第25話 対決
『……アイザック=ハミルトンです』
『入れ』
部屋に入ると、有馬剣心が机でパソコン業務をしていた。他には誰もいない。
『失礼します。お話とは何ですか、有馬さん』
すると、有馬はパソコンのデスクトップから目を話し、聖夜を見上げて言った。
『単刀直入に言う。《ゾーディアクス》の獅子座が空席のままなのは知っているな?』
『はい』
かつて獅子座の座にいた幹部は、《エスペランサ》の資金を横領し京極に粛清されてしまったのだ。
『《ゾーディアクス》は店と店長を支える重要なポジションだ。前の獅子座がやらかしてからというものの、獅子座の座は空席のままだが、いつまでもその状態が続くのはまずい。そこで早急に後釜を探さなければならんわけだが、実はお前を獅子座に推す声が上がっていてな』
『は……!?』
驚きのあまり、聖夜の声は思わず裏返った。そしてそれ以上、言葉を何ひとつ発することもできなかった。
確かに上松組のカジノ店を潰したり、転売で収益を上げたりと、それなりに成果を上げてはいるが、他にも結果を出している者は大勢いる。聖夜より立場が上の者や、聖夜より長く《エスペランサ》で働いている者も。
それらの面々を押しのけて、何故、新参である聖夜が抜擢されたのだろうか。
――これは何かの罠か。
驚愕のあまり、そんな疑いを抱いてしまうほどだった。
『……どうして俺なんですか?』
聖夜は慎重に尋ねる。すると、有馬は意外そうに片方の眉を上げた。
『何だ、不満か?』
『そういうわけじゃありません。ただ、俺より獅子座に相応しい者は他にもいるでしょう。俺はまだ組織に入って日が浅い。なぜ俺が選出されたのか、その理由が知りたい』
それを聞いた有馬はニヤリと笑った。
『冷静だな、アイザック。組織のことも自分のことも、お前はしっかり俯瞰することができる。そこが獅子座に選ばれた理由の一つだ』
『……。もう一つは?』
『下桜井組が大型観光開発に手を出していることは知っているな?』
『ええ』
『いずれそう遠くない未来、この《監獄都市》には《壁》の外の人間が大勢やって来るようになる。国内はもちろん、国外からもな。お前は英語ができる。交渉能力も高い。これからはそういう人材がどんどん必要となる。いわゆるグローバル化ってヤツだな。
だからウチも先を見据え、その手の人材を育成していかなきゃならん。そこでアイザック、お前に白羽の矢が立ったというわけだ。……どうだ、納得したか?』
『……』
確かに、有馬剣心の説明に不自然なところは無い。それだけ聖夜が組織に評価され、期待されているということなのだろう。
何より幹部になれば、京極に接近することができる。いよいよ奴をこの手で縊り殺すチャンスがやって来るのだ。この好機を逃す手はない。
――だが。
『おい、アイザック。聞いてるか?』
有馬に声を掛けられ、聖夜はハッと我に返った。
『……すみません、少し考える時間をください』
『それは構わねえが……意外だな。お前なら即答でこの話を受けると思っていたんだが』
『……』
『まあ、慎重なのは悪いことじゃない。一週間後、改めて返事を聞く。それまでにどうするか決めておけ』
それから聖夜は牡羊座の部屋を退出し、日常業務に戻った。表面的には何事もなかった風を装っていたが、内心ではひどく動揺し、頭の中が真っ白になってしまった。
聖夜は己の中にある本当の感情に気づいてしまったからだ。
有馬から「獅子座に推す」という言葉を聞いた時、聖夜の心に湧き上がったのは大きな喜びだった。だがそれは、《ゾーディアクス》の一角である獅子座になれば京極を討つ機会が増大し、復讐をやり遂げることができるということに対する喜びではない。
もっと純粋に、自分の働きが評価された、認められたという喜び――いわば達成感だった。
そして自分が期待されているのだということに対して高揚さえ覚えた。
だが聖夜は、それがあってはならない感情だとすぐに気づく。聖夜の目的は復讐であり敵討ちだ。他の何をおいても、まずはそれを優先すべきなのだ。ましてや憎き京極の手先どもから働きを認められたとて、それを無邪気に喜ぶべきではない。
昇進はあくまで復讐という目的を叶えるための手段でしかないのだから。
目的地まで続く長い階段の一つを上った、ただそれだけのことに過ぎないのだから。
それどころか、復讐ができなければいくら出世などしようと意味は無い。《エスペランサ》に入ったことも、そこで死に物狂いで働いたことも、京極を殺すことができなければ意味など無いのだ。
しかし頭ではどれだけ分かっていても、有馬から昇進の話を聞いた時の爆発するような喜びを消すことはできなかった。
この《監獄都市》で《エスペランサ》ほど自由にやりがいを持って働ける場所は他にはない。
《アラハバキ》は年長者に全ての決定権があり、若手は手足となって働くだけだ。《レッド=ドラゴン》は徹底した血縁主義で、血縁がなければ《東京中華街》に入ることすら許されない。どちらの組織もひどく排他的で硬直化している。
一方、《死刑執行人》はその名のごとく殺しが仕事だ。とても健全とは言えず、真っ当な仕事でもない。たとえ実力があっても、《死刑執行人》にはなりたいとは思えない。
聖夜は《ストリート・ダスト》だったから、なおさらそう思うのかもしれないが。
それらに比べると、《エスペランサ》は誰にも気兼ねなく生き生きと仕事ができる。さらに準構成員から構成員、構成員から幹部へとポジションが上がっていけば、その都度、仕事のやり方や進め方も自分のやりやすいように選択することができるようになる。
全て自分で決められるゆえ、意欲や責任感も湧いてくる。その分だけ競争も激しいが、不思議と全く辛くない。みなが平等な条件で戦い、成果が正当に評価されているからだ。
だからこそ、結果が出たら嬉しい。
依怙贔屓などではなく、自分や仲間たちの力で出した成果なのだと実感できる。
そのうえ競争のルールや条件がみな平等なので、文句を言う者、言いがかりをつける者、嫉妬する者や足を引っ張る者もおらず、組織全体が常に健全であり士気も高い。
《エスペランサ》が成功しているのは決して偶然ではない。京極の手によって成功するための組織づくりが行われているからなのだ。
そして《エスペランサ》はこれからも成長を続けるだろう。
そんな組織で日本語を話さないというハンデを自ら負ったにもかかわらず、ここまで成功することができたのだ。喜ぶなという方が無理な話だ。
聖夜は悩んだ。
《グラン・シャリオ》のみなの敵討ちをすべきという責任感と使命感。
そして、もっと《エスペランサ》で働きたい、もっと自分自身の力で活躍し、成功を自らの手でつかみ取りたいという強い渇望。
その間で、我が身が引き裂かれるのではないかというほど煩悶し葛藤した。
やがて聖夜はぼんやりとあり得もしない可能性について考えるようになる。
(できるなら、もっと早く《エスペランサ》に入りたかった。仲間を殺された復讐のためじゃなく、もっと純粋に己の立身出世だけを考えて《エスペランサ》で働けたら、こんなに悩む必要などなかった。もし《グラン・シャリオ》の件さえなければ、余計なことを一切考えず、心から夢中で《エスペランサ》の仕事に打ち込めたかもしれないのに……!!)
それが死んだ仲間に対する酷い裏切りだと分かっていても、夢想せずにはいられなかった。どんなに乞い願っても、過去を変えることはできない。それは真理だが、自分の本当の感情を押し殺すこともまたできなかった。
《エスペランサ》に来て、聖夜は初めてやり甲斐をもって働くことの楽しさと、実力を認められるということの喜びを知ったのだ。
(涼太郎のことはどうする……? このまま《エスペランサ》で働き続けるとしても、いつかあいつにこのことはばれる。その時、どう説明するんだ!? 京極の存在さえ黙っていれば当面は何とか誤魔化せるかもしれねえ。だが……あいつに嘘をつき続けるのか? 《グラン・シャリオ》の仲間たちを失って一番傷ついているあいつを、これ以上、裏切れるのか……!?)
聖夜の心は揺れ続けた。
《ゾーディアクス》の一員になれば、間違いなく京極を殺すという目標に近づける。冷静に考えれば断る理由などない。
しかし、獅子座になればその瞬間、後には引けなくなる気がしてひどく躊躇われた。
獅子座になってしまったら、必死で胸の中で燃やし続けてきた復讐の炎が消えてしまう気がして。
そんな時だった。雨宮深雪と再会したのは。
彼はまさに《死神》のように聖夜の前に現れた。
仲間の存在を忘れるなどゆめゆめ許さないと、どこまでも追いかけてくる過去の亡霊。
聖夜は乱暴にそれを振り払おうとした。
もう関係ないだろう、頼むから俺を放っておいてくれ。これ以上、余計なことに巻き込み苦しめないでくれ。
しかし《死神》はしつこかった。
恐ろしいほど粘り強かった。
彼がこそこそと聖夜の目を盗み、涼太郎と会っているのは気づいていたが、見てみぬふりをし続けた。雨宮深雪や東雲シロと会うようになり、涼太郎の精神状態が目に見えて回復していることが分かっていたからだ。
涼太郎と会うだけなら……こちらの邪魔をしないのなら。そう思っていたが、やはり《死神》は聖夜のことを見逃してはくれなかった。
『聖夜、自分で自分を苦しめるな! 誰もお前を責めたりしない……涼太郎も豊も、そして《グラン・シャリオ》のメンバーたちも、誰ひとりお前を恨んでなんかいない!! だからお前が自分自身に罰を与える必要はないんだ!!』
何かあるたび、雨宮深雪の言葉が聖夜の脳裏に蘇る。
そしてそれが聖夜の心を激しく搔き乱し、蝕んだ。
彼の言葉とは裏腹に、お前は罰を受けるべきなのだと宣告されたかのようで、身も心も抉り取られるほどの痛みに苛まれた。
(くそっ……何が『誰もお前を責めたりしない』だ! 俺のやっていることが間違いだと思うからこそ、《死神》……てめえも俺にしつこくつきまとっているんだろう!!)
出勤前に深雪と言い争いをした時の内容が頭から離れない。そのせいか、ガードマンの仕事にもどうにも身が入らない。
こういう日こそ転売事業で体を動かしたいが、生憎と今日は《アラハバキ》の構成員や《外国人街》のバイヤーとは会う予定がなかった。
こんな状態では、もし仮に店内で揉め事が起こったとしても、とても対処できなかっただろう。客の少ない日で本当に良かった。
聖夜が仕事に身が入らない理由はもう一つある。
牡羊座の有馬剣心から、幹部 へと昇進し獅子座の座に就くかどうかの返事をする猶予を一週間もらった。ちょうど今日がその一週間後だったのだ。
《ゾーディアクス》になるか、否か。
《エスペランサ》を選ぶか、それとも《グラン・シャリオ》を選ぶか。
その判断を今日、下さなければならない。
緊張した時間が続く。
やがて有馬が現れた。彼の眼が聖夜を捉える。
『アイザック!』
そして親指でこっちに来いという仕草をした。
(……!! とうとうこの時が来やがったか……!)
正直なところ、全く考えはまとまっていない。獅子座になるかどうか、未だに聖夜は迷っていた。
ここが大きな分岐点だという自覚はあったが、何も覚悟ができていない。
しかし呼び出されたからには行かなければならなかった。
意を決し、有馬に促されるまま牡羊座のスタッフルームに入る。
そして聖夜は絶句した。
そこに京極鷹臣がいたからだ。
(京極鷹臣!? なぜここに……!!)
聖夜はサングラスの奥で瞠目する。さすがにこのような展開は予想していなかった。
一体、何がどうなっているのか。あまりにも想定外すぎる事態に反応できず、全身を硬直させるしかない。
一方、京極は英語で有馬に告げた。
『剣心、アイザックと二人で話がしたい』
『は、しかし……』
『大丈夫だ、心配はいらない。俺も英語は多少、話せるから』
そう言うと、京極はにっこりと笑う。《グラン・シャリオ》を壊滅した恐ろしい殺戮犯だとは思えないほどの、爽やかで洗練された笑みだ。有馬はそれが京極の考えであるなら異論はないらしく、一礼するとすぐに部屋を後にした。
聖夜は京極と共に部屋に残される。
(あの京極が目の前にいる……《グラン・シャリオ》の仲間を生け贄にした憎き仇が、いま目の前に……!!)
しかも、部屋には二人の他に誰もいない。殺るなら絶好のチャンスだ。
スタッフルームは手狭で、京極と聖夜の距離は三メートルも離れていない。
一発だ。
たった一発、殴り倒すだけで、聖夜は京極を仕留めることができるだろう。
体格差を考えても、決して不可能な話ではない。京極も当然ゴーストであろうしアニムスも持っているだろうが、この至近距離なら最低でも相討ちに持ち込むことができる。
これはチャンスだ。
まぎれもない、千載一遇の機会だ。
ところがあまりにも突然のことで、聖夜の体はすっかり固まってしまった。まったく心の準備ができておらず、完全に不意を突かれたからだ。
相手に殴りかかったり傷つけたりするのにも、ある程度の心構えがいる。咄嗟の事態に遭遇してもすぐに行動へ移せるのは、よほどの経験や訓練を積んだ者だけだ。
ただ、心臓だけがバクバクと音を立てる。
それはビートを刻むごとにより早く、そして激しくなっていく。
京極は聖夜の心中を知ってか知らずか、端正な顔に、にこやかな表情を浮かべた。左右の均衡が完璧なアルカイックスマイル。『多少』などとは程遠い、ネイティブかと思うほどの流暢な英語で聖夜に話しかけてくる。
『アイザック……だったな。有馬から獅子座の座に就くことを躊躇っていると聞いたぞ。我々はお前の能力を高く評価している。だからこそ、重要なポジションを任せたいと考えた。お前もまた、これまで組織に対し積極的に貢献してきただろう。昇進したいという意欲も人一倍高いはずだ。これは大きなチャンスだと思うが、何を悩んでいる?』
『……』
『何か問題があるなら遠慮なく言ってくれ。こちらで対処できることなら万全を尽くそう』
『……』
よく通るが、決して威圧的ではない。むしろ耳触りの良い声だった。内容も経営者として至極まっとうだ。もし京極と聖夜の間に何の因縁もなければ、聖夜はこの昇進話に飛びついていただろう。
しかし、起こったことを消すことはできない。
過去は決して変えられないのだ。
聖夜の脳裏に《グラン・シャリオ》のメンバーたちの顔が浮かぶ。
二代目桜龍会の事務所へ向かったあの日――拠点を離れる時は確かに元気に笑っていた仲間たち。あれが今生の分かれになろうとは、思ってもみなかった。
最後に涼太郎や、頭だった豊の顔も甦る。みな、聖夜のことを心から信頼していた。聖夜もまたみなを愛し、信頼していた。
(……駄目だ、やはり俺はあいつらのことを忘れられない……この世にいなかったことには出来ねえんだ!!)
返事をしない聖夜に、京極は微かに眉根を寄せる。
『アイザック? なぜ黙っている?』
『……問題ならある。いや、むしろ大アリだ!!』
『アイザック』
『どれだけ時が過ぎ去ろうと。忘れることなどできない! あんたは、俺の……俺の仲間たちを……!!』
これまで抑えつけてきた怒りと憎悪が一気に爆発する。殺気が溢れるのを止められない。あまりの激昂で、全身がグラグラと沸騰するかのようだった。
これまで溜めに溜めてきた全ての感情が、陽炎のようになってその身から立ち昇る。
だが、京極はそれに臆した様子はない。僅かに目を細めたのみだ。
そして、にい、と唇の端を吊り上げる。
『……やれやれ、こちらは破格の条件を提示したつもりなのだがな。そんなに俺のことを殺したいのか、アイザック=ハミルトン』
続いて、最後に付け加えた。
「…いや、本当の名は九鬼聖夜だったか」
最後の一文は日本語だった。
「……!!」
それまで滾っていた怒りや憎しみが一気に霧散し、聖夜の顔からザアッと音を立てて血の気が引く。
京極は聖夜の正体を知っていたのだ。
聖夜が復讐心をもって《エスペランサ》に近づいたことも、京極の命を奪うために《ゾーディアクス》を目指したことも。
全て承知の上で、聖夜を組織に置いたのだ。
その事に、聖夜は鳥肌が立つほどの恐怖を覚える。
何故なら、聖夜は片山湊太という前例を見ているからだ。
以前、所属していたチーム・《ガロウズ》が京極によって瓦解させられたことも知らず、一心に京極を慕い崇めている哀れな青年。だが、京極にとっては聖夜も片山湊太と似たようなものなのだろう。
片山が今やすっかり京極に夢中になっているのと同じように、聖夜のことも手懐ける自信があるのだ。
(くそっ……見くびりやがって……!)
自分は侮られている。その事に対する腹立たしさが、むしろ聖夜を冷静にしてくれた。
焦ってはならない。
まだ復讐のチャンスが完全に消え去ったわけではないのだ。




