第7話 閑話休題 寧々の日常③
そんなある日、寧々と朝比奈は食料品と日用品の買い出しに出かけた。
普段、買い出し担当である琴原海が仕事に忙殺されており、外に出られそうになかったため、その代役を務めることになったのだ。
《中立地帯》の復興はまだ道半ばだが、商店や飲食店の営業は早くも再開されていた。
とはいえ、決して街中に十分な物資が出回っているわけではない。最寄りのスーパーに行っても品揃えは悪く、棚はガラガラだ。そのため、いくつかの店舗を巡ることになった。
そしてどうにか必要なものを手に入れ、東雲探偵事務所へ戻る。
腕力のある朝比奈は油や米、洗剤など重い荷物を持ち、寧々は比較的、軽いものを買い物袋に入れて提げた。
とはいえ、量が量なので塵も積もれば山となるで、それなりに重い。正直なところ体力の限界だったが、弱音は絶対に吐きたくなかった。
これ以上、『役立たず』でいるのは嫌だったからだ。例え周囲がそれを咎めなかったとしても、自分で自分を許せなかった。
ふらふらになりつつ歩き続けると、ようやく東雲探偵事務所の赤レンガで覆われた建物が見えてくる。すると、朝比奈が寧々に声をかけてきた。
「寧々さま、ここまで来ればさすがに賊に襲われることもないでしょう。まずはこの大荷物を事務所の中へ置いてきます。すぐ戻りますので、しばしの間、ここでお待ちを」
「もう、大丈夫よ、朝比奈。事務所はもうすぐそこじゃない。私なら平気だから」
「いいえ、そういうわけには参りません。お嬢さまは歩きすぎて、踵に靴擦れができているでしょう?」
「……! どうしてそのことを……?」
弱音を漏らしたつもりは全くないのに。寧々が驚くと、朝比奈は「ふふ」と笑ってウインクをする。
「朝比奈には何でもお見通しなのですよ。とにかく、ここで待っていてください。すぐ戻りますから。いいですね?」
そう言うと、朝比奈は両手いっぱいに重い荷物を抱えているとは思えないほどの颯爽とした足取りで、東雲探偵事務所の方へ歩いていく。
あの様子なら、きっとすぐに寧々のところへ戻ってきてくれるだろう。寧々は朝比奈の提案を受け入れることにした。
(普通に歩いていたつもりだけれど、朝比奈にはばれていたのね。朝比奈は本当に私のことをよく見てくれている……)
確かに、あちこち歩き続けるうちに痛めた踵が、ずっとズキズキ痛んでいた。体力の消耗もこの痛みによるところが大きい。
さぞや大きな傷になっていることだろう。靴擦れが気になって体をひねると、そのはずみで手提げ袋が裂け、中から林檎が転がりだした。あまりにたくさんの荷物を詰め込んでいたので、袋の耐久性もまた限界だったのだ。
地面に落ちた林檎はコロコロと警戒に転がっていく。
「あ、いけない!」
このご時勢、食料はとても貴重だ。たとえ林檎であろうと一個たりとも粗末にはできない。
林檎はそのまま路地の奥へ転がっていく。寧々は慌ててそれを追った。
しかし荷物は多く、靴擦れもひどく、身を屈めるのも一苦労だ。
悪戦苦闘していると、そこへふと一人の若者が近づいて来た。茶髪でチェックのジャケットを羽織った、親しみやすそうな雰囲気をまとった男性だ。年齢は二十代前半ほどだろうか。
男性は林檎を拾うと寧々に手渡す。
「ありがとう、とても助かったわ」
寧々が林檎を受け取ると、男性は気恥ずかしそうに笑った。
「どういたしまして。ええと、君は……確か東雲探偵事務所に居候している子だよね? 雨宮さん、事務所にいるかな?」
「いいえ、今は巡回に出ていると思うわ」
「そうか……困ったな。できたら話をしたかったんだけど」
「最近の深雪はとても忙しそうだものね。あなたは深雪の知り合いなのでしょ? 事務所の中で深雪を待つのはどうかしら?」
「いや……それはやめておくよ。迷惑をかけたくないし」
何の気なしに提案したのだが、若者はかしこまった顔をしてそう答えた。どうやら、見かけよりはずっと真面目な性格らしい。
寧々はくすりと笑う。
「ふふ、謙虚なのね。……私の名前は轟寧々。リンゴを拾ってくれてありがとう」
「俺の名は久藤衛士だよ。……でも、あれ?『轟』って、もしかして……!?」
「ええ。私は第十三代《アラハバキ》総組長、轟虎郎治の孫娘なの」
すると、久藤と名乗る若者はぎょっとした様子で大きく仰け反った。
「……え、本当? 本当に!? 冗談じゃなくて!?」
「ふふふ、そんなに驚かなくても、本物よ。……いろいろあって、《アラハバキ》の家には居辛くなって、深雪たちに保護してもらったの」
『轟虎郎治の孫』のインパクトに驚き、後ずさりさえした久藤だったが、すぐに寧々から危険は感じないと判断したらしい。落ち着きを取り戻して頭をかく。
「ふうん……《アラハバキ》のことは俺にはよく分からないけど……家出か。色々大変なことがあるんだね。でも、いつかは家に戻るんだよね?」
そう尋ねられ、寧々は少し胸の奥がちくりとするのを感じた。やはり世間一般ではこういう時、家に戻るのが普通なのだろう。だがそれでも、寧々の決意は変わらない。毅然として首を振る。
「いいえ、わたしはもう《アラハバキ》には戻らない。そう決めたから」
「へえ……そうなんだ。それはどうして? 聞いてもいい?」
「ごめんなさい、事情がいろいろと複雑で……」
「あっ……いいよ、いいよ。謝るのは俺の方。プライベートに踏み込んじゃってごめんね」
久藤はなおもその話題に興味を抱いているように見えたが、それ以上、根掘り葉掘り尋ねてくることはなかった。寧々が家出について話をするのを避けたがっていることを察してくれたのだろう。
代わりに別の質問をする。
「あ、それじゃあさ。ええと……寧々……さん?」
「寧々でいいわ。多分、私の方があなたよりも年下だもの」
「それなら、俺のことも『衛士』って呼んでよ。みんなからそう呼ばれてるから」
「分かったわ」
「じゃあ、改めて寧々に聞きたいんだけど、轟の姓を持つ君がどうして東雲にいるの? てっきり俺、《アラハバキ》と《死刑執行人》は犬猿の仲だと思っていたから、何か意外で」
「それはね、ちょっとした特別な経緯があって……」
寧々は深雪との出会いから東雲探偵事務所へ来ることになった経緯、そして《轟鬼衆》との決別に至るまで、一連の出来事を掻い摘んで説明する。久藤は真剣な表情をしてその話に耳を傾けていた。
「なるほど……雨宮さんに助けてもらったのか。それで東雲探偵事務所に来たと。……寧々は東雲で何をしているの?」
「今は家事や買い出しを中心に事務所のお手伝いをしているわ。いずれ事務処理のお仕事ができるようになればと思っているけれど、私、自分でもびっくりするくらい何もできないから、先は長くなってしまうかも」
「ふうん……そうなんだ……」
久藤は何やら思案顔だ。彼の顔があまりにも真剣なので、寧々は可笑しくなって、つい笑みを浮かべてしまう。
「聞きたいことはそれで全部?」
「え……?」
「衛士はこの事務所がすごく気になっているのね。最近、よくこの事務所に来ているでしょう? 三階からあなたの姿、よく見えていたわ」
現在の《中立地帯》が危険であることは知っていたし、朝比奈にも「知らない人が近づいてきたらすぐに逃げてください!」と、念を押されていた。それにもかかわらず寧々が久藤から逃げなかったのは、彼の顔に見覚えがあったからだ。
しかし久藤の方は自分の姿が見られているとは思いもしなかったらしい。目を見開いた後、それを誤魔化すように笑う。
「ああ……ちょっと雨宮さんに相談したいことがあって。それで、うろうろしてたんだ。でも雨宮さんも忙しいみたいで、なかなか捕まらなくて……俺、不審者みたいに見えてたかな?」
寧々はいたずらっぽく肩を竦めた。
「そうかも。私は気にならなかったけど」
「はは……驚かせてごめんね。次からは気を付けるよ」
久藤は困ったように頭を搔いた。どうやらそれが彼の癖であるらしい。不審者呼ばわりされてもそれを怒るどころか、自分の行動が紛らわしかったのだと反省して改めようとする。とても素直で優しい人だと、寧々は久藤に好感を抱く。
けれど、すぐにふとあることに気づき、首を傾げた。
「……でも、衛士。あなたは深雪に用があるのに、深雪がいない時を狙ったかのようなタイミングで事務所に来ていたわよね? それはどうして?」
「……! そ……それは誤解だよ。たまたま時機が悪かっただけ。さっきも言ったけど、雨宮さんは忙しいから」
「そうなの? なーんだ。私、衛士のことスパイかと思っていたのに」
その瞬間、久藤の顔から表情がすとんと抜け落ちた。
まるで照明のスイッチが切り替わったかのように。真面目で素直な好青年の顔から機械人形のような無機質な顔へと豹変したのだ。
しかしその時、寧々は折悪しく久藤に背を向けており、彼の表情の変化に気づかなかった。
路地の向こうに横たわる東雲探偵事務所を見上げて、寧々はひとり喋り続ける。
「実は私、最近、映画を見始めたの。実家にいた時はほとんどそういったものに触れられなかったから。それでね、この間、朝比奈と一緒に大昔の大戦期に活躍したスパイの映画を見たのよ。ほら、この洋館もかなり古いでしょう? そのスパイ映画に出ていた建物がこの事務所そっくりで、そのせいか余計に印象に残ったの。あの中から衛士の姿を見た時、何故だかその映画を思い出したのよ」
それから寧々は久藤の方を振り返る。
「ねえ、衛士。衛士は映画を見る? どういうジャンルのものが……好……き……」
その段になると寧々もさすがに久藤の異変に気付いた。
久藤は寧々から見ても明らかに様子が一変している。人好きのする青年から、恐ろしいほど無機質で無表情な恐ろしい何かへと。
その薄皮のような無表情に包まれた奥には、ざらりとした悪意が透けて見える。
さすがに寧々は恐怖を覚え、荷物を抱えるとわずかに後ずさった。
「衛……士……? どうか……した……の……?」
混じりけのない純粋な悪意。
お嬢さまとして育てられた寧々は、そういったものを面と向かってぶつけられたことがなかった。だからこういう時、どうしたらいいのか分からない。
自力で身を守れないほどの危険が差し迫っているなら、一刻も早くその場から逃げなければ――そんな発想すら湧かなかった。
久藤は黙って寧々に近づいてくると、その顔を覗き込む。
感情のないガラス玉のような瞳。
その奥に潜む、どす黒い憎悪と嫌悪。
「衛、士……?」
寧々は戸惑ってその名を口にする。すると久藤は冷やりとする声音で言った。
「……確かにね。俺はひょっとしたらスパイなのかも」
「え……」
「だから轟寧々、君のこともよく知ってるよ。他の人は気づいていない……多分、あの朝比奈って従者や雨宮深雪さえ知らない秘密を、ね」
「な……何……? あなたは何を知っているの……!?」
寧々の体はカタカタと震え始めた。自分でも何故か分からない。だが、これから途轍もなく危機的な出来事が起こる気がしてたまらなく怖かった。
このままではいけない。
ここから離れなければ。
それは分かっていたが、恐怖のあまり体が動かない。
久藤はガラス玉のような目をカッと見開く。獲物を捕らえた猛禽類のように。
「僕は君が本当は何なのかを知っている。君が普通の人間じゃないこと、他の多くの『轟寧々』を犠牲にしてここまで生きてきたこと。それでも、代わりはいくらでもいる代替品……哀れで惨めでどこまでいっても自分になれない、あくまで誰かの代わりでしかない。この世に存在しようとすまいと大差はない空虚な予備のスペア、それが君なんだ」
「い……いや……やめて……!!」
背中にどっと冷や汗が溢れた。それ以上は何も聞きたくない。そう思うのに、耳を塞ぐこともできない。
それを見透かしているのか、久藤の口調はさらに攻撃的な色合いを強める。
彼は今や、寧々に対する侮蔑と嫌悪を隠しもしなかった。
「そうさ! 俺は君がなんであるのか知っている!! 君は失われたものの幻影としてただ飾られているだけの、お人形さ!!」
代わりはいくらでもいる代替品。
この世に存在しようとすまいと大差はない空虚な予備のスペア。
寧々は久藤が何を言っているか、その意味をきちんと理解していた。理解していたからこそ、その残酷な事実に耐えられなかった。
「いや……やめて……! 違う……違う、私は……!! いやああああああああ!!」
寧々の悲痛のこもった絶叫が閑静な通りに響き渡る。
その時、深雪はシロと巡回からちょうど戻ったところだった。いつものコースを回り、珍しく喧嘩や抗争が無かったので、ほっとして帰路に就いたのだ。こんな幸運は一週間に一度、あるかないかくらいだった。
ところが、あともう少しで東雲探偵事務所だというところで突然、悲鳴が聞こえてきて、驚いて足を止める。シロもぴくりと獣耳を跳ねさせて叫んだ。
「今の、寧々ちゃんの声だ!」
「寧々……!? 何かあったのかな!? 探そう!!」
「うん!」
するとその時、事務所の玄関からものすごい勢いで朝比奈が飛び出してくる。
「お嬢さま!!」
深雪とシロもそれに続いて駆け出した。
先頭を走る朝比奈、それを追う深雪とシロ。三人は事務所の前に広がる通りを挟んだ、建物と建物の奥へと伸びる路地へと入っていく。
その前方にうずくまって震える寧々の姿が見えた。
彼女は一人だった。他には誰もいない。
買い物帰りなのだろう、そばには買い物袋が落ち、いくつかの林檎が転がっている。
朝比奈は寧々のもとに駆け寄って、抱え上げるようにして彼女の顔を覗き込んだ。
「お嬢さま! どうか、しっかりなさってください! 申し訳ありません、朝比奈が目を離したばっかりに……!! ああ、こんなに震えて、いったい何が……!? まさか、何者かに危害を加えられたのでは……!?」
すると寧々は激しくかぶりを振る。彼女の瞳は見開かれているものの、焦点が全く合っていない。おまけに虚が開いたかのように真っ黒だ。
完全に放心してしまっているらしく、必死で呼びかける朝比奈の言葉さえ聞こえていないようだった。
「う……嘘よ、そんなの……私……私は……!!」
寧々は、うわ言のように呟くと、くしゃりと顔を歪める。そして、虚ろなその両目からどっと涙が溢れた途端にとうとう嗚咽し始めるのだった。
「お嬢さま……ああ、お嬢さま……!!」
朝比奈はその場に崩れ込んですすり泣く寧々を力いっぱい抱きしめる。朝比奈にも寧々の身に何が起こったのか分からないのだろう。ただ、そうすることしかできないのだ。
深雪とシロは少し離れたところで二人を見つめていた。
シロは悲しそうな顔をして囁く。
「寧々ちゃん、どうしちゃったのかな?」
「……分からない。あんなに取り乱す寧々、初めて見たよ。何かよほどショックなことが……」
ところが、深雪はその途中で思わず言葉を飲み込んだ。いつの間にか隣に雨宮が立っていることに気づいたからだ。
「……! 雨宮 ……!?」
全く気配を察知することができなかった。深雪は驚いて雨宮の横顔を見つめる。当の雨宮は寧々へとまっすぐに視線を注いだまま、素っ気なく言った。
「轟寧々には入れ込むな。下手に情が移れば、いずれ後悔することになるぞ」
それを聞き、深雪は眉根を寄せる。
「雨宮 ……それはどういう意味なんだ? 雨宮は寧々の身に何があったのか、知っているのか!?」
しかし、その問いに雨宮は答えない。今度は深雪の方をじろりと睨み、念押しするような口調で言う。
「それから、素性の確かでない者を身辺に近づけるな。来るもの拒まずはお前の悪い癖だ。もっと己の立場を自覚しろ。……いいか、忠告したからな」
そして雨宮は去っていく。
「ユキ……」
「……」
シロはどういうことかと深雪を見上げる。だが、わけが分からないのは深雪も同じだった。
何故、寧々に入れ込んだらいずれ後悔することになるのか。素性の確かでない者とは誰のことを指しているのか。
さっぱり分からない。
(今のはどういう意味なんだ? 寧々の身に何があったんだ? 彼女には一体、どんな秘密があるというんだ……!?)
だが、その問いに答える者はやはりどこにもいない。
通りは不気味なほど薄暗く、そして静まり返っている。全てを拒絶し、嘲笑うかのように。
その闇の中で、ただ寧々のすすり泣く声だけがいつまでも響いていた。




