第26話 大樹
もはや立っているのも難しいほどの泥酔状態。
各務はよろけた拍子に足をもつれさせ、近くにあったゴミ捨て場のゴミ山に頭から突っ込む。
深雪は慌てて倒れた各務に駆け寄った。その瞬間、強烈な酒臭さが鼻先を掠める。
「各務! 大丈夫か!?」
どうにか助け起こすと、各務は焦点の定まらない濁った眼を深雪に向け、呂律の怪しい口調で尋ねてきた。
「だ……誰、だぁ……!?」
「俺だ。東雲探偵事務所の雨宮深雪だよ。上松組兄派が壊滅したと聞いて心配してたんだ。無事だったんだな!」
「ブジ……だはははは! 当ったり前だろうがよ、おい! 心配性だな、《死神》さんはよぉ……!」
「えらく酔ってるな。《コキュートス》の仲間はどうしたんだ? 今日は一緒じゃないのか?」
すると、それまで気味が悪いほどの上機嫌だった各務は、急にしかめっ面になった。
「《コキュートス》ぅ……!? チームは無事だよ。特に死んだ奴もいない」
「そうか、良かったな」
ほっとする深雪だったが、各務はますます不機嫌になってしまう。
「良くねえ! 何も良くねえよ!! 上松組兄派が壊滅したせいで、みんな拠り所を失ってすっかりやる気を失っちまった。それだけじゃねえ……チームメンバーの半分は《コキュートス》を抜けちまったんだ!!」
「え……! な、何故そんなことに……!? 喧嘩でもしたのか!?」
「そんなんじゃねーよ! 上松組弟派が勝利したことで、これからは弟派に属しているチームが今まで以上に台頭するようになるだろ。必然的に、兄派のチームは肩身が狭くなる。《コキュートス》は兄派チームとしてけっこう有名だったからな。このままチームに居続けたら命が危ないかもしれねえって……そう考えた約半数がごそっと抜けたんだよ!!
畜生、あいつら今まで支え合ってきたのに、簡単に裏切りやがって……! せっかく上手くいくと思ったのに、俺達の人生は全部パアだ!!」
そして各務は乱暴に酒瓶を煽る。
(それでやけ酒を飲んでいたというわけか)
これまで《中立地帯》のゴーストは《アラハバキ》と一定の距離を取ってきた。法で裁かれないとはいえ、《アラハバキ》は立派な闇組織だ。いかに《中立地帯》のゴーストとはいえ、そんな奴らと積極的に関わりを持とうとする者はそう多くない。
ところがここ最近、上松組の半ば恫喝ともいえる強引な勧誘やカジノ店《エスペランサ》の仲介などもあり、《アラハバキ》に所属することを選ぶ《中立地帯》のチームは激増している。
《コキュートス》もその一つだった。
彼らは上松組兄派の傘下組織となることを選び、兄派と密接に連絡を取り合っていた。深雪は《アラハバキ》とは距離を取るよう何度も各務に忠告したが、彼はそれを聞き入れなかった。
とはいえ、《コキュートス》を一方的に責めることはできない。彼らも街の勢力図が激変していることを敏感に察知し、《アラハバキ》に近づいた面もあるだろうからだ。
確かに、何の力も持たない《中立地帯》のチームにとって、《アラハバキ》は大きな後ろ盾になり得る。
けれどそれは同時に、《アラハバキ》の内部情勢の影響を直に受けるという事でもあった。
上松組の跡目争いは弟派の勝利で片がついた。それは兄派の凋落、もしくは消滅を意味する。当然、兄派と深いかかわりを持っていた《コキュートス》も危うい立場に立たされることになるだろう。《コキュートス》のメンバーもそれを優に想像することができたからこそチームを離れたのだ。
深雪は各務を助け起こそうと彼の体を支えながら窘める。
「それはショックだな。でもだからって、酒を飲んで酔っ払ってる場合じゃないだろ。お前は頭なんだぞ。こういう時こそ残ったチームメンバーを支えてやらないと……」
だが、その忠告は各務の神経を逆撫でしてしまったらしい。彼は激昂して怒鳴り返す。
「う……うるさい! うるさい!! お前に何が分かる!? 偉そうに口出しするな!! いつもいつもこれ見よがしに正論を振りかざして馬鹿にしやがって! さぞや気分がいいだろうな、そうやって底辺の人間を見下して楽しいか!? 気持ち悪ィんだよ、マウント取りのクソ野郎!! とっとと行っちまえ!!」
そして各務は深雪の手を乱暴に振り払うと、よろめきつつも立ち去っていった。そのあまりの激しさに深雪はただその場に立ち尽くし、彼の後姿を見つめるしかなかった。
各務はいつも深雪を嫌い、反発してきた。
《アラハバキ》は危険だ、近づいたところで利用され尽くして捨てられるだけ。どれだけそう説いても耳を貸さなかった。
そして今回もやはり深雪の言葉には頑として耳を傾けない。
何故、各務はそうまでして深雪を嫌うのか。間違った道を進み、チームメンバーの半分を失っても、それでも深雪の言うことは受け入れられないのか。
あまりにも頑なな拒絶に、深雪は怒りを通り越して困惑するしかなかった。
それは、一般の《中立地帯》のゴーストが《死刑執行人》に対して抱いている嫌悪や警戒感とも少し種類が違う気がする。もっと根源的で、言葉では説明できない類の感情なのではないか。
「俺は各務を見下しているつもりも、マウントを取っているつもりもない。むしろ、他のチームに対するのと同じように心配しているんだけど……各務にはそれがうまく伝わっていないんだな。各務はどうしたらこちらの話を聞いてくれるんだろう?」
呟くと、エニグマが深雪の足元に伸びる影から姿を浮かび上がらせ、肩を竦めて言った。
「まあ、世の中には正論を受け付けない人間もいますからねえ。そもそも正しいかどうかというのは、彼ら彼女らにはさほど重要ではないのでしょう。とどのつまり、快、不快が全てなのですよ」
「快、不快が全て……でもそれって、すごく危ういことじゃないかな?」
「そうですね。しかし人間とは、えてしてそのように思考するものですよ」
「……」
それはおかしい。
世の中の人全てが、快、不快を基準に物事を考えるようになってしまったら、世の中はしっちゃかめっちゃかになってしまう。
自分の利益や感情を優先させたもの勝ちで、他者を気づかえる人がただひたすら馬鹿を見る世界になってしまう。
百歩譲って、快、不快を基準に判断するのは仕方ないとしても、それで大事なチームを失ってしまったら元も子もないのではないか。深雪はどうしても納得がいかない。
すると、エニグマはさらに付け加えた。
「彼らには彼らの言い分、つまり『正義』があるのです。しかしそれは雨宮さんの『正義』とは全く違う。もちろん、人はみなそれぞれの『正義』を持っているのは、雨宮さんもご存じだと思います。ただ……何というか、もっと根本的な価値観の基準が違うのではないかと思うのです。何を優先し、何を守りたいか。各々の重視するポイントに大きなずれがあるのですよ」
「……」
「重要なのは共感です。雨宮さんと彼らはいわば異世界の住人どうしなのですから、まずは互いに同じ土俵に立つところから始めなければなりません。雨宮さんが自分の気持ちや考えを率直に相手に伝えたいと思っているのは分かります。しかし人は、そう簡単には分かり合えないものです。それでも伝えたいことがあるなら、彼らにも受け入れられる言葉で表現しなければならないのではないでしょうか?」
「……。各務にも受け入れられる言葉……か」
「申し訳ありません。つい、偉そうに講釈を垂れてしまいまして」
「いや、それは大丈夫。それにエニグマの言ってること、何となく分かるよ」
深雪の脳裏にふと《ウロボロス》での体験が蘇った。《ウロボロス》のみなも各務と同じだったからだ。
深雪がチームのためを考えどんなに正しさを主張しても、決して《ウロボロス》のみなには届かなかった。煙たがれ、うざがられるだけだった。
何と言えば彼らの理解や支持を得られたのか。
どう主張すれば皆の反発を受けることなくチームを守ることができたのか。
深雪は今でも分からない。
だが、そこから逃げてはならないのだ。深雪はただの《死刑執行人》ではない。《中立地帯の死神》になると決めたのだから。
平時であれば、話の通じない者や価値観の合わない者には近づかない、関わらないという選択をすることもできる。
そもそも各務は深雪を蛇蝎のごとく嫌っており、さんざん悪態をついて来たのだから、敢えてこちらから親身になって忠告する義理も道理もない――それも一つの考え方だろう。
だが、今それをやってしまったら、《監獄都市》は本当に瓦解してしまう。
自分たちの考えが分かる者だけついて来ればいい、そんなことをしたら失われるべきではなかった多くの人の命が零れ落ちてしまう。
(どう表現すれば、俺の気持ちが伝わるんだろう? 今のままじゃ永遠に平行線のままだ。世の中には自分の考えを筋道立てて話せばそれが伝わる相手もいる。でも、そういう人ばかりじゃない。かと言って、嘘やおためごかしを言っても意味ないし、下心はきっとすぐに見透かされてしまうだろう。そうなったら完全に逆効果だ。
誤魔化したり嘘をつくことなく、相手に届く言葉……か。単純なようだけど、とても難易度が高いな。エニグマが言う通り、伝え方や表現の仕方を工夫しなければならないのは間違いなさそうだけど、きっとそれだけじゃない。……どうしたらいい? どう伝えれば、うまくいくんだろうか……)
すぐに答えは出ない。そもそも、そう簡単に答えが出る問題でもないだろう。
人類史を鑑みても、主義主張の違う者同士が利害を超えて協力し合うなどという例はごく稀だ。歴史は対立と闘争の繰り返しであり、常に勝者のみにそれを紡ぐことが許される。そして勝者に従わない者、勝者の考えに同調しない者は、反乱分子として抹殺されてしまうのだ。
確かにそれが一番手っ取り早いと深雪も思う。
交渉や話し合いなど面倒だし、うまくいく保証もない。そんなことに時間を割くくらいなら、力任せに推し進めてしまった方が、よほどお手軽で効率的だ。
だからこそ、それが世の常道でもあるのだろう。
だが現実を理解していてもなお、深雪は敢えてその方法に抗うべきだと思った。
いま必要なのは『魂の選別』ではない。活路を開くことだ。
可能な限り犠牲を出さず、みなで生き残る。
どこかにその方策があると信じ、全力であがくことだ。
そのためなら深雪は何でもする。
《監獄都市》で生きる人々は、もう十分というほど傷ついてきた。そして、かけがえのない多くのものを失ってきたのだから。
それに、《監獄都市》からは完全に危機が去ったわけではない。《中立地帯》や《新八洲特区》が大きなダメージを受けたこともあり、こちらの感覚が麻痺して何となく静かになったかのように錯覚しているだけだ。
そしてなおも燻っているその危機は、深雪や東雲探偵事務所だけの力ではもはや乗り越えられないだろう。
幸い、様々な場所で連携の萌芽が生まれつつある。
だが、まだまだ十分ではない。
それをしっかり育て、《監獄都市》を守る巨大な大樹にしていくのが深雪の役目だ。




