第12話 閑話休題 深夜の訪問者①
不穏な空気が《新八洲特区》を覆う中、石蕗診療所で治療を受けている逢坂忍は強い焦りに駆られていた。
《新八洲特区》の緊迫した気配は《中立地帯》にも伝わってくる。
下桜井組はどうなっているのか。
大型観光開発はどのくらい進んでしまっているのか。
そして二代目桜龍会はどうなってしまったのか。
それとなく流れてくる情報はあるものの、石蕗診療所の病室にいたままでは詳しいことは何一つ分からない。
何より、逢坂は下桜井組に京極鷹臣という厄災を呼び込んでしまった。
それに対し、どう落とし前をつけたらいいのだろう。
それを考えると、組長である下桜井蝉や面倒を見てくれてきた兄貴分である越智太獅を始め、下桜井組の皆に合わせる顔がなかった。
隣のベッドでは須賀黒鉄が未だ意識を取り戻すことなく、深い眠りについている。辛うじて呼吸はしているものの一向に目覚める気配はない。また、逢坂自身も重傷を負い、自由に動ける状態ではなかった。
だから尚更もどかしい。
こんな状態で手塩にかけて育てた部下、《彼岸桜》たちの仇を討つことなどできるのか。
そして二代目桜龍会を取り戻すことができるのか。
今は辛抱する時だと分かっていても、激しい焦燥感を覚えずにはいられない。
(それもこれも、全ては京極のせいだ。あいつを放置するなんてあり得ねえ! 必ずこの手で引導を渡してやる……!!)
しかし、再会した鶴治も言っていた通り、一人の力でそれを成し遂げるのは不可能だろう。何とかして仲間を募り、大きな勢力を作らなければ、《エスペランサ》を率いる京極には対抗できない。
中でも雨宮深雪は逢坂にとって重要な人物となりつつあった。
次期《中立地帯の死神》である雨宮深雪は、《収管庁》から他社の《死刑執行人》、はたまた《中立地帯》のゴーストと顔が広く、今や《中立地帯》で重要な位置を占めつつある。現《中立地帯の死神》である東雲六道からの『引き継ぎ』が今のところうまくいっているのだろう。
また、雨宮深雪はおそらく逢坂に良い印象を抱いており、逢坂もまた深雪のことを信頼に足る人物だと考えるようになっていた。
何故なら、深雪は轟寧々や朝比奈小春を匿ってくれているからだ。
もしその事実が《中立地帯》に広まると、ただでさえあらぬ噂で苦境に立たされている彼の立場はますます悪化するだろう。寧々は本人が望もうと望むまいと《アラハバキ》総組長の孫娘であり、本来は《死刑執行人》と敵対する立場にあるからだ。
それなのに、深雪は寧々に寄り添い続ける道を選んだ。
聞けば、東雲探偵事務所は寧々と朝比奈を守るため、あの《轟鬼衆》と対決までしたらしい。
だが多大な危険を負ってでも、深雪は行き場のない寧々を事務所で預かり続けたのだ。
寧々を守るため、そして逢坂との約束を守るために。
寧々や朝比奈小春の表情を見ると、東雲探偵事務所での生活を苦にしている様子はない。寧々など、むしろ轟組本家にいた頃より生き生きとしているほどだ。それを目の当たりにすればするほど、逢坂は思う。成り行き上仕方なかったとはいえ、寧々を深雪に託して本当に良かったと。
そして何より、深雪もまた京極を激しく敵視している。京極がいかに脅威であるか、そしていかに放置しておいてはならない危険な存在であるかを正確に理解している。
これだけの好条件が揃っている中、互いに協力し合わないという選択肢などあり得なかった。
逢坂は当面、《新八洲特区》には戻れない。逢坂は裏切りの疑いをかけられ下桜井組の構成員に追われる身だからだ。また、京極もいまだ逢坂の命を狙っているだろう。つまり、逢坂はこの《中立地帯》で鶴治の言う『同志』を探すしかない。
まさにゼロからの再出発だ。
(……とはいえ、下桜井組の方を放っておくわけにもいかねえ。今、組には京極の魔の手が迫っている。奴はいずれ下桜井組の内部に入り込み、みなを洗脳し思いのままに操って、組ごと手中に収めるつもりだ。《彼岸桜》に対してそうしたように……! それが分かっていながら、見て見ぬふりなどできねえ! せめて、下桜井の親父や越智の兄貴にだけでも京極の危険性を伝えねえと……!!)
しかし、その方法がない。
腕輪型端末は京極との戦闘で破損してしまったし、そもそも着の身着のまま江戸川区西小岩にある隠れ家を飛び出してきてしまったので、代わりとなるデバイスもない。
東雲探偵事務所の《死刑執行人》から端末を借りるという手もあるにはあるが、ただでさえ高齢の下桜井蝉は最新の通信機器に疎く、うまく連絡を取れるかどうかわからない。
――もし、可能だとしたら。
(そうだ、手紙なんてのはどうだ!? 現代じゃずいぶんアナログで古典的な方法だが、古すぎてむしろ京極にもバレにくいかもしれねえ!)
それに、アナログな手段の方が、むしろ下桜井蝉の信用も得やすいだろう。
もちろん手紙を書いたとしても、自力でそれを《新八洲特区》へ届けることはできない。前述の通り、逢坂は追われる身だからだ。代わりに誰かに配達を頼まねばならない。
たとえば、雨宮深雪はエニグマというゴーストを連れていた。影の中をスルスルと移動する彼ならば、《アラハバキ》構成員に見つからぬよう、下桜井組本家まで手紙を送り届けてくれるのではないか。
「……よし、駄目もとで頼んでみるか。取り敢えず、手紙を用意しねえとな。それにはまず、どこかで手紙を書くペンと紙を手に入れるところからか!」
やるべきことが見えてくると、気持ちも前向きになって来る。あまりネガティブにはならない逢坂だが、ここ数日の京極がらみの出来事はさすがに堪えた。何せ《彼岸桜》と二代目桜龍会、そして下桜井組幹部の座と、己の築いてきた全てを奪われたのだ。
特に、今は亡き兄貴分の国府田学人から託された二代目桜龍会を失ったことは辛かった。国府田学人は逢坂を信じて組を任せてくれたのに。いまあの世に行ったとしても、彼に合わせる顔がない。
あまりにも己の不甲斐なさが腹立たしく、自分で自分の顔をぶん殴りたい衝動に駆られるほどだった。
だが、いつまでも落ち込んでいるわけにもいかない。
そろそろ前を向いて進まねば。
病室には最低限の医療品や生活用品のみが置かれている。生活用品の方は寧々や朝比奈が運んできたものだ。彼女たちもまた、エニグマの陰のような体に包まれ、密かに運ばれてやって来る。うまく頼めば、手紙も運んでもらえるのではないか。可能性は高いように思われた。
進むべき方向が見えてくると、無性に動きたくなってきた。とはいえ、今はまだ深夜だ。できることは限られている。
朝を待って、寧々や朝比奈に便せんや封筒を持ってきてもらうという手もあるだろう。だが、逢坂はとてもじっとしていられなかった。
こうしている間にも、組長の下桜井蝉や越智太獅が京極の《ヴァニタス》の餌食になってしまうのではないかと、気が気でならない。みなにも一刻も早く、京極の恐ろしい本性とその危険性を訴えたかった。京極の餌食になる者を一人でも減らしたいのだ。
この診療所の医師である石蕗麗なら、紙とペンを持っているのではないか。そう考え、病室から廊下に出て、診療室へ向かうことにした。
既に消灯時間を過ぎているからか廊下は暗く、わずかな非常灯の明かりなどを頼りに進んでいく。
診察室はまだ明るかった。引き戸の曇りガラスから淡い光が漏れている。石蕗麗が中で仕事をしているのだろう。
ちょうど良かった。逢坂は診療室の扉に手をかける。
しかしその瞬間、逢坂はハッと息を呑みその手を引っ込めた。診察室の中で石蕗麗が誰かと話し込んでいるようだったからだ。
ひょっとしたら他の患者と話をしているのかもしれない。逢坂はそう思った。というのも、《中立地帯》はどこも上松組の跡目争いに端を発した災害級の大抗争のせいで、怪我人や病人が溢れ返っているからだ。
他人のプライベートな情報を立ち聞きするのも趣味が悪い。出直そうと踵を返す逢坂だったが、ふと足が止まる。
診察室の中から漏れ聞こえてきたのが、奇妙な機械音声のような声だったからだ。
映画などでよくある、悪役がボイスチェンジャーで加工、もしくは合成したような、耳障りな声。
元の声が全く分からないほど加工してあるのに、声の主が非常に攻撃的な口調であることは、はっきりと伝わってきた。
(何だ……? 先生、俺たち以外の患者と話してるんじゃねえのか……?)
現在の《中立地帯》は混乱し、不安定化している。ひょっとしたら、石蕗麗も何か危険な目に遭っているのでは。そう考えると、少し心配になって来る。
逢坂は息を殺し、慎重に引き戸を開くと、わずかに開いた扉の隙間から中の様子を窺った。
手前にいる白衣を着た人物、逢坂に背を向けているのが石蕗麗だ。
彼女が相対している、窓際に立つ人物が例の機械音声の主のようだった。
その姿を目にし、逢坂はぎょっとした。足の踵まである黒のロングコート。コートはフード付きで頭部をすっぽり覆っている。まるで、悪い魔法使いのように。
そこからのぞくのは、真っ白なペストマスクだった。
ブーツもグローブも全て黒で統一されているのに、嘴のように尖った顔だけが気味が悪くなるほど白い。機械音声も相まって異様という他なかった。
その外見からは性別も年齢も全く判別できない。それが余計に不気味さをかき立てる。
(な……何だ、ありゃあ!?)
あのペストマスクは何者だろう。
そして、二人は何の話をしているのだろう。
最初はすぐに立ち去るつもりだった。だが、ついつい好奇心から逢坂は耳を澄ませてしまう。
真っ白いペストマスクは、ざらりとした合成音声で言った。
「……もう一度言う。逢坂忍を速やかに始末しろ。幸いなことに、奴は今、ひどく負傷している。容体が急変したと言えば周りに怪しまれることもないだろう。或いはアニムスを使って存在を抹消し、その後に『勝手に診療所を抜け出し行方が分からなくなった』と、生死をうやむやにすることもできる」
まさか、彼らが自分の話をしていたとは思いもしなかった。逢坂は心底ぎくりとする。
(何だって!? 俺を殺す……? 何のために!?)
驚いた拍子に扉を支える手がびくりと震え、つい大きな物音を立てそうになった。逢坂は気合で何とかそれを自制し、息を殺して中の様子を窺った。
額に大粒の冷汗が浮かぶ。
このペストマスクは石蕗麗とどういう関係なのか。
石蕗麗は本当に逢坂を殺す気なのか。
すると、逢坂を名指しし、殺せと主張するペストマスクに対し、石蕗麗は不機嫌そうな声音で尋ねた。
「……。それは《王国》のジョシュアが決めたことか、《吊るされた男》? それとも……」
「《悪魔》からの命令だ。今回の作戦は奴がプロジェクトリーダーだからな。当然だろう」
ペストマスクの返答を受け、石蕗麗は面倒くさそうに呟く。
「《悪魔》……確か京極鷹臣といったか」
逢坂はますます仰天する。危うく、大声が出かかったほどだった。
(……!! 京極……京極だと……!? 先生は京極と繋がってんのか!?)
完全に想定外の事態だった。
逢坂も石蕗麗が《中立地帯》のゴーストのため、一心に医療活動を行っていることは知っている。
その石蕗麗が、まさか京極と関係があったとは。
考えれば考えるほど、背筋が凍り付く。
ペストマスクの言葉から察するに、京極はいまだに逢坂を始末しようとしているらしい。むしろ京極は最初から逢坂が石蕗麗を頼ることを見越しており、だからこそ敢えて深追いをしなかったのかもしれない。
(俺はまたしても奴の思い通りに動いちまったってことか……!?)
逢坂は、ぎり、と奥歯を噛みしめた。この診療所にいるのはまずいかもしれない。そう思うが、さりとて意識も戻らない黒鉄を置いてはいけない。
取り敢えず、石蕗麗とペストマスクのやり取りをもう少し静観することにする。
石蕗麗は吐き捨てるようにして言った。
「だが私は、あの男……京極鷹臣を信用していない。奴はあまりにも人の命を軽んじすぎる」
だが、ペストマスクは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「《女教皇》、お前が《悪魔》のことをどう判断しようがそれはお前の勝手だ。好きにすればいいさ。だが、《悪魔》は《王国》のジョシュアからの厚い信頼を得ている。それはれっきとした事実だ。下手に逆らわない方が賢明なんじゃないか?」
ペストマスクの口調は終始、相手を見下している感じを漂わせている。不思議なもので、変成器によって加工されてはいても、そこに込められた感情ははっきり伝わってくる。
石蕗麗もさすがにムッとしたらしく、ペストマスクに反論した。
「お言葉を返すようで恐縮だが、私はその《王国》のジョシュアから《雨宮=シリーズ》の六番の監視及び観察を言い渡されているのだが?」
「それはもちろん承知している。それに何か問題でも? 逢坂忍の殺害と《雨宮=シリーズ》の監視・観察は十分に両立させることが可能なのではないかな?」
ペストマスクはできの悪い生徒を諭すような口調でそう言った。すると、石蕗麗は苛立ったように舌打ちをする。まるでペストマスクの無神経さを咎めるように。
さすがのペストマスクもそれには気づいたらしい。肩を竦め、とりあえず一応、確認だけしておくといった感じで投げやりに尋ねる。
「それとも……何か他にやりたくない理由でも?」
「私は医者だ。命を救うことが仕事であって、奪うのは専門外だ」
石蕗麗は逢坂に背を向けているため、どういう表情をしているのかは分からない。だがその声には、確固たる信念と矜持が込められていた。
だが、ペストマスクはそれを一蹴する。
「その前に、お前も俺も《アイン・ソフ》の一員であるということを忘れるな。ただの医者は大勢いる。だが、《アイン・ソフ》に選ばれた者、《アイン・ソフ》の理念を実行できる名誉に預かれる者は、そう多くない。どちらを優先すべきかは明白であるように思うが?」
「……」
「理念に反する者はどれだけ実力が伴っていようとも、組織から外される。服従か離脱か、二つに一つだ。どちらを選ぶか……それは《女教皇》、お前次第だ」
「わ……私は……!」
不意に石蕗麗の声が揺れたのが分かった。逢坂は息を呑み、二人の会話にじっと耳を澄ます。
「私はお前たちと違って、別に世界を変革したいわけじゃない。それほど大それたことは望んでいない。私は……私はただ、私の祖父を殺したのが誰か、それを知りたいだけだ!」
「祖父……斑鳩科学研究センターの創設者、斑鳩夏人のことか?」
「……! 何故それを……!?」
驚く石蕗麗に対し、ペストマスクは相変わらずの不愉快なせせら笑いで返した。
「おいおい、俺の本職が何なのか、忘れたわけではないだろうな? 日本の情報はおおよそ把握済みだ。機密レベルの事項も含めてな」
「……!」
「とはいえ、俺も斑鳩夏人が何者によって殺害されたのか、そこまでは掴んでいない。何しろ、かれこれ50年近く前の出来事だからな」
「フン……お前たちの諜報能力とやらも、鼻高々になって誇るほどのものではないようだな」
石蕗麗の声にはこれでもかと皮肉が込められていた。さすがの彼女もペストマスクとのやり取りにうんざりし始めたのかもしれないし、或いはさんざん悪態をつきながら肝心の情報を全く掴んでいないペストマスクに苛立ったのかもしれない。
しかし、ペストマスクは全く懲りた様子もなく、からかうような口調で石蕗麗に言い放った。
「……何を迷っている、《女教皇》? 答えはもうとっくに出ているだろう」
「何……!?」
「実行犯はあくまで捨て駒だ。特定することに大した意味などない。重要なのは、誰がその計画を仕切っていたかということだ」
「……。何が言いたい?」
石蕗麗が問い返した瞬間、ペストマスクの真っ黒に穿たれた瞳が逢坂を捕らえる。
おそらく彼、もしくは彼女は、石蕗麗へ視線を向けたのだろう。だが、逢坂は彼女の真後ろに身を潜めており、自分が見つめられているような緊張感を覚えた。
思わずペストマスクから視線を外すが、聞き耳は立て続ける。診察室の中からペストマスクの機械音声のみが聞こえてくる。
「あの頃、斑鳩科学研究センター所長の暗殺計画を指揮していたのは、おそらく《王国》のジョシュアだろう。それも当然だ。彼は当時、世界各地の研究機関を徹底的に潰して回っていたからな。《アイン・ソフ》では誰もが知る事実だ。つまり、お前の父親を殺したのは、この世界の神とも言うべき《ジョシュア=シリーズ》の中でも最高位の存在である《王国》だということだ!
だが、その事実を知ったところでどうする? お前は《王国》のジョシュアに復讐をすることができるのか!? 神ともいえるあの方に、反旗を翻すことができるのか!!」
だんだん逢坂には理解できない話になってきた。ジョシュアとは何者なのか、《王国》とは何のことを指しているのか。困惑するばかりだったが、石蕗麗にはそれが何を意味するかが分かったらしい。怒りを露にし声を荒げる。
「だ……黙れ! 黙れ、黙れ!! いくらお前が《吊るされた男》でも容赦はしない! すぐさま出ていけ!! そして二度と私の前に現れるな!!」
しかし、それを嘲るかのように、機械音声の高笑いが響き渡るのだった。
「愚かな女だ! 自分がどうすべきか、よくよく考えるんだな!!」
そして、そこで機械音声はふつりと途切れた。




