第1話 閑話休題 マコトと火澄①
肌寒い冬の日のことだった。
雨宮実由起は高層ビルの屋上に設置されたヘリポートの縁に腰掛け、眼下の光景を見下ろしていた。
背には旧東京都庁、そして目の前に広がるのはほとんど焦土と化した東京の街並み。上松組の跡目争いに端を発した災害級巨大抗争によって新宿もまた炎と血の海と化したが、いくつかの建築物は辛うじて倒壊せずに残った。
外界との往来がない《監獄都市》ではヘリポートなどただの飾りに等しく、利用する者もいない。そのため、秘密裏の待ち合わせには最適だった。
空には分厚い雲が垂れ込めているが、風の流れが速いためか、時おり雲間から陽の光が差し込む。雨宮の羽織ったシンプルな意匠のジャケットもまた、風に煽られ激しくはためいた。
周りには他に誰もいない。約束の時間は1400、あともう少しだ。
その時、ふと背後から雨宮に声がかけられる。
「……この街は相変わらずですね。誰も彼もが我を剥き出しにし、協力し合うということがない。自分の不幸はすべて誰かのせい。そのくせ、その誰かが問題を解決しようとすると、総出で足を引っ張る。そして常に文句や愚痴をぶつける対象がどこかにいないか、飢えた狼のように探し求めているんだ。だから何かしら築き上げようとしても、すぐ滅茶苦茶にして壊し無に帰してしまう。……まるで癇癪を起こした幼児のように。挙句、それを正義だ革命だと褒め称える始末だからまったくもって救えない、度し難い連中ですよ。……そう思いませんか、雨宮さん?」
雨宮はその声の主の方を振り向かなかった。顔を見なくても相手が誰であるか、熟知していたからだ。
やがてその人物は雨宮のそばまでやって来る。
現れたのは、《関東収容区管理庁》――つまり《収管庁》の職員だった。
公務員らしいきっちりとしたスーツを着こみ、髪型も一部の隙も無いほど整えている。年齢は書類上では27ということになっているが、実際の『運用年数』はもう少し短く、雨宮と同い年である。
彼の名前は秋月蛍。
だが、それが偽名であることを雨宮は知っている。
その正体は雨宮と同じ、第七陸軍防衛技術研究所で開発されたクローン兵、つまり《生体兵器》だ。陸軍特殊武装戦術群・七〇一情報特務兵装の一人であり、雨宮と同じく陸軍情報保全部の命令を受け、諜報活動を行っている。
しかし彼は雨宮と違って、いわゆる《シリーズ》展開されたクローンではない。《レナトゥス》の継承のために無条件で生産され続ける《雨宮=シリーズ》などとは違い、成果が出なければ即座に製造中止に追い込まれる。そして新たに改良された『上位機種』が現場に投入されるだろう。
雨宮たちクローン兵自身はその是非を判断する立場にはなく、唯々諾々とその決定に従うのみだ。とはいえ、雨宮は秋月蛍の実力を十分に認めており、できるだけ長く共に任務に当たりたいと考えてはいるのだが。
因みにこのクローン兵・秋月蛍は、かつて雨宮と碓氷が深雪を伴って《東京中華街》に潜入する際、冷凍トラックを用意するなどして陰から作戦を支えた特務員だった。
その時は会澤友春と名乗っていた。今は《収管庁》職員に身分を偽装し、情報収集に当たっているというわけだ。
「この街はもともと情報戦の餌食になりやすいという素地があった。例のバカ騒ぎについても、裏で『何者か』の煽動が働いていたことが分かっている。もっとも……『度し難い』という点では完全に同意だが」
雨宮は抑揚のない声音でそう答えた。会澤友春、もとい秋月蛍の言うことは分からなくもないが、そんなことにいちいち腹を立てたり呆れていたりなどしたら、とても任務は遂行できない。
「『何者か』の煽動……ですか。そういえば、《スケアクロウ》とかいう輩がやたらと幅を利かせているようですね。
僕が《監獄都市》入りをする際に、PSC.ヴァルキリーに護衛を依頼したんです。新しい事務所なんで、実力のほどを見ておくべきだろうと思いましてね。ところが、《スケアクロウ》はその情報を入手し、《Zアノン》信者に流したようです。おかげで送迎中に見事に襲われまして、えらい目に遭いましたよ」
秋月は、やれやれと小さく笑った。
もちろん、情報を徹底的に秘匿する方法はいくらでもある。秋月が極秘裏に《監獄都市》を移動しようと思えば、それは十分に可能だった。
しかし、《監獄都市》内でどのように情報が流れているか、その動きを監視し把握するのも雨宮たちの任務の一つだ。
秋月は敢えてごく一般の《収管庁》職員と全く同じ手順を踏んで《監獄都市》に入ったがために情報を抜き取られ、《Zアノン》信者の襲撃を受けてしまった。だが代わりに、こちらは裏で《スケアクロウ》なる人物が動いているという確証と、その足取りを得られたというわけだ。
一方、雨宮は目を細める。その頬を冬の冷たい風が吹きつけていく。
「《スケアクロウ》の動向も追ってはいるが、核心部分はまだ掴めていない。とはいえ……奴の正体に関してはおよその想像がつくがな」
「我々が素性を追えないという点で候補はいくつかに絞られますからね。まさに頭隠して尻隠さずというやつですか。……もっとも、連中にとってはそれでも構わないんでしょう。我々など端から歯牙にもかけていないというわけだ。まったく、侮られたものです。こちらの人員も、もっと大々的に補充して欲しいところですが……『上』はそれを良しとはしないのでしょうね。夏の日中会談に向けて、早くも中国軍が遠州灘の沖合を始めとした各地で圧力をかけているようですし、今は《監獄都市》どころじゃないのでしょう」
確かに秋月の言う通りだ。いくら雨宮たちがゴーストのクローン兵であるとはいえ、あまりにも人員が足りなさすぎる。
ただ、今や東京は《西京新都》も含めた48ある地方自治体の中の一地方に過ぎず、人員が回せないという判断も分からなくはなかった。
であるなら、なおさら雨宮たちがしっかりと《監獄都市》を守りきらなければ。
「人員が多かろうと少なかろうと、やることは同じだ。我々の基本的な任務はあくまで情報収集、そのうえ公には存在しない陸軍特殊武装戦術群に属するクローン兵とあらば、実社会に過大な干渉を行うわけにはいかない。できることと言えばせいぜい情報網を築き、『敵』の仕掛ける情報戦を防ぐくらいだ。自ら表舞台に姿を晒すわけにはいかないのだからな。……この街のことはこの街の人間が動かすしかない。《収管庁》長官である九曜計都の元、一刻も早い新体制の発足が望まれる」
「五大《死刑執行人》事務所を連携させるという例の件ですね。東雲探偵事務所の所長、東雲六道が中心となってまとめようとしていますが、だいぶ難航しているようです」
すると雨宮は顔をしかめて、フンと鼻を鳴らした。
「奴は飼い犬の身でありながら以前から命令を無視し独断で動き、あろうことか、こちらに条件を提示するなど横暴な振る舞いを繰り返してきた。当然の報いだ」
「しかしまあ、そうも言っていられませんよ。九曜計都も《休戦協定》を実現させた『女帝』などと呼ばれているだけあり、今のところは《収管庁》を抑えていますが、それもいつまでもつか分かりませんしね」
「……」
《スケアクロウ》の追跡調査を進め、その背後にいる組織の特定を急がなければならなかった。どの組織が何を目的として暗躍しているか。およその推測はつくが、更なる行動を起こすには『証拠』を押さえる必要がある。分かってはいるものの、「言うは易し、行うは難し」だ。
それから秋月は雨宮と自らの任務の進捗を共有する。《収管庁》内での動きや、関東警視庁の動向、そして市井では得られない《中立地帯》の情報などだ。それらを一通り伝え終えると、秋月蛍はふと思い出したように笑う。
「ああ、そうそう。PSC.ヴァルキリーによる移送中、《Zアノン》集団に囲まれことはお話ししましたよね。あの時、《雨宮=シリーズ》の六番を目にしましたよ。六番は《収管庁》の要請を受け、《ヴァルキリー》の支援に当たったということです。おかげで僕は正体を隠したまま、どうにか窮地を切り抜けることができました。その際、六番は僕の存在に気づいたようですが、どこで会ったかまでは思い出せなかったようです。いやあ、彼、本当にいろいろと惜しい人材ですね」
《雨宮=シリーズ》の六番とは深雪のことだ。愉快そうに笑う秋月に対し、雨宮は渋い顔になる。
もっとも、深雪がPSC.ヴァルキリーの用意した護衛車の後部座席に座る秋月蛍を目にし、会澤友春だと気付けなかったとしても不思議ではない。そうと悟られないほど彼の容姿は激変しているからだ。一般人はおろか訓練を受けた諜報員でも、秋月蛍と会澤友春が同一人物であると見抜くのは難しいだろう。
そこに違和感を抱いただけでも大したものだと誉めるべきなのかもしれない。
だが、雨宮はどうも、深雪のこととなると辛口になってしまう。
「……深雪のことか。確かにあいつはいろいろと危なっかしい面も目立つ。できれば今すぐにでも《西宮新都》に連れ戻したいが、そんなことを言っていられるような状況でもなくなった。最低限のことだけでもと思い、あれこれ叩き込んでいるが、『その時』までに使い物になるかは分からない」
「ははは、なかなかの酷評ぶりですね」
「事実を指摘したまでだ」
「しかし、雨宮さんは六番のことをそれなりに気に入っているのでしょう? 碓氷さんがそう言っていましたよ。今でも毎朝、熱心に訓練を行っていると」
それを聞いた雨宮は小さく舌打ちをした。
「ち……碓氷め、余計なことを……!」
「まあ、同じ遺伝子を持ったクローンどうしなのだから、仲が良いに越したことはありませんよ。とことん仲が悪く四六時中ケンカばかり、挙げ句の果てにクローンどうしでの殺し合いに発展した《京極=シリーズ》の二の舞になどなったりしたら目も当てられない」
「……」
京極の名を聞き、雨宮の眉間にひときわ深い皺が刻まれた。現在、《監獄都市》は大きなうねりに吞まれつつある。その中心に《京極=シリーズ》の六番、京極鷹臣がいること、そしてむしろ京極がそのうねりを作り出している張本人であることを雨宮も察知していた。
京極の背後にいる『彼ら』の存在さえなければ、とうの昔に細胞の一遍も残さず焼き殺していたものを。雨宮にとって裏切りほど腹立たしいものはこの世にない。
秋月も面白くない思いをしているのは同じだろうが、顔には出さず淡々と説明を続ける。
「奴に関しては、藤中組と下桜井組、それぞれの幹部層に接触したことが分かっています。そのうち、藤中組はいわゆる上松組弟派を秘密裏に支援し、兄派壊滅の一助を担いました。おそらく近々、下桜井組にも何らかの大きな動きがあるかと思われます」
「京極がすでに二代目桜龍会の構成員五人を操り、《グラン・シャリオ》を壊滅させたことも分かっている。だが、これらはまだ序の口だ。奴はいずれもっと派手な行動に出るだろう。だが、実際に何をしようとしているか、その中身がまだ分からない。今のところ、《アラハバキ》の御三家にそれぞれちょっかいをかけているようだが、それらはあくまで目標を達成するための手段に過ぎない。奴の目的を突き止めるためにも、もう少し泳がせておく必要がある。引き続き情報を収集してくれ」
雨宮が告げたその時、秋月の腕輪型通信端末に着信が入った。秋月は「失礼」と言ってそれを確認する。
次の瞬間、彼はすっと表情を変えた。
それまでの砕けた感じは消え、「勤勉で生真面目」という設定どおりの《収管庁》職員・秋月蛍の人格になりすます。すっかり任務時の顔だ。
雨宮は初めて秋月に視線を向けた。
「《収管庁》か」
「ええ。お喋りはここまでのようですね。……私は任務に戻ります。それでは」
「気をつけろよ」
「はい。雨宮さんもお気をつけて」
秋月は頷くと姿をかき消した。それを見送ってから、雨宮も立ち上がる。
(俺も残りの任務に取り掛からねば。その前に帯刀火澄の様子を確認しておくか)
雨宮ら陸軍特殊武装戦術群は当初、雨宮深雪の監視と陰ながらの護衛を行っていた。深雪は限りなくオリジナルに近い《レナトゥス》をその身に宿しており、世界中のありとあらゆる組織や機関から狙われる身だったからだ。
だが、この世の支配者とも言うべき秘密結社《アイン・ソフ》――いわゆる『彼ら』の次の標的が《監獄都市》そのものだと判明し、事態は急変した。
雨宮たちの任務内容もそれに合わせて《監獄都市》の防衛へと大きく変更されたため、今では深雪に対する監視は減らしている。
単純に雨宮らが忙しくなったことが主な理由であるが、もう一つ、深雪が以前に比べ慎重に動くようになったのでその必要性が減ったこともある。
雨宮や碓氷が監視を始めた当初と比べると、深雪の行動には大きな変化が現れていた。外での活動時には常に東雲探偵事務所の《死刑執行人》の誰かを伴うようになったし、事務所への連絡もこまめに行うようになった。
以前は、たった一人で《アラハバキ》の支配地である《新八洲特区》へと潜入したり、《エスペランサ》へ乗り込んだりといった眉を顰めるような突飛な行動をよく取って、雨宮たちも頭を抱えたものだが、最近ではそういった事態もすっかり激減している。
幸か不幸か、次期・《中立地帯の死神》になると決心したことが、深雪に自制心と注意深さをもたらす契機となったようだ。
雨宮ら陸軍特殊武装戦術群としても、その変化自体は歓迎すべきことだった。
『その時』は着実に近づいてきている。
いざ事が起これば、ゴーストでもある雨宮たちは一般の特務員たちとは違って自ら《監獄都市》の防衛に当たらなければならず、深雪を守りきれるという保証はない。むしろ《監獄都市》を防衛するだけで手一杯になる可能性の方が高く、そうなれば深雪は必然的に自分の力で自分の身を守る必要性に駆られるだろう。
純度の高い《レナトゥス》を持つ深雪には、何がなんでも自力で生き延びてもらわねば困る。
そのためにも、とにかく経験を積まさねば。そう方針を変更し、今はできるだけ手も口も出さないようにしていた。
常に陸軍特殊武装戦術群の誰かが監視を行い、行動を把握してはいるものの、よほどのことが無ければ安易に手助けしたり忠告したりはしない。
どのみち非常事態下に陥れば、この街は上松組の跡目争いとは比べものならないほどの破壊と混乱に見舞われる。そうなれば深雪は全てを自分で判断し行動しなければならないのだ。
仲間が助けてくれるとは限らない。
多くを失っても、それでもなお一人で生きなければならない。
その訓練だと考え雨宮たちは忍耐強く見守りを続けている。
たとえば、深雪が上松組構成員の松瓦屋蔵人に銃を向けられて追いかけまわされたり、九鬼聖夜と共にいるところを《Zアノン》信者に襲われたことも当然把握しているが、その際も雨宮は心を鬼にして監視に徹したのだった。
とはいえ、それで雨宮たちの仕事が楽になったわけではない。来るべき決戦の時に向けて、やることは盛りだくさんだ。
資料分析や通信傍受、協力者から情報を得る獲得工作など、あらゆる手段を駆使して情報を収集。それらを逐一、上司である仙波少佐に報告し、次の指示を仰ぐ。
さらに《監獄都市》内で新たな暴動の萌芽が見られた際は、迅速かつ徹底的にその芽を摘む。
そのため現実空間上はもちろん、サイバー空間上における監視も強化している。
半月ほど前、《中立地帯》や《新八洲特区》で《Zアノン》信者による暴動が起こった際は、インターネット上での陰謀論動画の流布などによって極度の不安や怒りを煽り、さらに認知バイアスを悪用して民心を惑わす、いわゆるハイブリッド戦が仕掛けられた。
もちろん雨宮や碓氷ら陸軍特殊武装戦術群の面々も動画を削除するなどして回ったが、『敵』はよほど高性能な生成AIでも使っていたのかとても対処が間に合わず、完全に後手に回ってしまった。
『敵』の術中にまんまと嵌ってしまったことは痛恨の極みであったが、一方でそういった事態に陥ることも想定のうちだった。
暴動が起こってしまったからには、それを鎮圧せねばならない。特に相手がゴーストである場合は、放水で追い払うなどという生ぬるいやり方はとても通用せず、かといって逮捕や拘束をすることもできない。
すでに《監獄都市》では多くの死傷者が続出しており、一刻の猶予もなかった。
雨宮を始めとした陸軍特殊武装戦術群は、陸軍情報保全部から下された命令の元、いよいよ実力行使に出る。
《Zアノン》信者たちを先導しているのは、《ギガントマキア》というストリートのチームだということは事前に把握していた。
雨宮ら陸軍特殊武装戦術群は暴動を鎮圧するため、《ギガントマキア》の頭である荒良木伴とその取り巻き十三名を秘密裏に殺害し、排除した。
船頭を失った暴徒はあっという間に瓦解し、それによって暴動の勢いも自ずと弱まっていく。
あとは《アラハバキ》の構成員や《死刑執行人》が散り散りとなった残りの暴徒を鎮圧し、騒ぎはようやく収まった。
暴動による混乱に乗じて速やかに《ギガントマキア》メンバーの殺害を行ったため、雨宮らの暗躍を知る者は誰もいない。




