第21話 氷河凍雲①
それから深雪は氷河凍雲に一礼してから立ち上がった。
「それでは、今日のところはこれで失礼しま……」
するとその時、応接室の扉のノブが小さくカチリと鳴る音がした。次いで、ドスンと何かが扉にぶつかるような物音。
何事かと思って振り向くと、扉の向こうから氷河武装警備事務所の若い《死刑執行人》たちの囁き合う声が聞こえてくる。
「うわっ、出てくるぞ!」
「やばっ……戻れ、戻れ!」
「おい、押すな! 押すなって!!」
「だああああああっ!!」
どうやら、彼らは深雪と氷河凍雲の会話に聞き耳を立てていたようだ。
しかし、あまりにも多くの人数が扉の前にひしめいていたため、身動きが取れなくなってしまったらしい。とうとう体勢を崩して部屋の中に雪崩れ込んでくる。
氷河凍雲はそれを目にし、呆れ果てた様子で咎めた。
「おまえら……そこで何やってんの。まさか、盗み聞きしてたのか?」
すると、若い《死刑執行人》の一人が勢い良く立ち上がって即答する。
「いえっ! 会話の内容までは聞こえませんでした!」
「ば……バカ、それじゃ盗み聞きしようとしてたって認めるようなものだろ!!」
「あっ、やべっ!」
これぞまさに語るに落ちるというやつだ。《氷河》の《死刑執行人》たちはみな気まずそうな顔をするが、すぐに立ち上がると深雪を睨む。あくまで東雲に対する敵対的な態度は崩さないつもりなのだろう。
まず口火を切ったのは、若い《死刑執行人》たちの中でも最もしっかりしている近衛直純だ。
「それで……お話は終わりですか、《死神》さん」
「ずいぶん長いこと話し込んでたみたいですねえ? どんなことについて協議したんですかね。まさか、合同事業の参加についてじゃないですよね?」
続いて西山響が皮肉たっぷりにそう口にする。彼の視線はこれでもかというくらいとげとげしいし、言葉も嫌味たっぷりだが、深雪は笑顔でそれに返した。
「まだ詳細は明かせませんが、とても有意義な話し合いになったと思います。俺は東雲探偵事務所に戻ってこの協議の結果を所長に報告しなければなりませんので、今日のところはこれで失礼します」
そして深雪は氷河凍雲と彼の部下たちに頭を下げ、応接室を出ていく。
その堂々とした足取りに、氷河武装警備事務所の若い《死刑執行人》たちは血相を変えた。
実のところ、彼らには深雪と氷河凍雲の会話の内容をほとんど聞き取れていなかった。氷河武装警備事務所は《死刑執行人》の事務所なだけあり、建物の全てが頑丈さと機能性重視で成り立っている。それは応接室も例外ではなく、聞き耳を立てたくらいでは内部の会話が聞き取れない作りになっているのだ。
「ひ、氷河さん……! あいつ、何であんなにご機嫌なんすか!?」
「まさか、合同事業の件を受け入れたんですか?」
次々に質問を浴びせられるものの、氷河凍雲の答えは非常に簡潔だった。
「いや、まだだ」
「まだ……?」
「これからどうなるか。全ては、次期《中立地帯の死神》である雨宮深雪……あいつ次第だ」
氷河凍雲の視線は深雪の背中に注がれていた。
その眼差しは決して温かいとは言えない。そこには東雲探偵事務所に対する強い警戒感と、忖度なく深雪を見極めようとする強い意志が込められている。
氷河武装警備事務所を背負っている、責任ある者だからこその冷徹さ。
氷河凍雲にとって、雨宮深雪はあくまで東雲六道の部下でしかない。どんな美辞麗句を並べ立てられようと、所詮は《死神》の使いでしかない。
ただ今回、初めてじっくり話してみて、これまで抱いていた印象が少しだけ変わった。
雨宮深雪は確かに《死神》の使いかもしれないが、《死神》そのものではない。
年齢の若さもあって頼りないのは確かではあるものの、新しい風を感じさせてくれるのもまた事実だ。
そのせいか。
氷河凍雲の深雪に向けられた視線には、同時にほんのわずかの期待が込められていた。
✜✜✜
雨宮深雪が氷河武装警備事務所を去るのを見送ってから、氷河凍雲は所長室へ戻った。
氷河凍雲は《死刑執行人》の所長にしては珍しく現場に立つが、だからと言って所長としての仕事を免除されているわけではない。
事務処理や会議の出席、人材育成はもちろん、事務所の経営にも携わらなければならない。
事務所に戻ったからと言ってゆっくり休憩する時間などあるはずもなく、すぐに次の仕事に取り掛からねばならなかった。
今も山積みになっている仕事のことを考えると、溜め息を禁じえない。
ただでさえ現在、氷河武装警備事務所はいろいろと問題を抱えている。朝から晩まで目が回るほど忙しい。
それでも、東雲探偵事務所にいた時よりはずっとやりがいや充実感を感じているが。
凍雲が所長室の扉を開こうとドアノブに手をかけた時だった。副所長の速水十留が駆け寄って来て声をかけてきた。
「氷河所長! お疲れ様です」
速水は凍雲の一歳下だ。作業着にスラックスという出で立ちで、さっぱりと切り揃えられた黒髪と眼鏡も相まって《死刑執行人》事務所より役所や工場、建設現場などの方がよく似合う風貌をしている。
実際に性格も軽薄さや悪ふざけといった要素とは縁遠く、ある意味で凍雲とは真逆のタイプだと言えた。
だが、速水の真面目さと実直さのおかげで、凍雲も氷河武装警備事務所もずいぶんと助けられている。
このタイミングで速水が声をかけてくる案件と言えば、一つしかない。
凍雲は眉をひそめ緊張した面持ちで速水に尋ねた。
「速水か。お疲れ。そっちはどうだった?」
「今のところ、《収管庁》から追加の指導はありません。どうやら、二ノ宮の件は完全に見逃されたと見て良いようです」
それを聞き、凍雲は安堵のため息をつく。
「そうか……何はともあれ助かった。今回は命拾いしたな」
速水も頷いた。
「ええ、本当に良かった。……ただ、気がかりな点もあります。確かに《収管庁》の行政指導はかわせましたが、代わりに、あの《死神》……東雲六道に借りを作ってしまった。こちらにとって痛手であることに変わりはありません」
「……」
「東雲六道は他の大手《死刑執行人》事務所を巻き込んだ合同事業なるものを画策しているとか。二ノ宮の口利きをした対価に、合同事業への参加を要求してきても不思議じゃない。そのあたり……どうなんですか? つい今しがた、東雲の若い《死刑執行人》が所長を訪ねてきたんでしょう?」
「さすが耳が早いな。……そ。次期《中立地帯の死神》くんに、さっそくお願いされたよ。『合同事業に参加してくれ』……ってさ」
「案の定……ですか。所長はどう返事をしたんですか?」
「断ったよ。……一応は、ね」
「一応……ですか」
「……」
凍雲が不意に黙り込んだのを見て速水はその心情を察したのだろう。一瞬、俯いて考え込むような素振りを見せたが、すぐに凍雲へとまっすぐ視線を向けた。
「率直にお尋ねします。所長は合同事業の件をどう考えていますか?」
こういう時、話を有耶無耶にせず、むしろはっきりさせたがるのはいかにも速水らしい。凍雲は苦笑いを口元に浮かべながら、逆に尋ねた。
「そっちは? どう考えてる?」
「僕の個人的な意見としては、合同事業に参加するのはやはり反対ですね。うちの若い《死刑執行人》を危険に晒したくない。東雲探偵事務所にはどうしても、不信感しかないですから」
「まあな。その気持ちはよく分かる」
「ただ、最終的には所長の考えに従いますよ。この事務所は所長がいてこそなんですから」
速水がそう答えるであろうことは想定の範囲内だった。
凍雲は速水たちを信頼している。そして速水もまた、いつだって凍雲と氷河武装警備事務所に全力で貢献してくれた。
凍雲たちはそうやって共にこの氷河武装警備事務所を守ってきたのだ。
「マジかよ。俺、責任重大じゃん」
凍雲がおどけると、速水は半眼になってツッコミを入れる。
「何言ってんですか。そんなの当たり前でしょう。所長は氷河武装警備事務所の要なんですよ? 本当なら、現場に出るのもやめて欲しいくらいなのに」
「はいはい、分かってますって。信用ないなあ」
「本当に信用していなかったら、こんな姑じみた小言は言いませんよ」
速水は軽口を言ってから、ふと真顔に戻った。
「でも、所長は前線に立つからこそ、後方支援に徹している僕たちには分らないことでもよくご存じでしょう。だから、最後は所長が決めてください。きっとそれが正解ですから」
「速水……」
「それじゃ、事務仕事が残ってますんで、僕は失礼します。くれぐれもあまり無茶はしないでくださいね」
そして速水は廊下の向こうへと去っていく。
凍雲はしばらくそれを見つめていた。
――分かっている。
凍雲たちにとって一番大事なのは氷河武装警備事務所、そしてそこで働く《死刑執行人》や従業員たちだ。
事務所を守れないのであれば、何のために東雲探偵事務所から独立したのか分からないではないか。
二度と過去の惨事を繰り返さない――そのためにも、所長である凍雲が判断を間違うわけにはいかなかった。
それは分かっている、分かってはいるのだが。
煩悶する凍雲の脳裏によぎるのは昨晩のことだ。
深雪が氷河武装警備事務所に押しかけてきたその前日、凍雲は密かに東雲六道と会って話をしていた。
実のところ、《収管庁》で例の合同事業への参加を突っぱねた後も、六道からの接触はずっと続いていた。
けれど凍雲は、それをことごとく無視してきたのだ。
《死神》に関わっていいことなど一つもない。厄災には近づかないのが一番だ。全ては氷河武装警備事務所とその従業員を守るためだった。
ところがある事件が起き、状況が一変する。
その事件とは、氷河武装警備事務所が突然、《収管庁》から行政指導を受けたことだった。
それに伴って凍雲の部下である二ノ宮蓮人という《死刑執行人》から聞き取り調査を行うという通告を受けた。
二ノ宮はまだ若く未熟な部分があるものの、氷河武装警備事務所の中でもみなが将来を期待しているエース級の《死刑執行人》であり、ここ最近は手掛ける《リスト執行》の件数も増加していた。
《監獄都市》の情勢が不安定化しているのに合わせ、戦力を強化せねばならない。そう判断した凍雲たちは彼に経験を積ませるため、敢えて仕事を増やしていたのだ。
だが、そこを見事に《収管庁》に突かれた。
《収管庁》は二ノ宮の行った《リスト執行》の中に不備があったのではないかという疑いをかけてきたのだ。
もちろん《死刑執行人》側も《リスト執行》には細心の注意を払う。もしそこに過失があれば、今度は逆に自分たちが《リスト登録》され、狩られる側になってしまうからだ。
二ノ宮の行った《リスト執行》はどれも《休戦協定》で定められた手続きに則ったものばかりだった。
氷河武装警備事務所の所長として、自信をもって断言できる。これまでの通例通りであれば、行政指導の対象になるはずがない。
つまりこの件は、《収管庁》による不当な圧力である可能性が非常に高いということだ。
実のところ《収管庁》からこういった嫌がらせまがいの横槍が《死刑執行人》事務所に入るのは珍しいことではない。
《収管庁》は《中立地帯》で暴れ回る《Zアノン》信者の動きを鎮めるため、敢えて《リスト登録》の基準を下げることで《死刑執行人》に《リスト執行》を促進させるという政策を取った。
しかし《収管庁》は、基本的に《死刑執行人》を信用していない。
そのため、《リスト執行》の多い事務所にはたびたび圧力をかけて牽制する。
その手段の一つが行政指導というわけだ。
ただし行政指導とはいえ、《収管庁》の《死刑執行人》に対する調査は非常に厳しい。疑いをかけられた《死刑執行人》は拘束され、長期にわたってこれまでの仕事や素行などを細かく調べられる。
調査は短くても数か月、長い場合だと数年に及ぶこともあるほどだ。
おまけに相手がゴーストとあって《収管庁》も容赦はしない。人権を考慮する必要がないため、精神圧迫はもちろんのこと拷問まがいの暴力や監禁も珍しくはない。
さらに事情聴取の間の様子は全て録画され、少しでも《死刑執行人》が反発したり《収管庁》側の人間に危害を加えようものなら、即刻、危険人物と認定され《リスト執行》案件として扱われることもある。
そんな有様だから、たかが調査と言っても《死刑執行人》にとっては心身ともに負担が大きい。責任感や誇りをもって《死刑執行人》をしてきた者ほど心理的な衝撃が激しく、かつての対象者の中にはあまりのショックで《死刑執行人》を辞めてしまう者もいるほどだった。
例外は《中立地帯の死神》である東雲探偵事務所の《死刑執行人》だけ。
《中立地帯の死神》である東雲探偵事務所の《死刑執行人》たちは、その立場の特殊性から《収管庁》の行政指導を全面的に免除されているのだ。
凍雲たちにしてみれば、《収管庁》のやり方は矛盾だらけとしか言いようがなかった。
《リスト執行》を増やせと催促しておいて、実際に増やしたら権力で圧迫してくるのだからたまったものではない。
しかも、もし仮に《収管庁》の要請を無視し《リスト執行》を一切行わなければ、それはそれで別の圧力をかけてくる。
一体どうしろというのか。
もちろん、《収管庁》が《死刑執行人》に対して強い猜疑心と恐怖心を抱いているということは承知している。
《収管庁》にしてみれば、相手は法や常識の全く通用しない化け物も同然であり、警戒するのもある意味当然の話だろう。
だが今回に限って言えば、《リスト執行》を増やしたのはあくまで《収管庁》自身なのだ。氷河武装警備事務所はただその決定に従っただけ。にもかかわらずこんな仕打ちを受けるとは、いくら何でも横暴が過ぎるというものではなかろうか。
《死刑執行人》側の立場からすると《収管庁》の行動はどう見ても整合性が破綻しているとしか思えなかった。
納得がいかないし割にも合わない。
何より理不尽だ。
だがどれだけ文句を垂れ、憤りに身を震わせようとも、それが《収管庁》による《死刑執行人》支配の常套手段であり、基本的スタンスであることは変わらない現実なのだった。
二ノ宮蓮人は凍雲たちが手塩にかけて育てた《死刑執行人》だ。
ここで失うのはあまりにも惜しいし、実際に痛手でもある。上司としての心情からいっても、何とかして部下を守ってやりたい。
しかし、だからと言って《収管庁》を無視するわけにもいかなかった。
あくまで『指導』であるため、拒否することはできるかもしれない。だが現実にそんなことをすれば《収管庁》が更なる圧力をかけてくるのは目に見えている。
また、そもそもこの行政指導自体が合同事業の参加を拒む氷河武装警備事務所への当てつけである可能性もあり、どう考えても下手に逆らうのは賢明ではなかった。
これ以上、《収管庁》の機嫌を損ねたら、待っているのはさらに厳しい事務所への行政処分だ。
一体、この事態をどう切り抜けるか。
氷河武装警備事務所は窮地に陥った。
当事者である二ノ宮蓮人はもちろん、近衛直純や西山響といった氷河武装警備事務所の他の《死刑執行人》たちにも激震が走る。
ここで凍雲が対応を誤れば、彼らの信頼を裏切ることになるだろう。
みなを失望させたり絶望させたくない。
大事な部下たちに凍雲たちが東雲探偵事務所で味わった惨めな思いをして欲しくない。
何より彼らに《死刑執行人》になったことを後悔させたくなかった。
《死刑執行人》は確かに恐れられ、忌み嫌われる存在だ。それは凍雲もよく理解している。
だが、それでも――どれだけ汚らわしい存在として嫌悪されたとしても、《死刑執行人》は決して犬畜生の外道ではない。私欲に走った犯罪者でもなければ快楽殺人鬼などでもない。
どれほど人の道を外れていると罵られようとも、この街に必要な存在なのだ。
《死刑執行人》がいるからこそ、この街は獣の世界に堕ちずに済んでいる。
自身も多大な犠牲を払いながら、《死刑執行人》はこの街を守っている。
凍雲は誰よりそれを信じていた。
しかし二ノ宮が《収管庁》に拘束されることはなかった。聞いたところによると、どうやら東雲六道が《収管庁》に介入し、丸く収めたらしい。「今は未曽有の非常事態であり、《死刑執行人》の活動を委縮させるのは得策ではない」、と。
おかげで《収管庁》からの指導は書面だけで済み、凍雲は部下を守ることができた。
とはいえ、それでめでたしめでたしとなるわけではない。部下を守れたその一方で、凍雲は別の難問と向き合わねばならなくなったからだ。
その難問とは、あれだけさんざん無視してきた六道と直に会わなければならなくなったということだ。
凍雲が六道を嫌っているのは間違いないが、それでもさすがに恩を仇で返すほど恥知らずではない。
それに何と言っても、東雲探偵事務所との貸し借りは最低限にしておきたかった。
多少、助けられたからと言って、氷河武装警備事務所は六道に従うつもりはない。何があっても合同事業には参加できない。そこだけは、はっきりさせておかねば。
六道に釘を刺すためにも、凍雲は彼からの面会の申し出を受けることにしたのだった。




