第6話 閑話休題 寧々の日常②
深雪の言う二人が誰のことなのか、寧々は知らない。だが、彼がその二人のことをとても大事に思っているのは伝わってくる。
寧々は眩しいものを見つめるようにして目を細めた。
「そう。何だかうらやましいわ。私、殴り合いの喧嘩なんて、これまで一度も経験したことがないの」
「へえ……寧々は本当に大切に育てられてきたんだな」
「……そうなの。私はお祖父さまの孫娘ではなく、あくまで『宝物』なのよ」
自分で自分を否定するようなことは言いたくない。でも、事実なのだから仕方がなかった。深雪はわずかに眉根を寄せる。
「寧々……?」
「私ね、深雪。この屋上へ来るといつも考えるの。《関東大外殻》って何なんだろうって」
深雪も寧々の隣に立ち、並んで《関東大外殻》を見つめる。
「そういえば、最初に俺たちが会ったのも《関東大外殻》の真下だったっけ。寧々はあの時からあの黒い壁に強い興味を持っていたよね。鉄条網を乗り越えようとまでして……本当に焦ったよ」
「深雪ったら……その話はもうしないで! 自分でも黒歴史だったと思ってるんだから……!!」
寧々は頬どころか耳まで真っ赤になり、両手で顔を覆った。
あの時は我ながらどうかしていたと思う。思い出すたび、顔から火を噴きそうなほど恥ずかしくなる。轟の屋敷を出たばかりで、気が昂っていたのだろうか。もっとも、あの行動のおかげで深雪とシロに出会えたのだが。
「ははは。あれはあれで個性的だったし、魅力的だったよ」
深雪はそうフォローすると、再び《関東大外殻》の方へ目を向けた。
「でも、確かに……ただの壁には見えないね。寧々はあれを何だと考えているんだ?」
「分からない。でも、不思議と怖いとか気味が悪いという感情はないの。轟の屋敷からもあの壁は見えていたから……そのせいかしら? むしろ、懐かしいっていうか……声が聞こえる気がするのよ」
「声……?」
「ええ。変よね、私。そんなことあるわけないのに」
寧々はおどけて笑うが、深雪は笑わなかった。真剣な表情をして寧々に尋ねる。
「因みに、その声は寧々に何て言ってるの?」
「こっちにおいでって……そう囁いているわ」
「以前も寧々は同じことを言っていたね。『あの《壁》が呼んでいる』って。今もそれが続いているってこと?」
「ええ。あの時は声の聞こえてくるままに従っていたから、つい、おかしな行動までしてしまって……」
「それじゃ、今でも《壁》の元へ行きたいと思ってる?」
「いいえ……今は少し、怖いと思っているわ。《壁》は怖くないけれど、近づくのには抵抗がある」
「それはどうして?」
「うまく言い表せないのだけど……一度、そちらへ行ってしまったら、元には戻れない気がするの。東雲探偵事務所に戻って来れないのはもちろん、深雪やシロ、朝比奈とさえ二度と会えなくなるかもしれない。それどころか、私が私でなくなってしまうかもしれない……そういう、嫌な予感で胸が締め付けられるのよ」
「……」
轟の屋敷を飛び出した時、寧々には他に行く当てなどなかった。
《新八洲特区》にいられないのは理解していたが、さりとて《中立地帯》や《外国人街》に知り合いがいるわけでもない。かと言って轟虎郎治の孫娘である自分が《東京中華街》へ行くなど、もっての外だろう。
だから寧々は後先考えず、自分が最も行きたいと思う場所へ向かった。それが《関東大外殻》だ。その時の寧々にとって、それほど《関東大外殻》は心惹かれる対象だった。
しかし今は、《関東大外殻》のことが少し怖いと感じ始めている。
何故なら、気づいてしまったからだ。
どう考えても無機物である壁から声がするなんてあり得ない。いくら箱入り娘の世間知らずでも、それが異常だということくらいは分かる。つまり、寧々の耳にしているこの声は、寧々の中になにがしかの問題があるからではないか、と。
そして最大の恐怖は、その『なにがしかの問題』さえなかった場合だった。
寧々の中に内的要因や心理的要因があり、それが幻の声を聞かせているならまだいい。だがもしそうではなかったら。本当にあの壁が信号を発していたとしたら。
それは何故なのか。何故、寧々にだけその声が聞こえるのか。
それはひょっとして――寧々の『誰にも打ち明けられない秘密』と関係があるのでは。
考えれば考えるほど、恐ろしさで体が震えてくる。
「私……やっぱり変よね」
途方に暮れて肩を竦めると、深雪は首を振る。
「そんなことはないんじゃないかな」
「深雪……?」
「気になるなら、もう一度、一緒に《関東大外殻》の下まで行ってみよう。今すぐには難しいけど、街の様子がもう少し落ち着いたら」
そんな提案をされるなど思ってもみなかった。寧々はすっかり驚いて目を見開いた後、小さく微笑む。
「……深雪は不思議ね。こんな話をしてしまったんだもの。私、てっきり笑われるかと思ったわ。それか、気のせいだよと流されるか。だって、こんな話、普通の人は真剣に聞いたりしないもの。でも、深雪は笑わずにちゃんと私の話を聞いてくれる。すごくほっとしたわ。深雪になら何でも打ち明けられる気がするくらい」
普通に考えれば、寧々の告白など一笑に付されても仕方がないだろう。
壁から声など聞こえるわけがない。無機物は言葉を発しないし、そもそもその声とやらは寧々以外の誰にも聞こえていないのだ。寧々が噓を言っているか、そうでなければ『少し変わった感性』の持ち主なのだろう――そう捉えられても不思議ではない。
けれど、深雪は寧々を変わり者扱いしなかった。寧々の言葉を笑わなかったし、嘘だと決めつけもしなかった。
それがどれだけ有難かったか。その優しさにどれほど励まされたか。
『誰にも打ち明けられない秘密』を抱える寧々にとって、それは大きな救いだった。
すると、深雪も寧々に微笑みを返す。
「……実は、俺も《関東大外殻》に関してはずっと気になっていたんだ」
「あら……そうなの?」
「ああ。俺はこれまでずっと、《関東大外殻》が無くなってしまえばいいと思ってきたから。《監獄都市》はひどく閉鎖された街だ。この街で起こる問題の八割は、その閉鎖性が原因だと言っていい。だから《関東大外殻》さえ無ければ……《壁》の内と外を隔離するモノさえ無くなれば、少しは良くなるんじゃないかって……。正直、今もあの《壁》を無くす方法はないんだろうかと考えてる」
《関東大外殻》を見つめる深雪の横顔は真剣そのもので、彼が本気であることが伝わって来た。深雪は本当に《関東大外殻》を排除してしまいたいと考えているのだ。
「……。そう。深雪はあの巨大壁がこの街の人達を苦しめる元凶だと思っているのね。それは正しいのかもしれない。でも……もし消滅するしかないのだとしたら、あの《壁》……とても可哀想ね」
「寧々……」
決して深雪の考えを否定したかったわけではない。けれど、寧々の口をついて出た言葉は、《関東大外殻》に対する同情と憐みの言葉だった。《関東大外殻》に対して抵抗や恐怖を感じるのに、いざ消え去ることを考えるとそれは可哀想だと思ってしまうのだ。
だがそれは、やはり普通の人の感性ではない。それに、深雪にも失礼だ。深雪は本気で《監獄都市》の人々のことを考えているのに。
そのことに気づいた寧々は、ハッとして深雪に謝った。
「ご、ごめんなさい。変なことを言ってしまって。深雪は真剣に考えているのに……!」
すると深雪は、静かに首を振る。
「大丈夫。あの《壁》は簡単には無くならないよ。もし無くすことができるなら……多分、誰かがとっくにそうしてる」
深雪は複雑そうな表情をしていた。俯いたその横顔には、悔しさともどかしさが滲んでいる。彼は《関東大外殻》について何か知っているのだろうか。《関東大外殻》がすぐには無くならない、その理由を知っているのだろうか。
だが何となく、寧々はそれを確かめられなかった。何故だか分からないけれど、それ以上、踏み込むのが――本当のことを知るのが怖かった。
深雪はすぐに毅然と顔を上げ、再び口を開く。
「でも、俺はまだ諦めていない。どこかにいい方法があるんじゃないかと思うんだ。破壊とか革命とか……多くの犠牲を出したり、誰かを……何かを槍玉にあげたり切り捨てたりするやり方じゃなく、たとえ時間がかかってもみな一緒に乗り越えられる、そんな方法が」
寧々もその言葉に頷いた。
「……そうね。そんな方法があったら誰も傷つかずにすむものね。そんなの、綺麗事だと言う人もいるけれど、最初から諦めて模索しなければ、どんな理想だって実現させることはできない。私、深雪のそういう前向きなところ、好きだわ! なんだか背中を押してもらえたような気がする。ありがとう、深雪!」
「そっか。こちらこそありがと、寧々」
寧々と深雪は互いに顔を見合わせて笑った。
深雪がどれほど大きな目標を抱いているか、世間知らずの寧々にもさすがに分かる。《監獄都市》というその名が示す通り、この街は監獄そのものだ。外の社会から隔離され、閉鎖されることで初めて成り立つ、そういう街だ。そして、それを成立させているのが《壁》――つまり《関東大外殻》なのだ。
その《関東大外殻》を無くすということは、《監獄都市》が根底から変わってしまうということでもある。
そんな『大改革』をそう簡単に成し遂げられるはずがない。《アラハバキ》総組長、轟虎郎治にさえ実現不可能だろう。
だが、深雪はそれを実行しようとしているのだ。
深雪は優しい。この街の誰一人として取りこぼさないよう、みなで未来を掴もうとしている。それが簡単な道でないことは百も承知で、それでも諦めていない。寧々はそれを好ましく思った。
いずれこの街も変わらざるを得ない日が来るだろう。その時、その中心に深雪がいればいいと寧々は思う。
変化を拒み古いルールにしがみつく者ではなく、さりとて変化は当然とばかりに他者を切り捨てる者でもなく。変化に柔軟に対応しつつも、みなで手を取り合って乗り越えようとする深雪なら、信じて共に歩いて行ける気がする。
しばらく二人並んで日の光を浴びていた。
しかし深雪は、すぐに何かを思い出したように顔を引き攣らせ、きょろきょろと周囲を見回す。
「……? どうしたの、深雪。顔が強張っているわよ?」
「い、いや……こんなところを朝比奈に見られたら、また猛烈に怒られるんじゃないかと思って……」
噂をすれば何とやらで、ちょうど朝比奈が屋上に姿を現した。
「ああ、お嬢さま。こちらにいらっしゃったのですか! ……む、お前は……!」
朝比奈は寧々の姿を目にすると、ぱっと笑顔になったが、その隣に深雪がいるのに気づき表情を一変させる。ちょうど般若の面みたいな顔だ。
「ち……違うんだ、朝比奈! 俺たちはただ世間話をしていただけなんだ! 間違っても俺が寧々を口説いていたとか、そういう事はなくて……!!」
深雪は真っ青になってあたふたと慌てふためいた。普段の朝比奈がそれを見たら、「その不審な態度は何だ!? 寧々さまに何をしようとしていた!!」と激怒しそうなほどの狼狽ぶりだ。しかし予想に反し、朝比奈は意外と冷静だった。
「ふん……なんだその阿保ヅラは? そんなに必死に弁解せずとも、それくらい分かっている。お前が寧々お嬢さまを傷つけたりはしないこともな」
「あ……あれ? 怒らないの? いつもの超高速反復横跳びは……?」
「私も寧々さまも、お前たちにはずいぶん世話になっている。おまけに《轟鬼衆》と対立してまで私たちを守ってくれたのだ。今はもう疑ってなどいない」
「朝比奈……」
「私たちがここにいることで、これからもお前たちには何かと迷惑をかけるだろう。私はどうなってもいい。だが、お嬢さまだけは……何卒よろしく頼む」
そう言って、朝比奈は深雪に向かって頭を下げた。寧々の付き人とはいえ、朝比奈も《アラハバキ》構成員の一人だ。その彼女がどんな思いで《死刑執行人》である深雪に頭を下げているか。
決まっている。全ては寧々のため、寧々がこの事務所で肩身の狭い思いをしないためだ。
「あ……朝比奈!」
寧々は胸が一杯になる。
(私のために、そこまで……!!)
朝比奈はきっとどこでも生きていける。《アラハバキ》に戻ったとしても、それなりのポジションは与えられるだろう。そんな彼女が寧々のそばにいてくれるのは、それだけ寧々のことを慕ってくれているからなのではないか。そして、寧々のことを大切に思ってくれているからなのではないか。
自分は一人ではない。
そう感じられることは今の寧々にとって、他の何よりも重要で有難いことだった。
深雪も一瞬だけ驚いたようだったが、すぐに朝比奈に向かって微笑む。
「そんなこと気にしないでよ、朝比奈。寧々も朝比奈も、二人ともうちで受け入れるって決めたんだ。それを途中で放り出したりはしないよ。この街の混乱は、おそらくまだ続く。少なくともそれが終わるまではうちにいた方がいい。その後のことは全部片付いてから、ゆっくり考えたらいいんじゃないかな。俺たちもできる限り協力するから」
「そうか……恩に着る、雨宮」
朝比奈は再び深雪に礼を言った。深雪もそれに大きく頷く。場を包む和やかな空気に、寧々も思わず表情を緩めた。
ところが次の瞬間、朝比奈はすぐに眉根を寄せて、腹立たしげに腕組みをするのだった。
「……しかしそれにしても、ここの《死刑執行人》たちは全くと言っていいほど女っけが無いな。誰か一人くらいは寧々さまの魅力にメロメロになるのではないかと思っていたが、そんな者は一人たりともいないではないか! 一体どういうことなんだ! まさかみな、女には興味がないのか!?」
「そんなことはないと思うけど……みんなあまりプライベートに干渉し合う感じじゃないから、その辺のことは分からないな。オリヴィエは神父だから、そもそもそういうの自体がNGだろうし」
深雪が説明すると、寧々もそれに賛同した。
「みな、忙しいのよ。それどころではないのだわ、きっと」
「もちろん分かっています。しかし、それはそれで腹が立つというか……これっぽっちも寧々さまに魅了されないなんて、どいつもこいつもあまりにも鈍感すぎます! 奴らの目は節穴か!? 寧々さまのこの類稀なる美貌が目に入らないのか! まったくもって許せません!!」
「もう! 朝比奈ってば、言ってることが支離滅裂よ! もし、彼らが私に近づいてきたら、それはそれで怒るのでしょう!?」
「当然です! けれど、それとこれとは別問題なのです!! この世の男たちはすべからく、寧々さまの魅力にどっぷり漬かりながらも、決して手の届かない雲上の存在として崇拝し悶絶すべきなのです!!」
朝比奈は何やら拳を振り上げ、自信たっぷりに力説する。
「は……はは……女心って難しいんだな。よく分かんねー……」
「安心して、深雪。私にも全く分からないから」
これはさすがに擁護できない。寧々も半眼でそう呟くのだった。
それはともかく、朝比奈も随分と東雲探偵事務所に慣れてきたようだった。寧々と朝比奈は陰ながら東雲探偵事務所の《死刑執行人》たちを支えることにする。
彼らが自分たちや逢坂忍、そして須賀黒鉄を守ってくれているも同然なのだから、手助けするのはある意味当然のことだが、この《中立地帯》に来て《死刑執行人》の存在がいかに重要かを知ったということも大きい。
《死刑執行人》は《中立地帯》の守護神だ。《死刑執行人》がいるからこそ、《中立地帯》がこれだけの混乱状態に陥っていても、《アラハバキ》は直接的な手出しをしないのだ。
《中立地帯》は《アラハバキ》には選ばれなかった、いわばアニムス値の低いゴーストや中位のゴーストが多く集まっている。或いは、アニムスを持たない普通の人たちも。
もし《死刑執行人》がいなければ、この街における『弱者』である彼らはとっくの昔に《アラハバキ》によって蹂躙されていたことだろう。
それは《新八洲特区》にいたままでは分からないことだった。
寧々は《新八洲特区》で育ったから、《アラハバキ》にはどうしても愛着がある。しかしそれでも、《アラハバキ》構成員が弱い者いじめをするのを良しとしているわけではない。
一刻も早く《中立地帯》が復興を遂げるためにも、今は《死刑執行人》の力が必要だ。




