第27話 握手と服従
確かに京極は聖夜にとって許し難い仇だ。
だがその一方で、聖夜の実力をきちんと認めてくれている。
聖夜が京極へ復讐心を抱いているのを知っていて、それでも聖夜を必要としてくれているのだ。
言葉で表すのは簡単だが、誰でもできることではない。大抵の人間は、自分に敵意を抱いていると分かった時点で、そんな危険な相手は追い払い、遠ざける。それが当たり前だ。
だが、京極はそれをしない。
つまりはそれほど聖夜を必要としているということなのではないか。
思えば生まれてこの方、家族を除いてここまで自分の能力を評価してくれた者は他にはいない。体格が良かったため野球を続けてきたが、それでもエースピッチャーになったことはなかった。
決してその能力がなかったわけではない、チームの信頼を得られなかったからだ。この人並外れた容姿のせいで、気づけば自然と『ガチ枠』から排除されていた。
幸い身体能力は高かったので、本気を出さずともスタメン入りはできる。そのおかげか、聖夜は次第に、みなに愛されるマスコットキャラのポジションに収まっていった。
欲を出さなければ仲間に入れてもらえる。
分を弁えていれば全てがうまくいく。
聖夜自身もまたチーム内の人間関係が険悪化するのを恐れ、自らその『不当』な評価に甘んじてきた。自分が欲を出したせいで、もし万が一、チーム内に不和でも生まれでもしたら、その方がずっと面倒だ。
だが本当は、心のどこかで常に疑問に思っていたのではなかったか。
自分の限界を試してみたい。
より高みを目指してチャレンジしたい。
本当は心のどこかでそれが可能な場を望んでいたのではなかったか。
京極は他の者たちとは違う。彼なら聖夜が自ら道化にならなくとも、その成果を正当に評価してくれるだろう。ならば、一度くらいそのチャンスにあやかっても許されるのではないか。むしろ、ここまで自分の能力を求められているなら、それに応えるべきではないか。
そしてもはや、その誘惑に抗う気力は聖夜には残っていないかった。
《グラン・シャリオ》のみなの死を悼むことも、復讐に燃え上がることも。
そして豊の死に責任を感じることも。
聖夜はその全てに対して疲れ果て、心が擦り切れていた。
何より、京極は知っている。
聖夜の罪に気づいている。
――聖夜が豊を殺したのだということを。
自分の悪気ない――けれど、無責任な選択の積み重ねによって、豊は死んだのだということを。
それがたまらなく恐ろしかった。弱みを握られているようで、逆らう事ができなかった。
「……分かりました。獅子座になります。この俺で良いのなら……」
さんざん迷った末、聖夜はそう答える。それを聞いた京極は嬉しそうに右手を差し出した。
「そうか、よく決意してくれたな。ありがとう、聖夜。共に《エスペランサ》を発展させ、より良い未来を掴み取ろう!」
聖夜は京極の右手を取った。京極は力を込めそれを握り返してくる。それは聖夜の意思を歓迎しているようでもあったし、或いは強硬に拘束するかのようでもあった。こちらの手を取ったからには、もう二度と離さない、と。
京極の表情は明るく、この結果に心から満足している様子が窺えた。
だが一方の聖夜は、言いようのない敗北感に打ちのめされていた。
確かに聖夜は、自らの意志で獅子座になることを選んだ。だがそれは、全く誇らしいことでもなければ、輝かしい事でもなかった。
それは同時に、聖夜の京極に対する復讐が挫かれたということでもあるからだ。
《エスペランサ》と京極を選んだということは、《グラン・シャリオ》と豊を捨てたということでもあるからだ。
この時点で、聖夜の京極に対する服従が明らかになったのだ。
聖夜が獅子座になった話は、瞬く間に《エスペランサ》のスタッフ内に広がった。驚くべきことに、ほとんどのメンバーが聖夜に祝福の言葉を送った。妬みや反発など皆無。どうやら聖夜が《エスペランサ》の仲間たちに評価されているという京極の言葉は事実だったらしい。
しかし、その言葉のほとんどは聖夜の耳に届いていなかった。この時、聖夜の頭は、これで本当に良かったのかという疑念と後悔にすっかり支配されていたからだ。
何より、《グラン・シャリオ》のみなを裏切り、見捨てたのだという罪悪感は拭いきれない。どれだけ消したくても、その思いを消し去ることはできなかった。
獅子座になれば京極に近づくチャンスが増える。それを喜ぶべきなのに、なぜこんなに暗澹たる気持ちになるのだろう。
こんなことなら、最初から昇進など断れば良かった。
だが、どれだけ後悔してももう遅い。実際に獅子座になったら、きっと《エスペランサ》のため、京極のために働くことになる。《エスペランサ》という組織がそういう構造になっているからだ。
そして聖夜自身に罪悪感が残り続ける限り、負の感情が京極へ向くことはない。聖夜は《グラン・シャリオ》のことなどすっかり忘れ仕事に邁進するかもしれないし、時たま思い出してもその後悔は自分自身に向き続ける。
自ら獅子座になることを選んだ時点で、その未来は決定づけられてしまった。
全ては京極の手の平の上だ。
それからどう《エスペランサ》で時間を過ごしたのかは覚えていない。気づけば聖夜は荒川区の町屋にある自宅マンションに戻っていた。
時計を確認すると朝の十時ごろだ。窓から明るい日差しが注ぎ込んでくる。これから仮眠を取って夕方七時にまた《エスペランサ》に出勤しなければならない。
しかし眼が冴えてなかなか眠りにつくことができなかった。シャワーを浴びたり、端末で音楽を聴いてみたり。いろいろ試してみたが、全く効果がない。
簡素なベッドに身を横たえていると、牡羊座のスタッフルームで京極と握手を交わしたことが思い出された。
その華奢な体格を考えると、意外なほど力強かった。あの手を握ったのは正しかったのか。自分の選択は間違いではなかったか。
苦々しい問いが何度も浮かんでは消えていく。
何の答えも出ぬままに。
そうこうしているうちに、あっという間に時間が過ぎていき、時計の針は午後四時を指した。
(結局、一睡もできなかったな……)
そういえば、いつもならとっくに涼太郎が戻っている時間帯だが、何故だか今日はなかなか帰ってこない。《ゾーディアクス》昇進の話で頭がいっぱいになり、これまで気づかなかった。
(涼太郎のヤツ……また東雲探偵事務所の《死刑執行人》に会ってんのか)
涼太郎に《エスペランサ》のことをどう説明するか。それも悩みの種だった。嘘を吐くのは簡単だ。だが唯一、生き残った仲間をいつまで欺き続けるのか。
(くそ……何をやってんだ、俺は……!!)
もともと聖夜は幹部になるつもりでいた。そうしなければ、京極に近づけないからだ。それを考えれば、表面上はすべてが順調に進んでいる。何もかもが思い通りだ。
そのはずなのに達成感は皆無で、苛立ちばかりが募った。身を燃やし尽くすような激しい焦燥と自己嫌悪で、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
荒々しく溜息をついたその時、不意に玄関の扉が開く。
そして、ようやく涼太郎が戻ってきた。
「あ、聖夜さん。帰ってたんですね」
涼太郎は手に何やらビニール袋を提げている。聖夜の不審げな表情に気づいたのか、涼太郎はビニール袋をテーブルに置き、中を見せた。
「これ、カレーの材料です。いつもレトルトじゃどうしても飽きるし、《監獄都市》で出回っているものは野菜とか肉とかあんま入ってないじゃないですか。だから久しぶりに、ちゃんとしたものが食べたいと思って」
「……。お前、料理なんてできたか?」
「まあ、炒飯くらいは。カレーは初めてですね。でも、意外と簡単に作れるらしくって、レシピを雨宮さんから教えてもらったんで、挑戦してみようかと」
涼太郎は手を洗うと、まな板と包丁を取り出して狭い台所の上に置き、野菜を洗う。《監獄都市》は深刻な物資不足に見舞われており、野菜を手に入れるのもかなり苦労しただろう。ひょっとして雨宮深雪からの差し入れだろうか。
涼太郎は料理の準備をしながら話しかけてくる。
「聖夜さん、まだ時間あります? カレー一緒に食べません? 美味いかどうか保証できないのがあれですけど……」
「ああ、せっかくだから食っていく」
「あ、あざーっす!」
「……何でそこで礼を言うんだよ?」
「いやだって、自分の作ったメシを自分一人で黙々と食うより、他の人と一緒の方が楽しいじゃ無いっすか?」
最近の涼太郎は、だいぶ以前の明るさを取り戻してきた。すっかり元通りとまではいかないが、虚ろな表情をして一日中、ぼんやりしていた頃よりはずっと元気になった。
(東雲探偵事務所の《死刑執行人》たちのおかげ……か)
聖夜は自分が獅子座になったことを思い出し、またしても憂鬱になった。
《エスペランサ》を選んだということは、東雲探偵事務所の敵となったということでもある。次期・《中立地帯の死神》である雨宮深雪にもいつかそれは伝わるだろう。そうなった時、雨宮深雪はどういう反応を示すだろうか。
それに、涼太郎にもいずれ話さなければならない。「自分は《グラン・シャリオ》や豊を捨て、新しい人生を選んだのだ。よりにもよって、みなを殺した仇の元で幹部として働くことになった。つまり、俺は《グラン・シャリオ》のみなを裏切ったのだ」、と。
しかしどんな顔をしてそれを涼太郎に告げたらいいのか。そもそも涼太郎には、京極の存在すら明かしていないというのに。
苛立ちと後悔で、聖夜は再び混乱状態に陥る。
(くそ、くそ、クソ! 何で俺がこんな目に遭わなきゃなんねえんだ……!!)
京極に復讐することも、《エスペランサ》で働くことも、全て自分で決めたことだ。《グラン・シャリオ》のみなの仇さえ討てば、何もかもが終わると思っていた。
だが、復讐に近づけば近づくほど、ずぶずぶと泥沼にはまっていく。そこから抜けだそうともがけばもがくほど、より深みに入り込み抜け出せなくなっていく。
こんなはずではなかった。――こんなはずでは。
我ながら情けないとは思う。だが、そんな愚痴をこぼしたくなるほど、聖夜は完全に袋小路に迷い込んでしまっていた。
一方、涼太郎は野菜の皮をむき、それを細かく切っていく。少々、手元は覚束ないものの、料理は全くの素人というわけでも無いらしく、一通りの作業はみなできる。涼太郎はその作業の合間に、ふと口を開いた。
「これからすぐ《エスペランサ》へ戻るんですよね? 《エスペランサ》の仕事、楽しいですか?」
それがただの質問であることは分かっていた。単調な作業の合間に振られた雑談に過ぎないのだと。
しかし、自らの選択に迷いを抱いていた聖夜には、まるで非難されているように感じた。そんなに《エスペランサ》での仕事が楽しいのか、《グラン・シャリオ》のみなを裏切ってまで《エスペランサ》にしがみつきたいのかと。
聖夜は思わずバンと机を叩き、立ち上がった。
「せ、聖夜さん!?」
涼太郎は驚いた顔をし、こちらを振り返る。聖夜はテーブルを挟んで涼太郎を睨んだ。
「俺が《エスペランサ》で何をしていようと、お前には関係ねえだろ!! もし楽しかったとして、それの何が悪い!? それとも、お前も雨宮のように俺を責めるのか! 復讐なんてできるわけがないと!!」
「そんな……俺は聖夜さんを責めてるわけじゃありません。ただ、以前、《エスペランサ》で働いていると聞いたから……あのカジノ店は人気店だし、ストリートのゴーストも集まっていて競争率が高い。だから苦労しているんじゃないかと心配だったんです。俺にも何かできる事があればと思って……!」
「ちっ……!」
涼太郎はひどく狼狽していた。彼に悪気が無かったのはその様子からも明らかだった。
聖夜は舌打ちをし、乱暴に椅子に座る。そんな聖夜の様子を伺いつつ、涼太郎が尋ねた。
「……今日の聖夜さん、何ていうか……少しおかしいですよ。いつもと様子が違うっていうか……。何かあったんですか? それに、復讐……って、何なんですか!?」
(……! くそ、つい口が滑っちまった……!)
しかし、今さら本当の事を話すわけにもいかない。涼太郎も調子が上向きつつあるとはいえ、まだ全快したわけではないのだ。何より聖夜自身がまだ話す気になれなかった。
「何もねえよ、お前が気にすることじゃない」
乱暴に言うと、涼太郎も少しムッとした気配を見せる。
「何で……何で話してくれないんですか? 《グラン・シャリオ》にいた頃は重要なことは何でも話し合ってたのに。今の俺にはその価値がないからですか?」
「そんなことは言ってねえだろ」
「今の俺が聖夜さんの役には全く立ててないこと、自分でもよく分かってます。何かしなければと焦るけど、体調は全然思い通りにならなくて、特に動いたわけでも無いのに未だに倦怠感の強い日もある。《グラン・シャリオ》や頼れる仲間ももういない。自分がしっかりしなきゃいけないのは分かっているのに、聖夜さんみたいに次を見据えて動くことすらできない……! でも、そんな俺でも聖夜さんの足手まといになるのは嫌なんです。俺の弱さのせいで聖夜さんを苦しめるなんて……それだけは絶対にしたくない……!!」
聖夜は内心で、涼太郎に強い言葉をぶつけたことをひどく後悔した。
(そうだ……涼太郎はこういう奴だった。《グラン・シャリオ》にいた時も、いつも周りをよく見ていて、チームのために貢献して……豊からも信頼されていた。悪いのは俺の方だ。涼太郎には何も落ち度はねえのに、勝手に苛ついて八つ当たりしちまった。俺は最低のバカ野郎だ)
聖夜は己の短慮を恥じた。
この一週間ほど、いろいろなことがありすぎて余裕を無くしていた。だから、ちょっとしたことに悪意を見出そうとしてしまうのだ。
涼太郎はいつだってチームのことを、そして聖夜のことを心配しているのに。
それは分かっていたはずなのに。
聖夜は声を和らげ、涼太郎に言った。
「涼太郎、お前は足手まといなんかじゃねえし、弱くもねえ。ただ、今はちょっと調子が悪いだけだ。誰だってそういう時はある。無理に何かしようとしなくていい。今は苦しくても、いつかきっと良くなる。また笑顔で暮らせる日が来るさ。……俺はそう信じてる」
すると、涼太郎は思わぬ言葉を口にする。
「だったら……雨宮さんに会ってください。会ってちゃんと話をしてください」
「何……!?」
何故そこで東雲探偵事務所の《死刑執行人》の名が出てくるのか。聖夜は眉根を寄せるが、涼太郎は真剣そのものだった。
「今の俺は、自分のことで手一杯で何もできない。聖夜さんも俺を気遣っていつも言葉を選んで話してますよね? でもそれは聖夜さんの本音じゃない。それくらいは俺も分かってます。でも、相手が雨宮さんなら、聖夜さんも対等に自分の考えを話せるんじゃないですか? 俺に話しにくいことも、本当は言いたくて言えなかったことも、雨宮さんなら全部……!」
「……」
「俺は、大丈夫です。少しは……外出とかもできるようになったし。聖夜さんのおかげで家にいられるのが本当、ありがたいです。俺一人だったら、今ごろどうなっていたか、想像もつきません。だから……聖夜さんももっと自分を大切にしてください。聖夜さん自身のために、雨宮さんと話をしてください。でないと……このままじゃ、聖夜さんまでどこかに行ってしまいそうで……!!」
聖夜は涼太郎の右手が小さく震えていることに気づいた。やはり、涼太郎はまだ本調子ではない。だがそれでも、自分にとっての最善を尽くそうとしているのだろう。
涼太郎は毅然と顔を上げ、まっすぐに聖夜の目を見つめる。
「……雨宮さんは、いつものコリアタウンでしばらく時間を潰すと言っていました。今ならまだ間に合うと思います」
正直なところ、聖夜はあまり深雪と会うことに乗り気ではなかった。今さら会ったところで、話すことなど無いからだ。どうせ《エスペランサ》を抜けろだ何だと言って、喧嘩になるに決まっている。
とはいえ、涼太郎の渾身の気迫に逆らうこともできなかった。
聖夜は私服である黒い革ジャンを羽織り、渋々、自宅マンションを後にする。
(クソッたれ、雨宮の野郎……! 俺と会って話をするために、涼太郎まで利用しやがって……!!)
涼太郎の熱意に負けてつい出てきてしまったが、よく考えてみれば聖夜が深雪と会おうが会うまいが、涼太郎には何ら関係がない。深雪から聖夜にそう伝えろと唆されたとしか思えない。
あの手この手で横槍を入れ、聖夜のやろうとすることをことごとく阻もうとする。そんなにこちらの邪魔がしたいのか。
何も解決できないくせに、「復讐は駄目だ」なんてきれいごとに納得できると、本気で思っているのか。
考えれば考えるほど、むかっ腹が立ってくる。
こうなったら雨宮深雪に直接、苦情を言ってやろう。
二度と俺たちにつきまとうんじゃねえ、さもなくば本当にぶっ殺すぞ、と。




