもほとばしる。
黒い影の腕が掴みかかってきたかと思うと、体にズンと衝撃が走り、後は何が何やら全く分からなくなった。
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真っ黒い画面の中で、閃光が数回、瞬いた。
それと同時に、何者かが逃げ惑う様子が映り込む。見覚えのある顔――キングだ。
やがて再び、ちかちかと光が瞬くと、画面は再び深い闇に閉ざされてしまった。
これから『撮影』に使用する予定の、ハッキングした監視カメラは、キングが何者かに襲われているさまの一部始終を、克明にパソコン上に映し出していた。
ジョーカーは息をするのも忘れ、食い入るようにそれを見つめていた。先ほどまで啜っていたカップラーメンは既に温度を失い、右手の中でのび始めている。
ジョーカーは顔を強張らせ、冷や汗を流しながら呟いた。
「ちょっと、ちょっと~~。どーゆー事よ、これ。ヤバいんじゃないの~~~……!?」
先ほど瞬いていたのは、キングの拳銃だろう。ただの人間であり、アニムスを持たないキングに武装するよう勧めたのは、外ならぬジョーカーだ。だが、今やそれもすっかり途絶えてしまっている。監視カメラの画像は、底なし沼のような深い闇を映し出すだけだ。
真っ暗になったパソコンの向こうにある光景を見つめ、束の間考え込むジョーカー。
今までこの様な事態は、一度として起こったことなど無かった。ジョーカーが企画立案した『撮影』は、いつだって恐ろしいほどスムーズに実行されてきたのだ。
天才クリエイターである自分が創り出だした計画だ。うまくいって当然なのだ。
ところが、今回ばかりはどうも勝手が違う。
キングを襲った敵が、何者なのかは分からない。画面を注意深く見ていたが、カメラにはそれらしいものは何一つ映らなかった。敵は明らかに監視カメラとそれを覗くジョーカーの存在を把握していて、映り込まないようにしているのだろう。クイーンからの連絡もあれから途絶えてしまっている。こちらから何度か通信を試みるも、一向に繋がらない。ジャックの方も同様だ。もしかしたら、あの二人もキングと同じく襲撃を受けているのかもしれない。
「ってか、絶対これ《死刑執行人》の仕業っしょ……‼」
『敵』が何者なのか。《死刑執行人》以外に考えられなかった。渋谷は《アラハバキ》や《レッド=ドラゴン》の縄張り外だし、愚かなストリートダストたちはジョーカーたちの尻尾すら掴めないだろう。
自分たちの『撮影』を邪魔する能力があり、尚且つそれで得をするのは誰か。《死刑執行人》以外には存在しない。
その時、ジョーカーは不意にあることを思いつき、慄然とした。
「ひょっとして……ここもマズいんじゃね?」
もしかしたらこの場所も敵方に割れているかもしれない。今まで完璧だった『撮影』が邪魔されたのだ。十分にあり得ることだった。
ジョーカーが根城としているのは、築四十年ほどのマンションの一室だ。東京がまだ首都だった頃に建てられた建物で、古いが内装が充実しており、耐震基準もクリアしている。今考えても、お買い得物件だったと、自分でも思う。
余計なモノは持たない主義で、簡素で狭い部屋の中にあるのは、ジョーカーが寝る為の寝台と冷蔵庫だけだ。ジョーカーの作業に欠かせないノート型パソコンも、床にそのまま置いてあるだけだった。
(どうする……? 俺は《リスト入り》してない。する可能性も低い。《死刑執行人》の連中も簡単には手を出してこねえ筈だけど………)
この拠点を手放すのは惜しい。だが、ジョーカーのアニムス《ブレイン・ウオッシャー》は戦闘には不向きであるため、《死刑執行人》と接触した場合、おそらく勝ち目はないだろう。
(やっぱここは、命が最優先っしょ)
やはり、ここにいてはいけない。それは殆ど勘のようなものだった。拠点は探せばいくらでも替えが利くが、命ばかりはそうもいかない。
万一《死刑執行人》に襲われて命を落としてしまったら、元も子もない。
善は急げがモットーだ。ジョーカーは愛用のノートパソコンを閉じると、それを持って玄関に向かい、素早くスニーカーを履いた。服装はパーカーにジーンズというラフな格好だ。モノと同じく、着るものにも拘りはない。
ジョーカーにとって一番大事なのは、『撮影』した動画を芸術作品として仕上げることだけなのだから。
そして玄関の扉を開くと、後は躊躇することなく、長年住み慣れたマンションの部屋を飛び出したのだった。
古びたマンションの、一階のエントランスから外を窺うが、深夜であるせいか通行人の姿もない。通りは静かなものだ。今のところ、《死刑執行人》らしき者の姿も見当たらない。ジョーカーはしばらくじっと息を潜めていたが、やがて意を決してパソコンを小脇に挟み、小走りに路地を走り出した。
キングはおそらく、あの様子ではただでは済まないだろう。最悪、《死刑執行人》に狩られた可能性もある。クイーンやジャックとも、相変わらず音信不通なままだ。おそらく、現状で無事なのはジョーカー一人なのではあるまいか。
(こりゃ、駄目かな。当分潜ったほうがいいっしょ)
何かあった時の為に、アジトは複数用意してある。そしてそれらの中には、クイーンやキングすら場所を知らないものもある。
折角うまくいっていた計画がここで頓挫するのは癪だったが、命には代えられない。




