第23話 氷河凍雲③
何故、六道がそこまで頑なだったのか。
《中立地帯の死神》の権力を誇示するためだったのか。それとも自分は間違っていないというプライドに縋り付かなければ己を保つことすらできなかったのか。
何が六道をそうまでさせたのか。凍雲にはその理由までは分からない。
いずれにしろ、六道は異常なまでに自分が《死神》であることにこだわった。
たくさんの仲間の惨たらしい犠牲など一顧だにすることなく、《死神》の権力にしがみつき、それを維持するために恐るべき執念を見せた。
それなのに、己の全てをかけて守り抜いて来たその《死神》の座を、雨宮深雪のためなら譲ってもいいという。
(……そうか、あの少年のためなら頭を下げることができるのか。あの少年のためなら、自らの過ちを認められるのか)
氷河武装警備事務所の静まり返った廊下に一人佇む凍雲は、胸の内でそう独り言ちた。
昨夜の東雲六道とのやり取りを思い出すと、複雑な思いが蘇る。
結局、凍雲はあの場で合同事業に参加するか否か、その答えを出さなかった。六道もそれ以上は食い下がることもなく、軽い情報交換をして互いにレストランを後にした。
もっとも、あの《死神》のことだ。氷河武装警備事務所のことを諦めたわけでないことは明白だろう。何かにつけ、再び接触を図って来るに違いない。
ただ、あれから日を跨ぎ、今日あらためて雨宮深雪と話をしてみて、凍雲は自分が少し思い違いをしていたということに気づいた。
最初、凍雲は雨宮深雪が六道の言いなりになっているのだと思っていた。何らかの理由で、強制的に従わされているのだろうと。
だが、それは事実ではない。
雨宮深雪は六道を信頼している。
上司として、そして一人の人間として六道を慕っている。
それに雨宮深雪は、おそらく強制されたり騙されたりして《中立地帯の死神》になったわけでもない。その証拠に、雨宮深雪の語るビジョンには稚拙ながらも熱があった。彼の考えややり方は凍雲とは違ったが、《監獄都市》を良くしたいという気概は十分に感じ取れた。
一方で、六道もまた雨宮深雪に信を置いているように見える。あれほど、誰にも心を許さなかった《死神》が、何故か雨宮深雪のことは無条件で受け入れているのだ。
一見すると雨宮深雪と東雲六道の性格や考え方は正反対だと言っていい。おまけに年齢も親子ほど違う。だが、それにもかかわらず、二人は何故か互いに信頼し合っている。
まるで、昔からの友人であるかのように。
(……まあ、あの二人にどんな事情があろうと、俺たちには関係のない話だが)
よく考えてみれば、東雲探偵事務所がどうなろうと知ったことではない。凍雲にとって所詮は他人事だ。あれこれ気を揉んだところで意味など無い。
嫌なら関わらなければいいだけ。
そして、そうすることができるだけの実力と実績を築くのみだ。
そう思考を切り替え、凍雲は扉を開けて所長室に入った。いつまでも回想に耽っているわけにはいかない。仕事はまだ山のように残っているのだから。
氷河武装警備事務所の所長室のつくりは至ってシンプルだ。
壁際にずらりと並んだ書類棚、天井から吊り下げられた巨大ディスプレイ。武骨な格子窓のついた窓際に配置された執務机にはデジタル機器が設置されているが、それを圧倒するほどの量の書類が山積みになっている。
その書類の山を目にすると、毎度のことながらうんざりする。
正直、椅子に座って書類の山を格闘しているより現場で体を動かしている方が、ずっと気が楽だ。だが、だからと言って苦手なことから逃げ回るわけにもいかない。凍雲は所長という責任ある立場にあるからだ。
部屋が狭いこともあり、所長室には最低限のものしか置いていない。ただ贅沢品が一つだけある。それは部屋の奥に置いてあるコーヒーメーカーだ。
凍雲は無類のコーヒー好きであり、これだけはどうしても諦められなかった。
そのお気に入りのコーヒーメーカーで今やすっかり貴重品となってしまったコーヒーを淹れ、マグカップを片手に執務机の椅子に座る。
所長としての仕事もこなし、かつ現場にも出る。多忙な凍雲にとって、唯一ほっと一息つける時間だった。
この時だけは事務所のことも所長という立場も忘れることができる。たった五分という短い時間だが、所長という重責を負う凍雲にとって、なくてはならない大事なひと時だった。
それからすぐ事務仕事に取り掛かるつもりだったが、今日は何故かなかなかその気になれない。
東雲六道と直に話をしたからか、それとも熱弁を振るう雨宮深雪を目にし、無意識のうちにかつての自分の姿を重ね合わせたのか。
そのつもりは無いにもかかわらず、凍雲の意識は自ずと過去に引きずり込まれていくのだった。
氷河武装警備事務所を設立してから凍雲の仕事は劇的に増加し、目の回るほど忙しい日々を送ることになった。スケジュール的にも体力的にもきつい仕事だが、それでも仲間や部下に恵まれ、事務所の経営も今のところはどうにか順調。苦労は多々あれど、大きなやりがいを感じている。
東雲探偵事務所にいた時は今とは全く違った。
あの頃ほど絶望というものを思い知らされたことは無い。
次から次へと発生する凶悪な抗争を鎮圧して回る日々。《リスト執行》も激発し、己の犯した罪に対する反省など決してしない凶悪ゴーストたちの息の根を止め続けた。
だが、それで何かが解決するわけでもなければ、《監獄都市》が良くなるわけでもない。何故なら対処すべき問題は一向に減ることなく無限に湧き出でてくるからだ。
当時は《休戦協定》もまだ結ばれておらず、法で裁かれないゴーストは悪事を働き放題だった。
もちろん、《休戦協定》があろうと無かろうと犯罪には手を染めないという真っ当な心を持った者も多い。だが、『やったもの勝ち』どころか、『殺らなければ殺られる』という切迫した状況下では、正気を保つ方が難しいというものだろう。
街中には理性を失った獣たちが溢れ、同じ人間とは思えない残忍な所業を平気で行い、我が物顔で暴れ回る。
凍雲たちもまた獣じみた残虐な方法でそれを裁く。
毎日、何人も《リスト執行》をしているうちに分からなくなる。自分には本当に正義があるのだろうか。黙々と機械的に《リスト執行》を遂行する自分と、暴虐の限りを尽くして弱者を踏み躙る犯罪者ゴーストたちの何が違うのか。
違いがあるとすれば、それはただアニムスの強弱だけではないのか。
何度、自問自答したかしれない。
俺はここで何をしているのだろう。
何のために《死刑執行人》になったのだろう。
こんなはずではなかったのに――と。
東雲探偵事務所で働いていた時の凍雲は光の全く差さない真っ暗闇に閉じ込められていた。自分がどこにいるのか、どちらへ進むべきかも分からず、もがき苦しんでいた。
《死刑執行人》としてうまくやれているのかどうか、自分の存在が事務所や世の中のためになっているのかどうか。果ては生きているという実感すらも感じられなくなり、周りはおろか自分でさえも信じられなくなってしまった。
ただひたすら目の前の業務をこなすことに忙殺され、いつしか肉体のみならず精神そのものが擦り切れ摩耗していく。
しかもそのころの凍雲は、自分がとうに限界を超えていることすら気付いていなかったのだ。
それでも最初はまだ理想を抱いていたと思う。《死刑執行人》として《監獄都市》、中でも特に《中立地帯》のために働くのだと意気込んでいた。《死刑執行人》が嫌われていることは重々承知していたが、たとえ誰にも認められなくとも、自分が人々を守るのだという使命感に燃えていた。
しかし現実の《死刑執行人》の仕事というのは、そう甘いものではないということをすぐに思い知らされることになる。
終わりのない《リスト執行》、度重なる抗争鎮圧には危険も伴い、何人もの同僚が命を落とした。
つい先ほどまで共に飯を食い、コーヒーを飲んでいた仲間の体が一時間後には血飛沫を上げ、或いは意志を持たぬ肉塊と化す。
ただでさえ《リスト執行》を遂行する《死刑執行人》は恨みを買いやすい。
『殺らなければ殺られる』――その恐怖がもたらす負の連鎖に、いつしか凍雲自身も絡め取られてしまっていた。
そうなると、何のために《リスト執行》をするのか分からなくなってくる。少なくとも純粋に、『《監獄都市》を守るため』とは言えなくなっていたのは確かだ。
死んだ仲間の恨みを晴らすため、或いは今生きている仲間を守るため。何より自分自身が死なないために、ただひたすらに殺し続ける毎日。
世のため人のためなどという美しい理想はどんどん遠ざかっていった。
今の自分は私利私欲で人を殺しているのではないか。街にはびこる獣たちと同じように。激務をこなす合間にふと正気に戻った際、そのことを思い知らされるのが何より辛かった。
身を引き裂かれるほど恥ずかしく、苦しかった。
けれどこの期に及んで今さら足を止めるわけにもいかない。
凍雲も仲間もへとへとに疲れ切っていた。できる限り時間を確保し休息をとるように心掛けたが、どれだけ休んでも疲れが取れない。仕事自体がきつかったこともあるが、それだけ精神的に追い詰められていた。
あまりにも過酷な労働環境にとうとう心が折れてしまったのだろう。同僚の中には、自ら命を絶ってしまう者も続出した。
彼らの死を知った時、彼らの遺体を目の当たりにした時の衝撃と悲しみは今も忘れられない。
――どうして。
どうしてこんなことになった。
どうして気付いてやれなった。
自責も積もり積もると怒りと化し、その矛先は上の立場の者へと向かう。みながこれほど追い詰められているのは事務所の経営がおかしいからなのではないか。凍雲たちの上司――東雲六道が部下を冷遇し、使い捨てにしようとしているからでは。
そういった不信と不満が積み重なったこともあり、凍雲と六道は徐々に口論することが増えていった。
特に凍雲が東雲探偵事務所を辞める直前は六道との衝突が日課のようになっていた。
もともと凍雲は自分の考えをはっきり主張する方だったが、それが原因で相手と喧嘩をすることは稀だった。言うべきだと思ったことははっきり言い、代わりに相手の考えや主張も尊重するようにしていたからだ。自分が主張をするからには、相手の主張も同じ分だけ聞くべき――それが昔から凍雲の信念だった。
それにもかかわらず、六道との言い争いは増える一方だった。
いま思えば、すでに両者の間には深い溝ができていて、それを埋めるのは不可能になっていたのだろう。
当時の凍雲もそれを理解していなかったわけではない。
それでも辞めず東雲探偵事務所に残っていたのは、自分が必要とされていると思ったからだ。仲間や《監獄都市》にとって、そして何より六道にとって、己はなくてはならない存在だと。
同時に六道もまた、自分と同じ理想を抱いていると信じていた。
彼もまたこの《監獄都市》からありとあらゆる惨劇を取り除き、平和をもたらそうとしているのだと信じて疑わなかった。
だが、それはただの自惚れであり、大いなる見当違いだった。
凍雲がそれを思い知らされたのは、東雲探偵事務所を辞めると決めたその当日のことだった。
その日、東雲探偵事務所はとある凶悪ゴーストの犯罪者グループを《リスト執行》する予定だった。六道にそれを告げられた時、凍雲は強くそれに反対した。理由は、仲間の《死刑執行人》の体調不良だ。
そのころ東雲探偵事務所では、重大犯罪の《リスト執行》を手掛けることが相次いでおり、大きな負担が《死刑執行人》たちにのしかかっていた。
重大犯罪の犯人たちは狡猾でなかなか尻尾を掴ませないため、辛抱強く慎重な調査が必要となる。日々の抗争鎮圧に加え、手間暇かかる調査を行うのにはあまりにも人手が足らなさすぎたのだ。
おまけにそういった大胆な重罪犯罪に手を出すゴーストに限って強力なアニムスを持っており、《リスト執行》にも多大な危険を伴う。
六道の執務室に呼び出された凍雲は、開口一番に《リスト執行》の見送りを主張した。
「《リスト執行》……!? ちょっと待ってくれ! 今はとてもそんな状況じゃない! ここ最近の度重なる《リスト執行》のせいで、みんな身体的にも精神的にも追い詰められていてギリギリなんだ!! 少しでいい、休む時間を与えてやってくれ!! 立て直す猶予を設けてくれ!!」
凍雲とて、凶悪犯罪を放っておいてはいけないという事は分かっている。感情的にも道義的にも決して許せるものではない。
ただ、その頃の東雲探偵事務所には理想を追求している余裕など、どこにも無かった。
現状を維持するので精一杯。
それほど、みな切羽詰まっていたのだ。
だが、六道は頑として首を縦には振らなかった。
「そういうわけにはいかん。この凶悪ゴースト犯グループによって、すでに十三人が殺害された。これを放置すれば被害者が増えるばかりだ。《監獄都市》の秩序を維持するためにも、即刻これを排除しなければならない」
「それは分かる……みな分かってるさ!! だが、それじゃ誰に《リスト執行》を担当させようっていうんだ!? そりゃ、俺はやっても構わない。しかし残りのメンバーは? 一体だれを選ぶ!? 先月、安田が自殺を試みたことはあんたも知っているだろう! 未遂で終わったから良かったものの、あいつはもう《死刑執行人》を続けられない……そんなことをさせたら今度こそ本当に死んじまう!!
速水や杉井も表面上は何とかもってるが、ほとんど限界だ! 田端や榎木ははっきりとは口にしないが、おそらく退所を考えてる。こんな泥船からは一刻も早く脱出したい……あいつらがそう考えたって何の不思議もない! ぶっちゃけ、俺でさえそう考える時があるくらいだからな!!」
「……」
「あんたは現場に立たないから分からないかもしれないがな、《リスト執行》するってことは相当な負担を被ることなんだ!! 相手がどれだけ凶悪なクソ野郎でも、そいつの命を奪うってことは……殺すってことは、苦しく身も心も削られるものなんだ!! それがどれほど正しくとも、罪の意識に苛まれずにはいられないものなんだ!!
ただでさえ《死刑執行人》の仕事は危険が大きく、瀕死の重傷を負うことも珍しくはない。実際、目の前で死んだ仲間の姿もたくさん見てきた! これだけ心身に負担をかけられて、それでもみんな必死で任務をこなしてる!! 少しくらい仕事を減らしたってバチは当たらねえだろ!!」
今の事務所には《リスト執行》をする余力など残っていない。どれだけ崇高な理念を掲げようとも無理なものは無理なのだ。どうしてそんなことも分からないのか。凍雲はそう憤り、声を荒げた。
すると六道もまた語気を強める。
「できるものならとっくにそうしている! だが、凶悪犯はこちらの都合など考えはしない。我々がのんびりしている間に、いったい何人が惨殺され、虐げられると思っている? 餌食になるのは何の力も持たない弱い者たちだ。我々が彼らを守らなければ、誰が彼らを守るというのだ!?」
「弱者、弱者って……あんたはいつもそれだ! そりゃあ、弱者を守るのは大事だよ! 俺たちは獣じゃない、人間なんだからな!! だが、それなら俺たち《死刑執行人》はどうなるんだ!? 《死刑執行人》は強者だから、どれだけすり潰され使い捨てられてもいいってのか!? 強者だから弱者のために犠牲になるのは当然だってのか!!」
「ここで意味のない議論ごっこをするつもりはない。……《リスト執行》は決行する。そのために《死神》は存在するのだからな」
「くっ……! 何でだよ……どう言えば、あんたは分かってくれるんだよ!?」
腹の奥底から絞り出すような声音で凍雲は呻いた。
どう伝えれば、六道は理解してくれるのだろう。
誰もがあんたのように、嬉々として理想に身を捧げることができるわけじゃない。
誰もがあんたのように、身を滅ぼすほどの重責に耐えられるわけじゃない。
あんたの部下はもう、疲れ果てボロボロなんだ。あんたについて行ける者はもはや誰一人いないのだ。どう説明したらそれを受け入れてくれるのだろう。
凍雲だってそんなことは言いたくない。だが、事実なのだから仕方ないではないか。
しかし、やはり六道は折れなかった。静かだが毅然とした声音で凍雲に突きつける。
「……氷河、《死神》だ何だと恐れられてはいるが、我々は所詮、歯車に過ぎない。回らない歯車はいずれ弾かれ処分される……それを忘れるな」
凍雲は一瞬、自分の耳にした言葉が信じられず、呆気に取られて目を瞬いた。
――いま、何て。
歯車。
歯車と言ったのか。
事務所のため、《監獄都市》のため我が身を犠牲にしても戦い続けてきた俺たちを、よりにもよって歯車だと。




