第37話 坂本一空との再会
深雪は反射的にポケットへと手を突っ込み、その中に忍ばせてあるビー玉を握ると、それを引き抜いた。聳え立つような氷柱が、もうすぐ目の前まで迫っている。深雪は殴りつけるようにして拳をそれに叩き付け、同時に《ランドマイン》を発動させた。
氷柱は破壊したものの、咄嗟のことでうまくタイミングが取れなかった。手を引っ込めないうちに《ランドマイン》を発動させたため、手の甲を火傷してしまったが、それに構っている余裕はなかった。次から次へと新たな氷柱が牙を剥き、攻め込んできたのだ。
「くっ……!」
絶え間なく襲い来る氷の塊は、まるで深雪にビー玉を取り出す暇を与えまいとしているかのようだ。この襲撃者は、深雪のアニムスの欠点を熟知している。深雪のアニムスは《ランドマイン》――地雷というその名の通り、発動させるまでに『設置する』という段階が必要になる。だから、瞬発力には欠けるという欠点がある。
(間に合わない……!)
焦りが背を焦がした。だがその時、シロが深雪の前に飛び出してきて、腰の日本刀《狗狼丸》を一閃させた。
キシャン――と、悲鳴のような甲高い音がして、凶暴な氷柱はみな砕け散る。粉々になった大小の氷は月明かりを艶めかしく反射し、その中を更に細かい氷の結晶がきらきらと舞った。それらが一帯に、妙に幻想的な景色を作りだしていた。
その向こうから、一人の男が姿を現す。禿頭に刻まれているのは、溶けかかった髑髏の刺青。巨体が纏っているのは、Tシャツとミリタリーパンツだ。失った右腕のあった部分には、SFの世界から飛び出してきたような機械電動式義手が嵌められている。
かつて《ディアブロ》の頭だった男は、氷の結晶を纏い、王者のような風格でその場に立っていた。
「坂本一空……‼」
「覚えてもらっていたとはな。光栄だぜ」
坂本は不気味な笑みを顔に張り付け、ゆっくりと深雪の方に歩いて来る。鋭利な瞳には妙に力の籠った光が煌めいている。
「よう。久しぶりだな、雨宮深雪。あの時の決着をつけようぜ」
「……‼」
凄みの利いた声。全身から陽炎のように燃え上がる殺気。深雪の頬を、冷たい汗が伝う。
(こいつ……本気だ)
坂本の、眼光の鋭さは尋常ではない。威圧感があるだけでなく、何か狂気じみた激しさを感じる。深雪はそれを睨み返しながら、《ディアブロ》の手下たちが坂本について言っていたことを思い出す。
『ただ……チームから抜けたのは確かだ。俺らは引き留めたんだけど、自分にはもう資格が無い、ケリをつけたいからって……』
(あれは、この事だったのか……!)
坂本にとって、深雪に『負けた』という事はそれほどの屈辱だったのだろう。チームも頭という地位も、全てを投げ打って構わない。そう思うほど、許せないことだったのだ。坂本にとって深雪は《東京》に来たばかりの新参者だ。確かにそんな格下に負けたとあっては、プライドもズタズタだろう。
ただ、坂本の腕を実際に切り落としてしまったのはシロなのだが、坂本にとってはそんなことより、深雪に勝つことの方が重要なのかもしれない。
(やるしかないのか)
坂本の落ち着きぶりを見ると、入念に下準備をし、事に挑んでいるようだ。思い付きやその場の感情で動いているのではない。適当にあしらって追い返すなど、できそうにもなかった。
しかしここで戦えばバンを巻き込むし、最悪の場合、下で戦っている流星やオリヴィエにも影響か出るかもしれない。折角ここまで犯人グループを追いつめたのだ。《死刑執行人》を完全に受け入れられるわけではないが、だからと言って坂本のために犯人たちを取り逃がし、《新八洲特区》や《東京中華街》に逃げ込まれては堪らない。
「……何? 何かあったの!?」
腕輪型端末の向こうで、マリアが声を張り上げる。しかし深雪は、
「何でもない」
と答えると、通信を切った。
「ちょっと、深雪っち!?」
最後にマリアの半ば咎める声が聞こえて来る。それでも、深雪の決意は変わらなかった。シロが不安げな視線を送ってくる。
「ユキ……?」
「シロはここにいて」
「う、うん……。でもユキはどうするの?」
「大丈夫。すぐ戻るから」
深雪は次に、坂本に向かって言った。
「場所を変えよう。いいだろ?」
「ああ。構わねえぜ?」
坂本は口の端を吊り上げた。どこへ行こうが、お前を逃さない――坂本の笑みはまるでそう言い表しているかのようだった。深雪はそれに戦慄を覚えつつも、駅とは反対の方向へ走り出す。坂本もぴったりと後ろをついて来る。
「待って、ユキ‼」
シロも駆けだそうとして、はたと立ち止まり、心配そうに後ろを振り返った。バンの存在を思い出したのだ。深雪に続いてシロもここを離れたら、バンの守りが手薄になってしまう。もし仮に犯人たちが戻ってきた場合、再び連れ去られてしまうかもしれない。
その時、腕の通信機器が細かく振動した。シロは通話機能をオンにする。
「シロ……何? 何があったの!?」
「マリア!」
シロはたどたどしく坂本の襲撃を説明した。男が異常に攻撃的だったこと、深雪が坂本を連れ、走り去ってしまったことも。
「そう、《ディアブロ》の頭が……! よりによって、こんな時に……‼」
珍しく焦りを滲ませるマリアに、シロは尋ねる。「どうしたらいいのかな?」
「シロはその場に待機。トラックの中の子達を守って」
「う、うん。でも……ユキは?」
「何とかしてあげたいけど、こっちも人員が割けない状況なのよ。犯人グループを決して逃がすわけにはいかない……このまま予定通りいくわ。終わり次第、深雪っちの救援に回すから。それまでもってくれればいいけど……今は深雪っちを信じるしかないわね」
「マリア、でもあいつ本気だったよ。本気でユキを殺そうとしてる……!」
シロの声は切迫していた。それは勘の鋭い彼女が、本能的に感じた取った危険だった。マリアもシロがそういった能力に長けていることは重々承知だ。だからそれを、心配しすぎだと否定するようなことはしなかった。
「ったく……どこまでも手間をかけさせるんだから! ムカつくけど……超ムカつくけど、まだ死なれたら困るのよ!」
「マリア?」
「そっちは何とかするから、シロは絶対そこから動かないこと! いい?」
苛立ちを隠しもせずにそう言うと、マリアは一方的に通信を切る。
「ユキ……!」
シロはそれを聞いて複雑な表情を浮かべる。己に課せられた役目は分かっている。事務所のみんなのためにも、六道のためにも、与えられた仕事は果たしたい。
しかし、禿頭の男はあまりにも危険だ。このままではきっと、深雪の身が危ない。
事務所の者はみな、重大な事件のために手が塞がっている。
だったら、自分が動くしかない。
シロは決心した様に唇を引き結ぶと、深雪と坂本の走り去っていった方向へと駆け出した。
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その頃、東雲探偵事務所は人けもなく、闇に閉ざされていた。
ジャックこと、長谷川康介は、ミーティングルームの中にただ一人残されていた。椅子に座らされ、両手を後ろ手に回されて枷を嵌められたままだ。
日はとうの昔に落ち、代わりに真ん丸の月から放たれる青白い光が、僅かに開かれたブラインドから長谷川の背中を照らす。そして、その輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
抵抗することすら許されず、椅子に縛り付けられた長谷川はしかし、事態の打開を何も探っていないわけではなかった。上半身をぎこちなく左右させると、その反動を利用して小器用に手首を動かしている。パンツのベルトに、いざという時の為に細い針金を仕込んでいたのだ。子供のころから、ピッキングは得意だった。長谷川の《ステルス》は、空き巣やスリを働くのにとても便利だったのだ。
手首を極限まで折り曲げ、何とか針金の先を鍵穴へ通す。小一時間ほど格闘したが、解錠出来る気配はない。長谷川に嵌められている枷は、どうやらゴーストのために特別に設えられたものらしい。中途半端に外せるような作りにはなっていないのだろう。
これは駄目か――? そう思って諦めかけた時だった。突然、ガチャリと音を立て、枷が解錠したかと思うと、腕を拘束していた金属の塊が、ごとりと重々しい音を立ててそのまま床に落ちた。長谷川は虚を突かれた。錠を破った手ごたえは全くなかったのだが。
だが、兎にも角にも自由を得たのだ。これを逃さない手はなかった。
「へっ……へへ。何が東雲探偵事務所だ。全っ然、大したことねえな……!」
長谷川は唇を吊り上げると、《ステルス》を発動させた。瞬く間に、大きなアフロ頭も血糊のついたシャツも、全てが背景に溶けて見えなくなる。これで、例え《死刑執行人》と出くわしても安全だ。相手は長谷川の存在を捉えることさえできないだろう。
実際、《ステルス》を発動させている間に、誰かに存在を勘付かれたことは一度としてないのだから。
長谷川は椅子から立ち上がってみた。先ほど、眼帯をした男に腿を手酷く傷つけられたが、何とか歩くことができそうだ。血を失い過ぎて眩暈もするが、かといってここで悠長に過ごしていたら、東雲探偵事務所の連中が戻ってきてしまうだろう。そうなったら、永遠に逃げる機会は失われてしまう。
激痛の走る足を引き摺りながら歩き出し、そのままミーティングルームを後にする。そして、薄暗い事務所の廊下へと踏み出した。建物の中は静まり返っている。人の気配は全くと言っていいほど無く、誰も居ないようだ。
それでもどこかに潜んで、こちらを見張っている可能性はある。長谷川は物音を立てないように用心深く事務所を抜け、外に出ると同時に、全速力で走り始めた。と言っても、足が負傷しているのでいつもの半分ほどのスピードしか出せなかったが。
自身の持てる限りの力を尽くし、よろめきつつも疾走した
「ふん……何が《死刑執行人》だ。脅しやがって……チョロイじゃねーかよ!」
長谷川は《ステルス》で姿を消したまま、路地を駆け抜ける。人っ子一人、出くわさなかったが、念のためだ。
やがてすぐに、人通りの多い繁華街に出た。通りは決して広くないのに、大勢の人で溢れ返っている。そこまで来て、ようやく長谷川はほっと息をついた。ここまで来れば、流石に追手も来ないだろう。それに、流石にこんな人通りの多い場所で、堂々と仕掛けて来るとも思えない。
長谷川は人ごみに紛れると、そこで《ステルス》を解いた。このアニムスの欠点は、長時間発動し続けられないことだ。もって十分、それ以上は集中力が続かない。キングは長谷川の幼稚な性格のせいだとなじるが、できないものはできないのだ。仕方ないではないか。
そのキングとも早急に合流し、《死刑執行人》に狙われていることを伝えなければ。長谷川は、パンツのポケットに両手をつっこみ、背を丸めて出来るだけ目立たないよう周囲に気を配りながら歩き始める。
「……くそ、タブレット取られたままだったっけな」
全身のポケットを確認してみるが、タブレットは何も無い。板状のものも、腕輪型も、両方だ。長谷川は思わず舌打ちをした。
「ジョーカーに連絡が取れねえ……キングの奴、またうるせえ事言うんじゃねーだろな……」
神経質なモグラという比喩がぴったりの、キングの風貌を思い浮かべる。あの人間風情が長谷川のことを明らかに無能と馬鹿にしていて、見下しているのは知っている。ムカついて仕方ないが、へまがばれて嫌味を言われるのはもっと嫌だ。速やかに合流して、失点を取り戻さねばなるまい。
合流した時のキングの表情を想像し、長谷川は早くもうんざりした。ぶつくさと文句を言いながら、人波に紛れて歩を進める。
足の負傷のせいで時折ひどくふらついたが、夜の繁華街には他にも酔っ払いが大勢ふらふらと歩いている。だから、長谷川が特に目立つという事も無かった。
その時、前方から薄汚い恰好をした、地味な娘がやってくるのが見えた。
十代の半ばほどだろうか。鼻の頭にはそばかすが浮かび、髪の毛は癖だらけ、目は大きいが痩せすぎてぎょろりとしている。栄養状態も良くないのか、足取りもフラフラと覚束ない。世界中の誰ひとりとして、そんな娘など相手にしないだろう。
現に、周りにいる者は誰も彼女に振り向きもしない。
ところが、娘は長谷川に向かってニッと笑いかけてきた。どうやら彼女はこちらに好意を抱いたようだ。しかし長谷川は不愉快になってその娘を睨みつけた。お前なんか、相手にしてたまるかよ。『撮影』のターゲットにもならない小娘なんて、存在する価値もない。そう突き付けてやったつもりだった。
そして、半身をひょいと傾けて娘をやり過ごすと、次の瞬間、長谷川はその娘の事をすっかり忘れてしまった。
それくらい、長谷川にとって娘はどうでもいい、取るに足らない存在であった。
しかし、その小汚い娘は長谷川とすれ違いざま、それまでのフラフラとした足取りからは信じられないほど素早い身のこなしを見せた。
そして手の中にあった、先端が巨大な釘に似た道具――峨嵋刺を、長谷川の首の後ろの根元に深々と突き刺した。峨嵋刺は長谷川の首を串刺しにし、喉まで突き抜ける。
「がッ………?」
全ては一瞬の出来事だった。周囲の人間は、異変に気づきもしない。
娘の突き刺した峨嵋刺は、長谷川の脊髄の真ん中を間違いなく的確に破壊していた。
長谷川は両目を見開いた。何が起こったのか、全く理解できない。ただ、大きく仰け反った弾みで、上空にぽっかりと浮かぶ月が視界の中に入った。それがやたらときれいだなどと、場違いな感想を抱いていた。
娘はそのまま、釘のような暗器を長谷川の首から引き抜く。その瞬間、長谷川の口や鼻から、血がどっと溢れ返った。そしてその体は糸の切れた人形のようにその場に頽れた。
長谷川は最期、大きくに開いた眼で僅かに後ろを振り返る。そこには先ほどフラフラと歩いていた筈の地味で冴えない娘が、虫けらの死骸でも見つけたかのように、冷ややかに長谷川を見下ろしていた。先ほど、長谷川が彼女を醜いと一笑に付した時とは、まるで真逆の状況だ。長谷川は何故、と胸に疑問を浮かべる。何故、この俺がお前なんかに見下されなきゃなんねーんだ。取るに足らないような存在のお前が、何故、俺を。
すると、娘の姿が一瞬、乱れた動画のように歪む。そして、見覚えのある者――東雲探偵事務所で神狼と呼ばれていた、チャイナ服を纏った少年の姿になった。
(お……ま、え………)
しかし、少年はすぐに娘の姿に戻る。そしてそのまま、すっと人ごみの中に消えていく。
そして、その頃には既に長谷川も絶命していた。首の後ろから血が夥しく流れ出し、地面に赤黒い水たまりを作っていく。
「ちょっと……何?」
「おい、死んでる……死んでるぞ!」
その頃、ようやく周囲を歩く人々も異変に気付き、騒ぎ始める。一帯は繁華街で、酒に酔い潰れてひっくり返る酔っ払いなど珍しくはない。だが、そのひっくり返った人間が大量出血しているとなれば、話は別だ。あっという間に人だかりができ、通りは騒然となった。
長谷川のぽっかりと見開いた虚ろな眼球が、ただその様を空虚に見つめていた。
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クリムゾンの色をした大型のナイフが暗闇で閃く。
そして一瞬の後、獲物を追い、一直線に空を斬った。
全部で五本のナイフはしかし、獲物を仕留め切ることなく、壁に次々と突き刺さる。
「ひゃはっ! マジ、超ウケるし! どこ狙ってんだよ!?」
甲高く耳障りな声が、地下空間に響き渡る。クイーンは存外にすばしっこく、オリヴィエの攻撃を見事に避け続けていた。中央の空間は広いが、奥には入り組んだ通路がいくつもあり、身を隠すスペースが幾らでもあるのだ。
だが、オリヴィエに焦りはなかった。どこに逃げようとも、この血は決して獲物を逃さない。それに相手にも体力の限界がある。ただ、淡々と追い、反撃に対処するのみだ。
すると、そう思っていた矢先に、クイーンが物陰から飛び出してきた。
「行くよ? 行くよ!? 行っちゃうよオオオオオォォォォォ!?!?」
クイーンは目を剝いてニタリと笑うと、その瞳孔に赤い光を灯らせた。そして次の瞬間、がぱっと極限まで口を開ける。
その口から、何か耳を圧迫するような空気の塊が放たれた。オリヴィエは咄嗟に身を翻してそれを避けるが、一瞬後、背後で大きな爆音が轟く。振り向くと、傍にあった柱が爆破されたように粉々になり、コンクリートの塊が崩れ落ちていた。粉塵が舞い、空気が急激に埃っぽくなる。
「これは……衝撃波?」
呟く間もなく、クイーンは次から次へと衝撃波を発する。
「ほら、ほらほら! 《死刑執行人》が逃げ回ってちゃ、ヤバいんじゃないの~!?
ヤバくね? これマジ、ヤバくね!?」
クイーンのアニムスは《ソニック・プレス》――その名の通り、音波を凶器にしてしまう能力だ。声帯を自在に操り、強力な音の衝撃波を生みだして、それを放つことができる。勿論、強弱の調整も可能だ。その衝撃を間近で受ければ、例えゴーストといえどもひとたまりもない。
《ソニック・プレス》によって被害者役の少女や加害者役の男を気絶させ、捉えるのがクイーンの役目の一つだった。




