第33話 強行①
ただ、深雪がそのような反論をしてくることを、マリアは想定していなかったのだろう。沈黙の中には、いくらか意表を突かれたような気配があった。
やがてマリアは、苦々しさを込めた声で呟く。
「ふうん……あくまで自分の意見は変えないってワケ。そういう融通の利かないとこ、そっくりだね。さすが親子」
「えっ……!?」
何故、そこで親子という単語が出てくるのか。深雪は混乱するが、マリアはお構いなしに会話を進める。
「ま、別にどうでもいいけど? 深雪っちは深雪っちの道を突き進めばいいよ。ただ……あたしの邪魔したら許さないからね」
そして、言いたいことだけ言い終わると、用は済んだとばかりに、ウサギのマスコットはふつりと姿を掻き消してしまった。
「ち、ちょっと待って、マリア!」
深雪は慌てて叫んだが、間に合わなかった。薄暗い事務所の廊下には、深雪ひとりがポツンと残される。
「親子って……確かにそう聞こえたけど……何でマリアが……?」
最初は聞き間違いかとも思った。だが、確かにマリアはそう言ったように聞こえた。
『親子』というからには、深雪の両親のどちらか、或いは両方を指しているのだろう。
しかし何故、マリアが深雪の両親のことを知っているのだろうか。それも、個人情報だけ知っているというよりは、人格部分も含めて熟知しているという様子だった。
父はごく平凡なサラリーマンで、母もやはり平凡な高校教師――とくに有名人だというわけでもない両親と、マリアがどうして繋がっているのか。
(マリアは確か、むかし情報屋だったんだっけ……)
しかし、それ以上の事は何も知らない。どうしてマリアが情報屋になったのか、何故、いつもウサギの分身を用い、皆の前に姿を現さないのか。どういう経緯で、東雲探偵事務所の専属になったのか。
考えてみれば、深雪は声と名前以外、何も乙葉マリアのことを知らない。
(父さんと、母さん……か)
両親とは、二十年前に別れたきりだ。生きているなら、今頃は六十近くになっている筈だ。この間確認した時、実家はすでに取り壊されていた。ということは、すでに二人はこの《東京》を後にしているのだろう。
深雪が《冷凍睡眠》に入るとき、斑鳩科学研究所はその旨を両親に告知すると言っていた。
二人は深雪がまだ生きていることを知っている。だが、だからと言って実際に会うつもりにはなれなかった。
深雪は《ウロボロス》を滅ぼした凶悪ゴーストだ。当時、世間的にもかなり話題になった。二人とって、深雪は忌むべき存在だろう。いっそ死んでくれていた方が良かったとすら思っているかもしれない。
(迷惑ばかりかけて、親孝行も何一つできないなんて……)
そう思うと、自分が情けなくて仕方ない。ゴーストになっただけでも、申し訳ないのに、その上、凶悪犯になってしまうなんて。
両親と会いたいという気持ちがある一方で、実際に会うのは恐ろしい気もした。
廊下でそんな取り留めのないことをぼんやり考えていると、目の前にふと人が立つ気配がした。
はっとして顔を上げると、いつの間にか奈落がそこに立っていた。常時と変わらず、気味が悪いほど足音が無い。だが、奈落のその癖にも、だいぶ慣れてきた。
「奈落……」
奈落は感情を感じさせない瞳で深雪を見下ろしている。その眼は怒っているようでもあり、こちらを憐れんでいるようでもあった。会議室でのいざこざを、今ここで怒るつもりなのだろうか。そう思って身構えるが、いつまで待っても奈落の拳が飛んでくることはなかった。
「……殴らないんだ?」
警戒態勢で尋ねると、奈落は冷然として答える。
「殴って欲しいのか」
「んな訳ないでしょ。ただ……今までのパターンから推測しただけだよ」
すると奈落は、懐から煙草の箱とライターを取り出しながら口を開く。
「世の中の人間には大体、二通りある。一つは殴れば大人しく言う事を聞く奴、もう一つはますます言う事を聞かなくなる奴だ」
そして、咥えた煙草に火をつけると、ふうっと煙を吐き出し、付け加える。
「効果もない奴を一々殴り飛ばすほど、俺も暇じゃない」
「えっと……つまりそれは、怒ってないって事?」
「お前のやることなんざ、お見通しだ。いちいち、腹を立てていられるか」
怒っているのかいないのか、いまいちよく分からないが、どうやらこの様子だと殴られることはなさそうだ。
深雪がそう解釈して胸を撫で下ろしていると、頭上から氷柱のような言葉が降りかかってくる。
「……まあ、胸糞が悪いのは事実だがな」
「……。やっぱり怒ってんじゃん」
深雪は小さく呟いた。しかし、無条件で拳が飛んでこなくなっただけでも、関係が進歩したと考えるべきなのか。奈落の言葉は裏を返すと、深雪のことを、最初は殴りさえすればどうとでもなる奴だと思っていた、ということだからだ。ある意味、人格を完全に無視していたのだろう。
それが多少なりとも、変化の兆しを見せ始めた。
良いことではないか。
……ただ、その実感は甚だ希薄だったが。
そんなことを考えていると、奈落は小型のタブレット端末を取り出し、何者かと会話し始めた。深雪はその光景を意外に思う。今の時代においては、通信機器は腕輪型のウェアラブル端末が主流だからだ。だが、よく考えてみると、会話を聞かれたくない時などには不向きかもしれない。
奈落も事務所から支給されている腕輪型の端末を持っているから、タブレットの方は完全にプライベート用なのかもしれない。
「……マリア?」
深雪はそう尋ねた。会話の内容が聞こえたわけではない。ただ、タブレットを耳にかざした瞬間、奈落が珍しくぴくりと反応したので、そうではないかと推測した。
それは赤の他人が見ても、殆ど分からないほどの小さな変化だ。だが、共に行動する時間の増えた深雪には、見分けることができた。
すると奈落は短く、
「いや、赤神だ」
と、答える。そして、所長室へと足を向けた。
(何の話をするんだろう)
流星と奈落、そして六道。三者のみで何を話し合うのか。
決まっている。この猟奇連続殺人事件に関することだ。それも、おそらくは皆の前では口に出せないようなことを話題にするのだろう。
そうでなければ、所長室ではなく、会議室で話せばいいことだ。
気にはなったが、深雪にはそれを問いただす権限はない。強引に割り込んだところで、つまみ出されるのがオチだ。
何より、愚図愚図している時間はもうない。タイムリミットはすぐそこまで迫っている。深雪にも譲れないものはあるが、同時に人命を最優先にしなければならないという事も、嫌というほどよく分かっていた。
マリアに言われずとも、己の言動の限界は自分が一番よく知っている。今の自分には、奈落を呼び止める資格がない。
代わりに深雪は、奈落の背中に声をかけた。
「ありがとう、あの時、止めてくれて」
「何?」
奈落は歩みを止め、眉を寄せてこちらを振り返る。
「ジャックは最低な奴だ。でも、あのまま続けるのは良くなかったと思う。ジャックのためじゃない。あの場にいたみんなのために……」
それは何のてらいも無い、深雪の率直な本音だった。しかし、深雪はその言葉を最後まで言い終わることができなかった。奈落が身動ぎしたかと思った次の瞬間、首元にアーミーナイフが突きつけられていたのだ。
「……っ!」
まさに閃光のような鮮やかな動きに、反応することすらできなかった。ナイフにはジャックのものと思しき赤黒い血痕がこびりついていて、ナイフの輝きを鈍いものにしている。深雪は眼球だけを下方に動かしてそれを見つめた。生々しい恐怖が背中を這い上がり、額に冷たい汗が滲むのを感じる。
「お前のような奴は、長生きしない。……何故か分かるか?」
奈落の問いは、気味が悪いほど静かだった。ただ、片目だけが煌々と闇に潜む獣のようにこちらを睨み据えている。深雪は喉を引き攣らせながら、何とかそれに答えた。
「む……ムカつくから?」
「阿呆。集団にとって異物だからだ。異物は排除される。力がなければ、そこで容赦なく圧し潰される」
そして奈落は、やはり静かにナイフを下ろし、それを腰の鞘に納めると、最後にぼそりと言った。
「……よく覚えとけ」
今度こそ、所長室の中へと消えていった奈落の後姿を、深雪はただ黙って見送った。
凄腕の傭兵が最後に告げた、言葉の意図を考える。声が淡々として、はっきりとその真意が読み取れなかった。深雪の身を案じての忠告のようにも聞こえたし、或いは「今度やったら、ぶっ殺すぞ」という脅しのようにも聞こえた。
(集団にとっての異物……か)
その意味が全く理解できないわけでもなければ、身に覚えが無いわけでもない。先ほどの深雪は、まさにこの事務所内の『異物』だっただろう。
(でも……俺は)
そこまで思い及んだものの、深雪は唇を嚙んだ。今の深雪には、それ以上のことを主張する立場にはない。どんなに叫び抗っても、この大きな流れを変えることはできない。他にもっと方法があるのではないかと、それを証明してみせるだけの『力』がないのだから。
ともすれば心を支配しそうになる空虚さを、深雪は必死で振り払う。
自分を卑下するのは簡単だ。己を何の力もない、弱々しい人間だと嘆くのは、痛みをもたらす一方で一種の甘美な陶酔感も伴う。だが、そこに甘んじていては、いつまでたっても先へは進めない。壁にぶち当たったからと言って、項垂れていてはいられないのだ。
深雪は六道が中にいるのであろう所長室を、じっと見つめ続けた。
いつか、必ずあの扉を自力でこじ開けて見せる――と、そう決意を固めながら。
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最初に、六道の部屋に入ってきたのは流星だった。ジャックこと長谷川康介が吐いた情報を、いつものように一通り六道へと報告している。
対する六道は執務机の椅子に腰かけ、目を閉じ、黙ってそれに耳を傾けていた。
六道とは無言で向き合うだけで、背筋が張り詰めるほどの緊迫感を感じさせられる。《中立地帯の死神》という異名も伊達ではない。報告役の流星にはいつも同情するが、流星もああ見えて図太いところがあるので、慣れてしまっているのかもしれない。
マリアはその様子をモニター越しに見つめていた。斜め上から部屋全体を見下ろすアングル――そう、カメラ映像だ。
この事務所には、監視カメラが至る所に設置されている。目的は、防犯ではない。マリアが事務所の内部を把握するためだ。勿論、六道の了解は得ているし、事務所の他の面々もその事実を知っている。
だから皆、平素はあまり事務所にいつかない。『盗撮』されていると分かっていてくつろげる者など、そうはいないだろう。
だが、マリアはそれでいいと思っている。ここはマリアのマリアによる、マリアの為の城なのだから。
ただ、奈落のあたりはそれを快く思っていないらしい。マリアの事を執拗に引きこもり呼ばわりするのもその為だ。
確かにマリアが部屋の外に出れば、カメラは必要なくなる。だが、今のところそうするつもりは無かった。それどころか、できれば各々の個室にもカメラを設置して欲しかったくらいなのだが、それはさすがに却下されてしまった。すこぶる、残念だ。
もっとも、全ての情報がすぐに手に入ってしまったら面白くない。いつか、絶対にこの野望を達成してみせる。それを考えるのもゲームみたいで悪くない。
「……そうか、突き止めたか」
流星の報告を聞き終えた六道は、ゆっくりと両の眼を開く。落ち窪んだ眼窩の奥底で煌めく眼光は、凶暴でありつつも決して理性を失っていない。鋼のような強い意志で満ちている。
「今、マリアが現場を絞り込んでいます。三十分ほどで上がって来るかと」
「よし。これ以上犠牲を増やすわけにはいかん。今日中にけりをつけろ。《死刑執行対象者リスト》については、俺から法務省に手を回す」
ここまではいつも通りの流れだ。だが、今回は少々問題がある。マリアが眉をしかめると同時に、流星が口を開く。
「それが……一つ問題が」
「何だ」
「犯人グループの中に洗脳系のアニムスを持った者がいるようですね。……《リスト入り》が困難になるかもしれません」
警視庁が発行する対ゴースト指名手配書――いわゆる《リスト》に入っているゴーストは、人間で言うと、無期懲役や死刑に該当する凶悪犯ばかりだ。ゆえに厳正なる捜査と、詳細な審議の上で、明らかに《リスト登録》に相応しいという証左を得ることが重要となる。
しかし、《監獄都市》で起こるゴースト犯罪は、数の多さや悪質性から、その基本理念が脅かされる事態も数多く発生する。
精神系のアニムスによる犯行もその一つだ。何者かがアニムスを用いて洗脳した、或いは操った――そういった事象は検証するのが難しく、犯行の事実があったとしても、《リスト登録》まで漕ぎつけられない例も決して珍しくない。
(ただ、だからと言ってこのまますんなり諦めちゃうってのはね~。有りか無しかで言えば、無しっしょ)
いくら《死刑執行人》といえども、《リスト登録》していないゴーストを殺すことは、相当にリスクがある。それがどんなに重大な犯罪に手を染めた凶悪ゴーストだとしても、《リスト登録》していなければ、ただの殺人であり秩序を乱す暴力行為だからだ。法的順序や手続きを無視すれば、逆に《死刑執行人》が《リスト登録》されかねない。
だが他方で、《リスト登録》が不可能だったから、などという理由で犯人たちを逃がせば、それこそ《監獄都市》の秩序が根本から崩壊する可能性もある。
犯罪者ゴーストたちは狡猾だ。《死刑執行人》がどこまで踏み込み、どこでブレーキをかけるか。その境界を常にずる賢く探っている。
(ま、ジレンマって奴よね~)
犯行に精神系のアニムスが用いられたことについて、ジャックの証言があるにはある。だが、それだけでは《リスト登録》は認められないだろう。過去にも似たような案件はあった。
去年、あるゴーストが精神を操るアニムスを用いてチームをまるまる一つ乗っ取り、派手な抗争を起こすという事件が起きた。原因は、付き合っていた女性に振られた腹いせという、絶望的なまでにしょうもない理由だ。その時はアニムスの存在を立証できなかったばかりに、《リスト登録》に時間がかかり、数百人の死傷者が出た。
同じ轍を踏むのは、何としても避けたいところだ。
ただ、状況は決して芳しくなかったが、マリアは全くそれを懸念していなかった。所長である六道が何を選択するか。マリアには粗方、想像がついたからだ。
そして六道は、マリアの想像通りの言葉を口にした。
「……奈落を呼べ」
それを聞いた流星も、六道が何をするつもりであるのかを悟ったのだろう。
「所長……!」
と、微かに表情を強張らせ、語調を荒げる。しかし、六道が己の信念を曲げることは無い。
「こういった時の為に、奴がいるのだ」
マリアは内心で喝采を挙げた。それでこそ東雲探偵事務所の所長、それでこそ《中立地帯の死神》だ。六道のそういう姿に共感したからこそ、こうしてついて行こうと決めた。流星もここにいるからには同様である筈だし、それ以上、何か言う事は無いだろうと考えていた。
ところが、マリアの想像に反し、流星は尚も食い下がる。
「しかし……《リスト》はどうするつもりですか? 自ら秩序を逸したなら、《死刑執行人》が存在することの正当性そのものが失われることになりかねませんよ!」
マリアは、おや、と思った。流星が六道の考えに異論を唱えることは非常に珍しいからだ。というより、今まで殆ど無かったといっていい。
それが今日に限って、どういう心変わりだろう。
すると、六道も同じことを感じ取ったのか、何か面白がるような口調で言った。
「どうした、らしくないな。誰かに触発でもされたか?」
「いえ、そういうつもりでは……」
言葉を濁す流星に、六道は尚も冷徹に畳み掛ける。
「赤神、我々は『警察』ではない」
「……!」
「我々には、最初から正義など無い。……そうだな?」
流星が、眉間を寄せるのが分かった。明らかに、六道の言葉に反発を抱いている。マリアは苛々した。どうして。今まで、そんな表情をしたことは無かったのに。どんなに六道の命令が残酷で不本意なものだったとしても、流星はいつだって黙々と役目を果たして来た筈なのに。
しかし、流星の見せた拒否反応は、ごく一瞬のことだった。
「責任は俺が負う。必ず狩れ。……いいな」
六道の下した命令に、流星はいつもの表情で、
「……了解です」
とだけ答えたのだった。
そう、六道の答えは、たとえ《リスト登録》が間に合わなくとも、今回の犯人グループを殲滅する、ということだった。ジャックやジョーカー、総勢四名をぶっ殺す。マリアたちが、いつもそうしているように。東雲探偵事務所は、絶対に狙った獲物を逃がさないのだ。
ただこれには、事務所側も多大なリスクを背負うことになる。《死刑執行人》の制度を根底から無視した違法行為なのだ。下手に立ち回ったなら、逆にマリアたちが《リスト登録》されることになってしまう。
だから成功させるには、外部に一切バレずに遂行することが絶対条件となる。
そう何度も使える手ではない。正当性も全く担保されていない。だがそれでも六道は、《監獄都市》の秩序を維持する方を選んだのだ。




