第8話 閑話休題 絆①
赤神流星は《収管庁》――旧都庁の周囲に広がる繁華街の中を歩いていた。
時間はちょうど午後の二時。
流星はその日、紅神狼とバディを組んで巡回を行っていた。
《Zアノン》信者は大人しくなってきたとはいえ、それで全てが解決するわけではない。それに上松組の影響も弱まっているものの、衝突の種はいたるところに山ほど転がっている。
午前中の巡回時に三件のゴーストによる抗争に遭遇し、うち一件はアニムスを使った衝突に発展した。ようやくそれを片付け、いちど東雲探偵事務所に戻ることになった。
そうして、つい先ほどまで神狼と共に行動していたのだが、神狼は不意に《龍々亭》の様子を見てくると言い出した。店が営業を再開したので、様子が気になるようだ。
流星は「遠慮なく行ってこい」と神狼を送り出し、今は一人で行動していた。
それからとうとう空腹が限界を迎えたのだが、どうにも事務所まで持ちそうにない。その時、このあたり――《収管庁》周辺の繁華街にラーメン屋があったことを思い出した。
(警察官時代によく通ったな。もう三年以上前になるか。昨今の物資不足で潰れちまったかもしれねえが……)
ところが、件のラーメン店は残っていた。
《中立地帯》の復興は遅々として進んでいない。流星もまた他の《死刑執行人》たちと同様、日々、復興作業に取り組んではいるものの、抗争の被害に遭った地域が広範囲にわたることと復旧車両や重機が大幅に不足していることなども相まって難航している。
だが、どれだけ復興が遅れていようと、人間は生きていかねばならないし食べていかねばならない。そのため、食料品店や飲食店などは既に営業を再開していた。
《監獄都市》の人々は逞しいと、流星はつくづくそう思う。
ともかく、さっそくラーメン店に入ろうとしたその時。流星は不意に声をかけられた。
「赤神、何だお前も来てたのか」
そこに立っていたのは、トレンチコートを羽織った角刈りの中年男性だった。流星が警察官だったころ、よく面倒を見てくれた刑事課の八代実彰だ。
「……! 八代さん」
八代はしげしげと流星の顔を見つめる。
「フン……死にかけたと聞いていたが、ずいぶんと顔色がいいじゃねえか」
「ええ、まあ……おかげさまで」
「……ならいい。何があったかは知らないが、死にたくなけりゃ分不相応な活動はやめるんだな」
ラーメン店の扉に手をかけた八代だったが、すぐに流星がその場から立ち去ろうとしているのを察し、怒ったように呼び止める。
「おい、どこへ行く?」
「あ、いや。八代さんの邪魔したくないんで。《死刑執行人》が一緒だとゆっくりメシも食えないでしょ」
「馬鹿野郎、ガキが舐めた口きいてんじゃねえ。……来い、俺のおごりだ」
「……!」
流星が警察を辞めてから、八代から食事に誘われたことは一度もなかった。それも当然だ。警察組織にとって《死刑執行人》など、非合法の犯罪集団も同然なのだから。
それなのに、なぜ今日に限って。
流星は戸惑うものの、結局、八代の後に続くことにした。
「……ありがとうございます。それじゃ、ご馳走になります」
八代のことだ、用もないのに呼び止めたりはしない。何か話があるのだろう。流星はそう判断したのだった。
店はL字型をしたカウンター席の奥にテーブル席が四つというこじんまりとした作りだ。テーブルの天板と椅子の座面が赤く、あちこちに置かれた調味料入れや箸入れ、ピッチャーなどで雑然としている。いかにも昔ながらの素朴なラーメン屋だった。
流星と八代はテーブル席の一番奥に座った。すぐにバイトと思しき若者がやって来る。
「らっしゃっせー! メニューはお決まりでしょうかー?」
通い慣れているのだろう、八代はメニュー表も見ず即座に注文をした。
「醤油ラーメンの大」
「それじゃ、俺も同じもので」
続いて注文をすると、八代はぎろりと流星を睨みつける。
「何言ってんだお前、それじゃとても足りねえだろう」
「まあ、警官時代ならそうでしたけど、今はだいぶ食が細くなりましたよ。俺ももう、そんな若くはないんで」
「バーカ、二十代はまだ若造だ。しっかり食え! ……すまんな、兄ちゃん。醤油ラーメン大、チャーシュー大盛りでな」
「あざぁっす! ラーメン大ひとつ、ラーメン大チャーシュー大盛り一つ!」
バイトは叫ぶと同時にカウンターへと向かう。
ラーメン店の中は以前と全く変わっていなかった。決して広くはないが活気のある店内。物資不足の影響か、メニューは以前と比べ値上がりしているが、客足は全く減っていない。そのせいか、こうして八代と共に座っていると、余計に警察官時代に戻ったような感覚になる。
それは八代も同じであるらしい。ラーメンが運ばれてくると割り箸を割りつつ、流星の手元に目を留めた。流星にはラーメンに酢とラー油を多めに入れる習慣がある。それを覚えていたのだろう。
「赤神……お前、まだそのクセ直らねえのか」
「意外といけますよ。八代さんもどうですか?」
「俺ぁ、遠慮しとく。まあ、入れたとしても、せいぜい胡椒くらいだな」
八代は半眼で肩を竦める。流星が警察官だった頃も、ラーメンに酢とラー油をぶち込むたび八代は同様の表情をしていた。それを思い出すと何だか無性におかしくなって、流星は思わず笑った。
「ははは、八代さんの硬派なところも変わりませんね」
すると、八代も昔を懐かしむように笑う。
「昔はよくこうやってみなで一緒に飯を食ったな。《監獄都市》での勤務は全国で最も過酷なことで有名だが、唯一の救いは人間関係が良好だったことだ。みな等しく辛い境遇に置かれているため、自然と団結力が強まるんだろうな」
「強化外骨格があるとはいえ、高位ゴーストも相手にしなきゃならないですしね」
「ああ、そうだな」
それから八代は笑みを引っ込めてから、遠くを見つめつつ呟くようにして続けた。
「赤神、お前はいい警察官だった。正義感や責任感が強く、冷静で協調性も兼ね備えていた。何より体力に恵まれていた。あのまま機動装甲隊員を続けてもしっかり成果を出せただろうが、お前なら刑事課に来てもうまくいくだろうと……俺は期待していたんだ」
「……。すみません、ゴーストになってしまって」
「まったくだ。大バカ者だ、お前は。大バカ者の、裏切り者だ……!」
八代は怒った風を装った口調でそう言ったが、最後の方は言葉を詰まらせた。そして、それを悟られまいと乱暴に麺を啜る。いつも厳しい八代のその様な姿を目の当たりにすると、流星も申し訳なさで胸が痛んだ。
決して望んでゴーストになったわけではない。だが、自分がゴーストになったせいで誰かを苦しめていたなんて。
だが、どれだけ後ろめたさを感じたとしても、今の流星にはどうしようもない。どれほど後悔しようとゴーストを辞めることができるわけではないのだ。それで余計に心苦しさが増す。
流星は箸を止め、口を開いた。
「正直なところ、最初はゴーストであることに抵抗がありました。人間に戻りたい。戻って元の人生を取り戻したい。何度そう思ったか分かりません」
「赤神……」
「今ではすっかり慣れましたけどね。《死刑執行人》は今の自分にとって天職だと思ってます」
それを聞いた八代は顔を歪めた。怒りと葛藤、納得のいかなさ、さらに流星を憐れむ思いがごちゃ混ぜになった表情だった。
八代も分かっているのだ。流星がゴーストになった、その事実はもうどうすることもできないのだと。そんな八代を見て、流星は困り顔で笑う。
「そんな顔をしないでくださいよ、八代さん。俺はそんな風に同情してもらえる人間じゃありません。一番の被害者は機動装甲隊員の高杉さんや沢村さん、それに中島や森田なんですから」
「……。そうか……そうだな」
そしてしばらく互いに黙って麺を啜った。
店は常に客が入れ代わり立ち替わりで、そのたびにバイトが元気よく大声を張り上げる。店内が賑やかで本当に良かった。何の悪気もない喧騒が二人の間に横たわる沈黙を埋めてくれる。
やがて八代は再び口を開いた。秘密を打ち明けるような、低く密やかな声だった。
「……俺はな、赤神。本当はお前はやってないんじゃないかと思うことがある。そもそもお前は、人一倍正義感が強く犯罪を犯すような奴じゃなかった。もし仮に何らかの理由で犯罪に手を染めたのだとしても、犯した罪から逃げようなんて、そんな外道な真似をするような奴じゃなかった。だから、もしお前が機動装甲隊の隊員を殺したのなら、それを認めていたはずなんだ。――『俺がやりました』と、な。
だが、実際はそうじゃなかった。お前は一度も罪を認めず、ただひたすら荒唐無稽な主張を繰り返すばかりだった。誰もがお前は反省していないか、自分の犯した罪を直視できないのだろうと考えた。被害者のことなど鑑みず、ただただ自己弁護に徹するクズの犯罪者になり果てたのだ、と。それも当然だろう、お前意外に容疑者は一人もいなかったんだからな。
だがそれなのに、一方でお前は自責の念に苦しみ、とうとうゴーストになってしまった。何ていうか、こう……いろいろと辻褄が合わねえ気がするんだよ」
「……」
「妙なのはそれだけじゃねえ。この件はどうも臭う……そう感じた俺は、ある程度、署が落ち着くのを待って、お前の事件をもう一度調べ直したんだよ。ひょっとしたら他に真犯人がいるのかもしれないと思ってな」
「……! 本当ですか」
それは初耳だった。驚いて聞き返すと、八代は神妙な顔をして頷く。
「ああ。そりゃそうだろう、ここはゴーストの街だ。例えば、警察に恨みを持ったゴーストが警察署内部に入り込み、アニムスを使って警察官を撃ち殺した……などという可能性があることは否定できない。《監獄都市》で勤務したことのある警察官なら、誰もが考えることだ。その視点でもう一度調べれば、何か新しい発見があるかもしれない。そう思いついたら、もう、じっとしてはいられなかったんだよ。
そもそも事件当時、関東警視庁全体がひどく動揺して混乱状態にあったし、慢性的な人員不足も影響して捜査も十分じゃなかった。……犯人がゴーストであった場合、俺たちがそいつを逮捕することはできない。だが少なくとも、お前の無罪は証明することができる」
「八代さん……」
「だが、その時、妙なことが起こった。上がすぐさま再捜査をやめろと言い出したんだ。よくは分からないが、どうも《西京新都》の方から圧力があったらしい。それだけじゃねえ、おまけに事件に関する捜査ファイルまで機密扱いにされ、一切、閲覧できないようにされちまった。
確かにお前の起こした事件は異例尽くしだったが、これはいくら何でもおかしすぎる。絶対に何かあると思って粘ったんだが……それ以上はどう頑張っても踏み込めなかった。国家公務員の限界ってヤツだな。国が決めたことには逆らえねえ」
八代は一瞬だけ、ラーメン鉢に添えた左手をぐっと握った。その様子から察するに、彼は今でも事件当時の捜査内容に納得がいっていないのだろう。
何故、八代の調査に待ったがかかったのか。流星にはその理由がすぐに分かった。流星に罪を被せた警官殺しの真犯人である月城響矢がゴーストだったからだ。しかも、ただのゴーストではない。国家機関によって使役されている特殊なゴースト――陸軍特殊武装戦術群の一員だ。つまり月城は東雲探偵事務所を見張っている雨宮実由起や碓氷真尋らと同じような立場だったのだろう。
現在、ゴーストは日本国民だと認められていない。そもそも人間であることすら認められておらず、ゴーストであると判明した時点で国籍や戸籍はもちろん、ありとあらゆる義務と権利が剥奪され、ここ《監獄都市》に収監される。その危険極まりない獣同然のゴーストが国家機関に使役されていたどころか、十数人の警察官を殺害するという大量虐殺を起こしていたと知れ渡ったらどうなるか。とんでもないスキャンダルに発展するのは間違いない。
《西京新都》はそれが明るみになることを恐れたのだ。だから、八代が調査しようとするのを力づくで握り潰しにかかったのだろう。
「そうだったんですか……知りませんでした。ありがとうございます、八代さん。俺を……少しでも信じてくれて」
「まあ、お前だけのためじゃねえ。被害者や被害者の遺族のためにも、真相は明らかにすべきだ。……結局は力不足だったけどな」
「殺害された機動装甲隊員の皆のことはともかく、俺のことは気にしないでください。もう過ぎたことです。ゴースト犯罪による事件の絡みで会うたび、八代さんが発破をかけてくれたから、どうにか頑張れました」
すると八代は、ぎゅっと眉根を寄せつつ首を振った。
「俺ぁ、別にそういうつもりじゃねえ。実際は何度もお前を疑ったし、犯人であって欲しいと願ったことさえある。だが、どうしても……どうしても違和感を拭うことができなかった。全て忘れ、心の底からお前を裏切り者だと憎めたらどんなに楽かと思ったよ。だが、そうするには俺はお前のことを知り過ぎちまっていたんだ。
……かといって、ドラマのヒーローみたいに真実を暴くなんて息巻く気にもなれなかった。『組織と戦う』なんてのはただの自己欺瞞、おためごかしだ。何故なら俺自身がその組織の一員なんだからな。そんな理屈を無視して理想を追い求められるのは、無知であることが許される若い時分だけだ。……現実なんてそんなもんだ。笑っちまうだろう?」
「いえ、八代さんは警察官として正しい選択をしたと思います」
「はは、そうだな。赤神、お前の言うとおりだ。俺は警察官だ。それ以上でもそれ以下でもない……ただそれだけなんだ。その事実を嫌というほど思い知らされたよ」
八代の言葉には自嘲と諦めが滲んでいた。歯がゆさや憂慮の念はとうに燃え尽き、己の無力に打ちのめされている。そういう、乾ききった自虐の言葉だった。プライドと信念をもって仕事に打ち込んできた八代だからこそ、現状が無念でならないのだろう。
そう、八代は警察官だ。骨の髄まで警察官なのだ。
それが分かっているからこそ、流星は事件現場でどれだけ八代に罵倒されても怒る気になれなかった。
八代が警察官であるのに対し、流星は《死刑執行人》。いくら八代が内心で流星のことを気にかけていたとしても、直接、流星に言葉をかけるのは憚られただろう。警察内部には《死刑執行人》と《アラハバキ》や《レッド=ドラゴン》を同列に見る者も少なからず存在するからだ。
また、たとえ『身内』が理解してくれたとしても、もし一般市民が《死刑執行人》と警察官が慣れ合っている光景を目にしたらどう思うか。
ただでさえ《壁》の外から見捨てられている彼らが、警察さえ頼りにはならないと感じたら。
拠り所を失った彼らの立場はどうなってしまうのか。
そんな力なき一般市民の信頼を損ねないためにも、無法者である《死刑執行人》と警察官が交わるわけにはいかない。周囲に何か関係があるのではないかと疑われたり、そのような目で見られたりすることなどあってはならない。
だから八代が流星に声をかけようと思ったら、罵倒するしかなかった。
八代の立場上、そういう方法しか許されなかったのだ。
けれど、わざわざ言葉で説明されずとも、流星には八代の気持ちが分かっていた。流星もかつては警察官だったから。
一方の八代は肩を落とす。彼にしてはずいぶんと弱々しい仕草だった。
「ここ最近は特に思う。どんなにゴーストが大規模抗争を起こそうと、それがゴーストによるものである限り、警察は対応することができない。《ゴースト関連法》によって国家機関……特に警察がゴーストと関わるのを禁じられているからな。どんなに残忍な奴が犯人だったとしても、そいつがゴーストであるなら、それだけで犯人逮捕はおろか捜査すらできない。警察はそんな役立たずな組織に成り下がっちまった。
《アラハバキ》御三家の一角、上松組の内部抗争ですら、何も手出しができないまま片がついてしまった。反社会勢力が好き放題に暴れ回っているってのに……だ! できることがあるとすれば、せいぜい住民を避難させることくらいだ。指を咥えてゴースト同士の抗争を眺めながら……な。
……警察は無力だ。何のための、あるいは誰のための警察組織なのか。そもそも俺たちは何のために存在しているのか。お前たち《死刑執行人》が堂々と抗争を鎮圧しているのを見るたび、どうしようもない虚無感と無力感に苛まれる」
「八代さん……」




